ヨハネ21:1-17 『わたしを愛しますか?』 2006/01/22 松田健太郎牧師

ヨハネによる福音書21:1~17
21:1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。その現わされた次第はこうであった。
21:2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。
21:3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
21:4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
21:7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。
21:8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。21:9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
21:10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」
21:11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。
21:12 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋ねる者はいなかった。
21:13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
21:14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現わされたのは、すでにこれで三度目である。
21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」
21:16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
21:17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

僕が牧師になってから始めたヨハネによる福音書のシリーズも、いよいよ今日で終わる事になりました。
1回のメッセージにつき1章ずつのペースで進んできたわけですが、今日はそういうわけでシリーズの21回目になります。

前回の話からクリスマスをはさんだり、年始のメッセージがあったり、おまけに僕が香港に行ってしまった事もあって随分間か開いてしまいましたが、前までの章とはそれほど深くつながりがありませんので、それ程細かく前回の内容を覚えている必要はありません。
(ちなみに前回のお話で、イエス様が復活したところまで終わっています。)
実を言えば、ヨハネによる福音書は前回の時点で終わったようなもので、今日の部分は言ってみればおまけみたいなものです。
おまけとは言っても、あまり重要ではないということではなくて、ヨハネがこの福音書を書く意図から考えたら外れている事でも、これはとても重要な事柄です。

今日のお話の主人公は、ペテロです。
イエス様の1番弟子と言っていいくらいにイエス様に心酔していたペテロと、復活したイエス様との再会を描いているのが今日の箇所ですから、ペテロがどのような人物だったかということと、イエス様と別れる事となった場面を、振り返って考えてみたいと思います。

ペテロはお調子者ではありましたが、大変イエス様に忠実な弟子でした。
漁師であったペテロが、魚が取れなかった日にイエス様と出会い、イエス様の言われたように網を入れると大量に魚が取れた事がきっかけとなり、「お前を人をとる漁師にしてやろう。」という言葉に従ってイエス様の弟子となりました。
湖の上をイエス様が歩いているのを見れば、イエス様が命じになれば自分も同じ事が出来ると言って途中で失敗したり、十字架に架けられなければならないといったイエス様に「そんなことはさせません。」と言ったために悪魔の誘惑として退けられたり、失敗は多くしましたがいつもイエス様の側にいたのはペテロでした。
彼には一番弟子としての自負がありました。
自分は、全世界を敵に回しても絶対にイエス様から離れない。
ペテロは自分にその強さがあると信じていたし、それ程イエス様を愛していたのです。
しかし、イエス様がローマの兵隊達に連れて行かれるときがきました。
ペテロはひとりの兵隊の耳を切り落とすなど、イエス様を護るために必死に闘いましたが、イエス様ご自身がそれを望んでおられない事を知ると、その場を去っていきました。
それでもその後も、ペテロはイエス様の後をついって行きました。
あるいはペテロは、何とかしてイエス様を助け出そうとしていたのかもしれません。

ヨハネ 18:15 シモン・ペテロともうひとりの弟子は、イエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いで、イエスといっしょに大祭司の中庭にはいった。
18:16 しかし、ペテロは外で門のところに立っていた。それで、大祭司の知り合いである、もうひとりの弟子が出て来て、門番の女に話して、ペテロを連れてはいった。
18:17 すると、門番のはしためがペテロに、「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」と言った。ペテロは、「そんな者ではない。」と言った。
18:18 寒かったので、しもべたちや役人たちは、炭火をおこし、そこに立って暖まっていた。ペテロも彼らといっしょに、立って暖まっていた。

18:25 一方、シモン・ペテロは立って、暖まっていた。すると、人々は彼に言った。「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」ペテロは否定して、「そんな者ではない。」と言った。
18:26 大祭司のしもべのひとりで、ペテロに耳を切り落とされた人の親類に当たる者が言った。「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました。」
18:27 それで、ペテロはもう一度否定した。するとすぐ鶏が鳴いた。

その時ペテロの脳裏に浮かんだのは、イエス様が言った言葉でした。
「あなたのためには命を捨てます。」と言ったペテロの言葉に応えたイエス様の言葉。

13:38 イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

ペテロはどうしてイエス様は自分の事を信じてくれないのだろうと思っていた事でしょう。
自分は決してイエス様を裏切らないと、ペテロは信じていたのです。
自分にはできる。自分は強い。
私の信仰は岩より堅い。
実際、イエス様を知らないと言ったときにペテロは、決して不信仰からイエス様を否定したわけではなかったかもしれません。
イエス様を救出しようとして後をついていってたのだとすれば、今自分が見つかってつかまるわけにはいかないと考えていたのかもしれません。
しかし問題は、イエス様が言ったとおり、自分がイエス様を否定したという事実です。
その時ペテロは、自分が信じていた自分の強さ、信仰、イエス様に対する愛が、自分自身のものではないということに気がつきました。
それは自分の力ではない。
自分の力など全然あてにならなかった。そして自分が一番イエス様を理解し、信仰が強いと思っていたのに、イエス様の言っていたことを何も理解しておらず、まったく信じてなどいなかった。
そしてイエス様が十字架で死ぬという事実は、イエス様ご自身が決断した事であり、それは神様の計画であり、決して止める事ができない事なのだということを悟ったのでした。
そこでペテロは、ひとまずイエス様と別れることになりました。

それでペテロの信仰がなくなってしまったわけではありませんでした。
イエス様が捕らえられたときにバラバラになった仲間たちが、やがてまた一つのところに集まり、その中にはペテロの姿もありました。
イエス様が復活した時、その報せを聞いて真っ先に走って行ったのもペテロです。
それから自分の目で、復活したイエス様と会うことができ、ペテロの中で安堵と、イエス様に対する愛情と信仰が増したことだろうと思います。
しかし、ペテロが経験した挫折はとても大きいものでした。
それはイエス様に対する信仰の挫折ではありません。
自分自身に対する挫折です。
イエス様はお言葉の通りに復活された。
イエス様は間違いなく、メシヤであり、神のひとり子だ。
しかし自分には、イエス様のために働くだけの価値などもうない。
私は自分が思っていたほど強くなかったし、イエス様のことを理解できもおらず、信仰もないに等しいものだった。
私は役立たずであるばかりでなく、イエス様を否定した裏切り者だ。
どうして他の仲間と共にいて、イエス様のためのお役に立つことができるだろうか・・・。

挫折を経験した時、私たちはどのような行動をとるでしょうか?
僕が牧師としての働きに失敗し、挫折をしたとしたら、卒業した神学校に戻るかもしれません。
あるいは、食べていくために前まで働いていた会社でもう一度雇ってもらえないか頼むかもしれません。
それとも、家族でベスの両親が住むコロラドへ帰るかもしれません。
いずれにしても、失敗する前の過去に戻ろうとするのが僕のとる行動だと思います。
ペテロも同じような行動を取りました。

21:3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。

ペテロの決断は、自分はイエス様のための働きから身を引き、漁師だった自分に戻るということでした。
そして、ペテロと同じようにそれぞれの中で挫折を経験した仲間たちも、同じように感じてペテロと共に漁師に戻る道を選んだのです。
『ごめんなさいイエス様。私たちはあなたの期待にそって、働くことはできませんでした。イエス様はすべてご自分の計画のまま成すことができる方で、私たちの力など必要としないでしょう。私たちはこうして、私たちの器にあった漁師としての生活をヒッソリと続けていきます。』それが、彼らの思いだったのではないでしょうか。
そして、そこにイエス様がもう一度姿を現したのです。

彼らは魚が一番よく取れる夜、漁に出て行ったのですが、その夜はまったく魚が取れませんでした。

21:4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。

この一連のやりとりで、ペテロにはすぐに、それがイエス様であることがわかりました。
ペテロが初めてイエス様と出会ったときの事を思い出しませんか?
それは、まさに同じ場所であり、同じシチュエーションでした。
だからペテロにはピンときたんですね。ああ、これはイエス様だ!

イエス様に対するペテロの愛は、まったく変わっていませんでした。
イエス様がそこにいるとわかった時、ペテロは裸だったので急いで上着を着ると、湖に飛び込んで、大好きなイエス様の元まで泳いでいきました。
水に飛び込むのにわざわざ上着を着たのは、尊敬するイエス様の前で裸のままでいることに耐えられなかったからです。
成長したと思いませんか?
猪突猛進だった今までのペテロなら、慌てて裸のままで飛び込んだでしょうし、ひょっとしたら「イエス様が命じてくだされば歩いて御許まで参ります。」などと余計なことを言っていたかもしれません。
挫折の痛みが、あのペテロを成長させていました。
砕かれる痛みは苦しいですが、人を大きく成長させるのです。

さて、他の弟子たちが魚でいっぱいになった網を引きながら小舟でやってくると、イエス様はその魚で食事の用意をさせました。
網には153匹の魚が入っていたと書かれています。数えたんですね。
別にこの数に意味があるわけではありません。
あまりにも多いので、数えてみると153匹入っていたのです。
普通の漁では絶対にありえないような大漁、そしてそれでも網が破れることはなかったという奇跡がここに示されています。
主の力が働かれるとき、そこに入ることができる以上の数の魚が入っても、網は破れなかった。それは、自分の器の小ささを実感していたペテロたちにとっても、大きな慰めとなる奇跡だったことでしょう。

さて、ここでイエス様と弟子たちは、その魚で夜明けの朝食を共にします。
ここには2つの意味があります。
ひとつは、イエス様が幽霊ではなく、食事を食べるのだということを示したということです。
今ここにいるのは、夢でも亡霊でもない。
復活した私があなたと共にいるのだということを示すため、食事を共にしたということが一つの理由です。
もうひとつは、弟子たちへの慰めのためです。
弟子たちは意気消沈していたのです。
イエス様が復活したという喜びももちろんありましたが、それ以上に自分たちの不甲斐なさ、臆病さ、信仰の弱さに絶望して、彼らは昔の自分にもどってひっそりと暮らそうと思っていたのです。
そんな弟子たちを、イエス様は決して叱るような事はしませんでした。
「何をしているのだ。こんな事のために私はお前たちを召したのではない。さぁ、立って今こそ伝道しなさい!」とは言わなかったのです。
「お前たちがこんなところでくじけてどうするんだ。頑張れ!」でもなく、
「私の何がいかえなかったんだ。さぁ、話し合おう。」でもありません。
イエス様は何も言わず、みんなと一緒に火を囲んで腰掛けると、
「さぁ、飯でも食おうや・・・。」
それだけでした。
それだけで、十分でした。
なんか、人情にあふれていると言うか、人間味があると言うか、そうは思いませんか?

殆どの弟子達がこれで立ち直りました。
しかし、ペテロだけはこれだけでは癒されない大きな傷を心に持っていました。
それは、イエス様を3度に渡って否定してしまったという過去です。
そこで食事の後、イエス様が今度はペテロだけに語りかけます。
これは、ペテロだけに与えられた、ペテロに対するイエス様からの最後の試練です。

21:15a「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」

ペテロと言うあだ名ではなく、ヨハネの子シモンという本名を持って、イエス様は改まったようにペテロに問います。
“この人たち以上に”という言葉に、ペテロの心はズキンと痛んだかもしれません。
これがペテロの中にいつもあったプライドだったからです。
自分は誰よりも信仰が強く、イエス様を理解している。誰よりもイエス様を愛している。というのがペテロのプライドであり、そのプライドはイエス様を3回否定した時にずたずたに引き裂かれてしまったのです。
イエス様はそのことを知っていて、わざとこの様に問うたのでした。

21:15b ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」

ここでもペテロの成長が伺えます。
以前なら、「はい。主よ、私はここに居る誰よりもあなたを愛します。」と平気な顔で言った事でしょう。しかしそうは言えなくなったペテロは、謙遜に、「私があなたを愛する事は、あなたがご存知です。」とだけ応えました。
そのペテロにイエス様は、

21:15c「わたしの小羊を飼いなさい。」

と命じます。
小羊とは、クリスチャンになったばかりの信仰の浅い人々です。
若いクリスチャン達を霊的に育て、養いなさいとイエス様はペテロに命じたのです。

次に、イエス様はペテロに語り掛けました。

21:16a イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」

また同じ質問。しかし今度は、“この人たち以上に”とは言いませんでした。
そしてペテロは答えます。

21:16bペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」

今度はイエス様は、“羊”すなわち成長したクリスチャン達を養うために働きなさいと命じます。
そして、もう一度イエス様はペテロに問いました。

21:17a イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。

イエス様が3度目に同じ質問をした時、ペテロはその意図を理解したでしょう。
あの寒い夜、焚き火を囲む中で、ペテロが3度イエス様を知らないと言ったその出来事が彼の脳裏をよぎりました。
今朝食を終えて、あの時と同じように焚き火を囲みながら、イエス様はペテロに「あなたを愛します。」という機会を3度与えて下さったのです。
ペテロはいたたまれなくなって言いました。

21:17b「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」

「主よ。あなたはすべてのことをご存知です! 私の愛は、あなたの愛のように完璧なものではありません。しかしどれだけ失敗を重ねても、私に出来る限りの愛であなたを愛するということを、あなたはご存知のはずです。」
ペテロは自分の弱さを自覚しながら、今の自分に言える最大限のことをイエス様に伝えました。

21:17cイエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい」

最後にイエス様は、イエス様ご自身が羊のために命を捨てる“よき羊飼い”だったように、ペテロにも他のクリスチャンのために命を捨てる羊飼いであるように、ペテロに命じました。

ペテロが初めてイエス様に出会って、「人をとる漁師にしてあげるから来なさい。」と言われて召された時には、ペテロはたくさんの弱さを持った、クリスチャンのリーダーとなるには不適切な人物でした。
今もまだ、たくさんの弱さを持ちながら、ペテロは傷つき、躓き、砕かれて、しかし少し成長して、真のクリスチャンのリーダーとして召されました。
私達もそれぞれが神様から与えられた使命を受けています。
今の自分に信仰が足りないから、知識がないから、性格に問題があるから、人間的に頼りないから神様の期待に答えられないのは当たり前の事です。
しかし多くの経験の末に、私達が神様に遣える器として整えられていくということを、何よりも神様ご自身がご存知なのです。
イエス様は決して、あなたにがっかりする事はありません。

あるいは、今失敗し、人生に挫折している方はいらっしゃるでしょうか?
私達が失敗し、挫折する時、主は私たちをムチ打つのではなく、慰めを持って迎えて下さるということをどうか覚えていて下さい。
山も谷もない人生なんてありません。
今は満ち足りていても、やがて苦しみや転落を味わう時が誰にでも必ず来ます。
そんな時、イエス様は私達と一緒に立ち止まり、温かいパンとよく焼けた魚を差し出して、
「さぁ、一緒に食べて温まろう。」って言って下さるのです。

私達が主からそのような慰めを受け、一歩ずつ成長していく時、私達は表面的に行いばかりを気にするクリスチャンではなく、内側から変えられていってやがて主と同じ姿へとされていくのです。

猪突猛進で、単純で、お調子者だったペテロは、この後初代教会の土台をつくる大きな役割を果たしていく事が、使徒の働きの中で描かれています。
みなさんの弱点はなんでしょうか?
みなさんが躓き、挫折しているのはどんなことでしょうか?

イエス様が今、あなたを食事に招き、この様に問うておられます。
「あなたは、わたしを愛しますか?」

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