ヨハネ3:1-6 『もうひとつの命』 2005/7/3 松田健太郎牧師

ヨハネによる福音書3:1~6
ヨハネ 3:1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」
3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。 3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

ヨハネ3章1~6節
今日は野外礼拝という事で、行徳恵み教会の皆さんとも一緒ですが、引き続いてヨハネによる福音書を読んでいきたいと思います。

ある晩にニコデモという人物が尋ねてきた事からこの話は始まります。
このニコデモという人は、パリサイ派のユダヤ人であり、政治的指導者でもありました。
パリサイ派の人々は宗教的にとても尊敬されている人たちでしたし、政治的な指導者になれるくらいの人ですから、地位があり、人望があり、それなりに有名な人でもあったでしょう。
そのニコデモは夜、イエス様を訪れています。
彼が夜イエス様の元に来たのはなぜだったでしょう。
これは色々な説があることですが、ひとつ言える事は、ニコデモはイエス様を訪れるのを他の人たちには見られたくなかったのだろうという事です。
ニコデモは有名でしたが、イエス様はこの時はまだそれほど有名ではありませんでしたから、教養やプライドが邪魔をしていたかもしません。
それでもニコデモはイエス様を求めてやってきました。
彼は人から尊敬され、議員になるほどの財産もあり、いつも指導を仰がれる立場にいたはずです。それでもニコデモは、依然として満たされないものを心に持っていました。
聖書によれば、わたし達にできる最善のことは、救いを求めるということです。彼は正に、イエス様に救いを求めてやってきました。
彼はイエス様のところに来ると開口一番、この様に切り出しています。
3:2「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」
ヨハネの福音書では奇蹟の事を“しるし”という言い方をしてます。なぜでしょうか?
これは先週のメッセージでも話したことですが、イエス様のなさる奇蹟は、ただ不思議な事が起こるということではありません。
イエス様が誰かをかわいそうに思ったり、喜ばせてやろうと思って奇蹟を起こすわけではないのです。
イエス様が行った奇蹟が何のしるしなのかと言えば、第1にそれはイエス様が神の子なのだという事の証明です。
ニコデモの言動から、彼がそのことを理解していた事がわかります。
だからこそニコデモはイエス様を訪れたのです。
この時ニコデモの心の中では、「この人ならわたし長年の疑問に答えることができる。イエス様なら、わたしの中にある心の飢え、魂の渇きを満たすことができるはずだ。」という無言の叫びが響き渡っていました。
そしてイエス様も、ニコデモの無言の叫びを敏感に感じ取っていたのです。
イエス様の答えはこれでした。
3:3「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
ここで言われる神の国とは何のことなのか、また別の機会に詳しくお話しようと思いますが、ここでは救いという言葉に置き換えて考えて見てください。
イエス様は、あなたが求めている救いは、新しく生まれ変わるのでなければ得ることはできない。と言ったのでした。
新しく生まれるという言葉を聞いて、ニコデモは赤ちゃんとして生まれてくる肉体の誕生の事しか考える事ができませんでしたが、イエス様がここで語っているのは霊の誕生でした。
イエス様は聖霊を受けて、霊による生まれ変わらない限りは、あなたが求めている救いはないのだと言い換えています。
わたし達が生まれたときから持っている肉体の力で生きようとするなら、やがては疲れ果ててしまいます。しかし、わたし達が霊によって生まれ変わるのなら、そこには神様からの永遠の命に溢れ、それは決して尽きる事はありません。
先ほどの賛美を覚えているでしょうか? これは、自分の力では抜け出る事ができない罪の罠から逃れようとするパウロが、よろこびと共に賛美した聖書の中の真実です。Ⅱコリント5:17「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなしました」
わたし達が新しく生まれ変わるなら、私達はもう罪の中に生き続ける必要はありません。罪がもたらす不安や、苦しみから、解放される事ができるのです。
では、どの様にしたら霊によって生まれ変わる事ができるのでしょうか?
霊の生まれ変わりには、肉体の誕生と似通った部分があります。

① 私たちが自分の努力でこの肉体を創ったのではないように、霊を創るのも私たちではなく、神様から与えられるものです。
神様が、賛美するための魂を与え、神様が、信仰によって見る目を与え、神様が、キリストの愛を思う心を与えてくださるのです。

② 誕生には安産もあれば難産もあります。
わたし達が自然に生まれてくるのに任せようとせず、自分の力で生まれようとするのであれば、それは返って難産になってしまいます。
私達は自分の力、努力で生まれ変わろうとしてはいないでしょうか?
もしその生き方を続けるなら、そこには返って痛みと苦しみが伴います。
どうか、神様にすべてを委ねる生き方を学んで欲しいと思います。

③ 赤ちゃんを産もうとするお母さんにとって出産の痛みが大変な事であるように、霊の出産も血と痛みが伴います。
ただし、その痛みを経験するのは赤ちゃんとして生まれてくる私たちではなく、産んでくださる神様です。
イエス様はわたし達ひとりひとりのために、十字架に掛かって私たちの代わりに痛みと苦しみを経験して下さいました。そこには私たちの血ではなく、神様の血が流されたのです。
母親が出産の時に経験する痛みは、男性が経験したら死んでしまうくらいのもだといいます。しかし、神様がそのために経験してくださった痛みは、それよりも大変なものでした。

ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほど世を愛された。それは、御子を信じるものが、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。」

お腹を痛めて生んだ子を愛さない母親がいるでしょうか? そのように私たちを新しく生んで下さった神様が、私たちを愛さないはずがあるでしょうか?
新しい命を受けるために、どうか神様のその愛を受け入れてください。

3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。 3:8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」

風がどこで生まれて、どこに行き着くのかを言う事ができないように、霊による生まれ変わりも、実際にどの様に起こるのかは判らないかもしれません。
しかし、風によって音が聞こえたり、煙が動かされるのを見る事ができるように、私達は霊によって生まれ変わった人たちに変化が起こるのを見る事ができます。

パウロは元々、クリスチャンを迫害していたパリサイ派の過激なユダヤ教徒でした。
そのパウロが霊によって生まれ変わったとき、彼は多くの人々に福音を伝え、特に異邦人伝道には欠かす事のできない人となりました。
12人の使徒たちは、イエス様が十字架にかけられたときにことごとく逃げ、裏切り者となってしまいましたが、彼らが霊を受けて生まれ変わった時、彼らは例え殺されても福音を述べ伝える勇気を与えられました。
知識も教養もなく、イエス様が生きていた時には見当違いなことばかり言っていた弟子達は、時には雄弁に、時には自らが奇蹟を起こしながら福音を述べ伝え、人々を救いへと導いていきました。

皆さんはもう、新しい命を手にしているでしょうか?
もしまだなら、一刻も早く、皆さんがイエス様を信じ、霊の命を手にする事ができるように祈ります。

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