ヨハネ6:53-57 『いのちある信仰』 2007/04/01 松田健太郎牧師

ヨハネ 6:53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
6:55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。

今日は一ヶ月に一回の聖餐式の日です。
この教会では、月に一度聖餐式を行っていますが、これは教会の伝統によってまちまちですね。
毎週執り行う教会もあれば、形だけのものにならないために、いつ執り行うかを定期的には決めず、不定期に突然執り行うという教会もあります。

また、誰が聖餐にあずかる事ができるのかという事に関しても、色々な考え方があります。
カトリックの教会では、誰でも受ける事ができるそうです。
プロテスタントの教会でもっとも一般的なのは、洗礼を受けた人だけが受けるものであるという考え方ですね。
私達の教会では、洗礼を受けていなくても、信仰を持つ人は、大人だろうと子供だろうと、例えからし種のような信仰であったとしても聖餐にあずかっていただくようにしています。

これも、それぞれの考え方があり、伝統があり、神学があります。
どれも話を聞けばもっともなもので、聖餐をどのように捉え、何を受け取るのかの違いはありますが、聖餐式の大切さには変わりがありません。

私達が気をつけるべきなのは、聖餐式が形骸化して、形だけの儀式になってはならない事だと思いますね。
いつかこの様な機会を持とうと思っていましたが、来週はイースターがあることもあって、今日は聖餐の意味についてお話しする事にしました。

メッセージの後で、実際に聖餐式を執り行いますが、その時に皆さんの中で、聖餐式が形だけのものとならず、もっと心の深い部分で受け取る事ができるようになれば幸いです。

① キリストにあるいのち

ヨハネ 6:53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。

私達は誰も、死という運命を免れる事ができません。
「人生は不平等だが、死だけは平等に、全ての人に訪れる。」とある人は言いました。
歴史上多くの人々がこの死を恐れ、何とかして死を免れる方法がないのかと、不老不死の研究を続けてきましたが、誰もそれを成し遂げたものはいません。

しかし、死は私達の肉体だけを蝕むものではありません。
私達の心がひどく傷つく時、私達の心は死んだようになってしまいます。
感動する心を失い、泣く事も笑う事も忘れてしまった人たちがたくさんいます。
何が良い事か、悪い事かの判断がつかなくなり、人とは思えないような冷酷さを身に着けていくのも、心が死んでしまった人の特徴のひとつです。

そして、もうひとつ。
私達は誰もが、霊的に死んだ状態にあるということです。
私達の霊が死んでしまっているので、私達には霊的な存在である神様を見る事も感じる事もできません。
結果的に、放っておけば私達が神様から離れてしまうのも当然の事です。

この3つの死は、すべて私達の罪というものが原因で引き起こされるものです。
罪は、私達を蝕み、侵していく、毒のようなものです。
全ての人々を死へといざなう罪を、私達全ての人間が背負っているのです。

パウロは叫んでいます。

ロマ 7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

知的で、カリスマ的な影響力を持っていた使徒パウロ。
その彼をして、“なんとみじめな”と言わせてしまうのが罪であり、死というのろいの力です。
しかし私達は、そんな死ののろいから私達を解き放つ事ができる方を知っています。
それこそが私達の救い主、イエス・キリストなのです。

イエス様は神様なので、歴史上ただひとり、罪を持たない人間でした。
罪がないなら、罪の結果である死も、イエス様には経験する必要がなかったのです。
そのイエス様が、私達の罪を背負って十字架につき、死んでくださった。
それは、私達が支払わなければならなかった死という罪の代金を、イエス様が私達の代わりに支払ってくださったという事です。

私達がそれを信じて受け取るなら、私達には新たないのちが与えられると聖書には書かれています。
みなさんはそのいのちを、すでに手にしているでしょうか。
名医は人の命を救えるかもしれません。
しかし、人に新しいいのちを与えられるのは神様だけです。

イエス様が捧げてくださった体と、流してくださった血潮、イエス様の死こそが私達にいのちを与えるのです。
人の子の肉を食べ、血を飲むというのは、その事を表しています。
私達は、そこに新しい命が与えられているのです。

② あふれるいのち
では、私達クリスチャンは新しく生まれて、新しい命を受ける事ができたはずなのに、すべてのクリスチャンが必ずしも生き生きしていないのはなぜなのでしょう。

私達が生き生きしていようと、新しい命が与えられているにもかかわらずがっくりしていようと、救われていることに変わりはありません。
すべてのクリスチャンは死後、天国に行きます。
でも、せっかく新しい命が与えられたのだから、いのちにあふれた生活を送りたいですね。

なぜ、生き生きしたクリスチャンと、そうではないクリスチャンができてしまうのでしょうか。
実は、イエス様の次の言葉にヒントが隠されています。

6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

この言葉は一見、前の節で言われた事と同じ事の繰り返しのように聞こえます。
日本語では、ほとんど差がありませんね。
しかし原文では、“食べる”“飲む”という言葉が、より強調的な言葉を使って書かれているのです。

ここで使われている“食べる”という言葉は、食欲の旺盛な動物が餌をバリバリ食べるときに使われる言葉です。
つまり私達は、ただ単に信じる事によって確かに救いを受ける事ができるけれど、それだけなく、食欲旺盛な動物のように、貪欲に信じていくということもできるのです。
そして、そんな風に積極的に信じれば信じるほど、私達は生き生きしたクリスチャンとして成長していくことができるのです。
私達は時として、お上品過ぎてしまうのかもしれませんね。

イエス様はさらにこの様に言いました。

6:55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。

私達が食べたものが、体の中に吸収され、私達を生かす栄養となり、エネルギーとなるように、私達が信じる事によって心のうちに取り込まれたイエス様の体と血潮は、私達の中で大きな力を発揮していきます。
それは、イエス様ご自身が私達の中で生きてくださるからです。

ガラテヤ2:20 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

私達がどうしても赦す事ができない人を、私達の内に住まわれるイエス様が私達の心を使って赦し、私達がどうしても愛せない人を、イエス様が愛してくださいます。
私たち自身の力では到底できないような事も、私達の内に住まわれるキリストによって、私達は可能になっていくのです。

御言葉を聞いても好き嫌いをして、自分の気に入るところしか受け入れなかったり、おいしい部分ばかりを食べていれば、栄養バランスが偏って病気になってしまいます。
クリスチャンとなったはずなのに、あまり元気がない、ため息ばかりついて、悩んでばかりいるという方はいないでしょうか?

どうか、食欲旺盛な若者達のように、積極的にイエス様を信じ、受け入れてください。
皆さんの心にキリストの愛がやがて満ち満ちて、あふれ出す時が必ず来るはずだからです。
私達がイエス様の肉を食べ、イエス様の血を飲むという言葉には、この様な意味も含まれているのです。

③ 聖餐式の意味するもの

Iコリント 11:23b すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、
11:24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」
11:25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」

ユダヤ人たちに捕らえられるその晩、イエス様は念を押して、もう一度弟子達に同じ話しをしました。
これから十字架にかかろうとするイエス様が、その死の意味を弟子達に伝える必要があったのです。
そして、イエス様の十字架の信仰によって、人々は新たないのちを得るという事を語ろうとしていたのです。
かつては、5000人の人々のおなかを満たした5つのパンがイエス様を表していましたが、この日には、過ぎ越しの種無しパンが用いられました。

イエス様の命と引き換えられた、私達の新しい命、それは私達に与えられた新しい契約に基づいたものです。
私達の罪のためにイエス様の体が引き裂かれ、イエス様の尊い血が流されなければならなかったということ。
そして、私達が食べるパンやぶどう酒が私達の体に吸収されて私達の体を作っていくように、イエス様の十字架での死を信じる信仰が、私達に新たな命を与え、魂を豊かにしていくのです。

これから私達も聖餐式を執り行います。
ここで私達が口にするパンや、ぶどうジュースは、イエス様の引き裂かれた体と、流された血潮を象徴しているのだという事を思い出してください。
そして、私達が口にするパンやぶどうジュースが、私達の体を形作っていくように、イエス様の十字架の購いこそが、私達の新しい命を作っているのだということを思い出して欲しいのです。

信仰を持たない方々にとっては、このパンとぶどうジュースは、ただのパンであり、ぶどうジュースに過ぎません。
いや、それだけではありません。
聖書にはこの様に書いてあるのです。

Iコリント 11:27 したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。

神様が喜ばれるのは神様との関係と私達の心であって、儀式としての行いではありません。
信じる心なしに儀式にだけ参加するというのは、むしろイエス様のからだと血を軽々しく扱う事になっていまいます。
もし信じていないなら、信じているふりをする必要はまったくありません。
それでも私達は腹を立てたりしませんし、皆さんが私達の仲間であり、家族の一員である事に変わりはありません。
どうか安心して、聖餐のパンとぶどうジュースを取らないで置いてください。

しかし、もし皆さんの中に少しでも信じる思いがあるのなら、皆さんもどうか私達と同じように聖餐にあずかってください。
皆さんがどこの教会に属しているか、洗礼を受けているかどうかは問いません。
また、まだ誰にも信仰を告白した事がなかったとしても、皆さんが今イエス様を救い主として信じるのなら、パンとぶどうジュースを取ることによって信仰の表明をしてください。
これから洗礼の準備を進めていけたら幸いですね。

子供達も、イエス様を信じるなら、遠慮なくパンとジュースを取ってね。
でも、他のお友達が取っているからというだけだったら、取らないでまわしてください。
後で残っている分を分けてあげるからね。

それでは心を整えて、自分自身に問いかけてみてください。
本当に私はイエス様を信じているか、お腹のすいた若者のように、むさぼる様にイエス様を求めているか。
どうかその様な思いを持ってイエス様の救いを受け取る事ができるように、しばらくの時間黙想しましょう・・・。

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