ヨハネ3:1-15 『新しく生まれるなら』 2009/08/30 松田健太郎牧師
ヨハネ 3:1~15
3:1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」
3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
3:8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
3:9 ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」
3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。
3:11 まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。
3:12 あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。
3:13 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。
3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」
皆さんは、充実した、素晴らしい今を生きているでしょうか?
もしかしたら皆さんの中には、何か満足できない、あるいはがっかりするような今を生きている人がいるかもしれません。
今の自分に満足できない人には共通点があります。
それは、その人が過去に捕らわれてしまっているという事ではないでしょうか?
「昔はこうだったのに。」と過去の栄光にいつまでもすがり付いていたり、あるいは過去の経験に縛られて建設的に生きる事ができない人は、決して幸せな現在を生きる事ができません。
ニコデモという人は、パリサイ派というとても厳しい信仰をもつユダヤ人でした。
彼は聖書を教える教師であり、イスラエルの政治家でもありました。
おそらく誰からも尊敬され、社会的な立場も、人生経験もイエス様よりずっと上でした。
そんなニコデモが、イエス様に教えを請う所からこの話は始まっているんです。
それはニコデモが、今の自分の中に何か足りないものを感じていたからです。
密かに悩みを抱えるニコデモの耳に聞こえてきたのは、イエスという人の噂でした。
苦しむ人々の友となり、人々を癒し、力を与え、喜びに満ちさせるナザレのイエス。
ニコデモは自分には欠けてしまっているものを、このイエスという人の中に見つけられるのではないかと望みを託したのです。
自分に足りないものは何か、一体何を加えればいいのかという問いに対するイエス様の答えは、ニコデモの意表を突いたものでした。
3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
ニコデモがこの時何歳だったかという事は詳しくわからないのですが、人生の終わりに差し掛かっていただろうと思います。
ここまで生きてきて、まだ足りないと感じるのはなぜだろう、何が足りないのだろうと思っていたら、イエス様は「足りないのではない。新しく生まれなさい。」と言ってきた。
途方にくれてしまうのも無理はないかもしれませんね。
しかし彼もまた、過去に捕らわれているひとりだったのです。
だからイエス様はニコデモに、「過去に支配されるのではなく、新しい命に生きなければならない。」と言われたのではないでしょうか。
ニコデモが捕らえられている過去、それは罪人としての自分です。
キリスト教で罪という時には、わたし達が一般的に罪だと言うような犯罪だったり、人を傷つける様な悪いことだけを意味するのではなく、神様から離れた状態の事を指します。
わたし達は、自分を創造してこの世界に送り出してくれた神様を忘れ、自分自身が神になろうとしている。
これが全ての罪の根源にあるものであり、わたし達はこの罪に支配されているんです。
わたし達の今は、良くも悪くも、過去の積み重ねによって作られてきたものです。
そうである以上、わたし達が罪の上に積み上げられてきた過去に更に何かを足しても、根本的には何も変わりません。
わたし達はこの状態から抜け出して新たな命に生きるのでなければ、真の幸せを手にすることはない、神の国を見出すことはできないとイエス様は言っているのです。
メッセージの後、わたし達は洗礼式を執り行いますね。
洗礼は、わたし達がこれまでの肉としての自分、罪人としての自分に死に、神様と共に、聖霊によって新たな命を生きる事を象徴した礼典です。
この教会では水を垂らすだけですが、多くの教会では全身を水の中に沈めて、上がってくるという方法で洗礼を執り行います。
それは、古い自分に死んで、蘇りの新たな命に生きるという事を意味しているのです。
その事を、これから洗礼を受ける皆さんにも、また立ち会う皆さんにも理解しておいて頂きたいと思います。
しかし、洗礼式というのは、その事を象徴した儀式でしかありません。
洗礼を受けて何十年と経った人であっても、罪人としての自分という過去に捕らえられたまま生きている人はたくさんいるのが実際のところだと思います。
しかし、わたし達はいつまでも、過去に自分自身を支配させてはいけません。
わたし達は、過去を変えることはできなくても、今を変え、未来を変えることはできるのですから。
イエス・キリストと共に、そして聖霊によって生きる命には自由があります。
この新しい命には、力があり、喜びがあります。
苦難や困難も決してなくなるわけではありませんが、決して尽きることのない希望がそこにはあります。
これから洗礼を受ける方たちはもちろんの事、ここに集まった他の皆さんも、今日を新たな命に生きる時として決断してみてはいかがでしょうか。