ヨハネ9:1-13 『神のわざが現れるためです』 2005/08/28 松田健太郎牧師
ヨハネによる福音書9:1~13
9:1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
9:2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。
9:4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
9:5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
9:6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
9:7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
9:8 近所の人たちや、前に彼がこじきをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」
9:9 ほかの人は、「これはその人だ。」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ。」と言った。当人は、「私がその人です。」と言った。
9:10 そこで、彼らは言った。「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか。」
9:11 彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい。』と私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」
9:12 また彼らは彼に言った。「その人はどこにいるのですか。」彼は「私は知りません。」と言った。
9:13 彼らは、前に盲目であったその人を、パリサイ人たちのところに連れて行った。
ここ何年かの新聞では、災害や戦争、犯罪のニュースが耐えた事がありません。
明るいニュースが無いわけではありませんが、あまりにも暗いニュースばかりが多いので、この世が闇に覆われてしまったかのようです。
私たちの人生は、決して平坦なものではありません。
何十年の人生なのかは人によって全然違いますが、生涯いいことしか無かったという人生を送る人は恐らくひとりもいないでしょう。
例えそれが判っていても、私達は可能な限り幸福に過ごしたいと思うものです。
色々な方々と神様の話をする中で、本当に多くの人が疑問に思う事があります。
それは、神様が全知全能であり、私たちの事をそれ程愛していると言うなら、この世にはどうしてこれ程の悪や、悲劇が存在するのかという疑問です。
「なぜ自分がこの様な目にあわなければならないのか?」
「どうして私だけにこんな事が起こるんだろう?」という思いは、同じ疑問から生まれているのかもしれません。
今日の箇所は、その疑問に対する答えの一部となりえるのではないかと思います。
① 苦しみは何のため
イエス様一行は旅の途中、生まれつき目が見えない人と出会いました。
弟子達はそれを見て、イエス様に尋ねます。
9:2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
私達は何か悪い事、痛みや苦しみに直面した時、その原因が罪にあって、罰(バチ)が当たってしまったのではないかと考えてしまう傾向があります。
仏教では因果応報という言い方をしますが、この様な考え方が何も東洋から広がった価値観と言うわけではなくて、この当時のユダヤ人たちにとっても一般的なものだったということが判ります。
私たちが直面する苦難の中には、確かに自分がやったことに対する結果起こってしまったものがあります。
誰もが、自分の蒔いた種を刈り取ることになるということは、聖書の中にも書かれています。自分の行いが原因となって結果として良い事や悪い事が起こるということはあるでしょう。
しかし、今起こっていることの原因が誰にあるのかという追求をすることからは何も解決する事ができません。
イエス様の言葉は、そのような価値観とはまったく違うものでした。
9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。
この人が目が見えないで生まれてきたということは、罪のための結果ではなく、神様のわざがこの人に現れるためのきっかけなのだとイエス様は言うのです。
私たち人間は未来の事を見ることができませんから、ある事柄の動機を過去に探します。
しかし神様の目には、その事柄があった結果何が起こるのかということが見えています。
そして私たちを愛して下さる神様は、ただ単に私たちを苦しめるために苦難や試練が起こることを許される方ではないということです。
パウロはローマのクリスチャンに宛てた手紙でこの様に書いています。
ロマ 8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
また、イエス様はオリーブ山でこのように伝えてくれています。
マタイ 5:11 わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。 5:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。
皆さんは今、苦悩や苦難をかかえているでしょうか?
試練の中にいるでしょうか?
もしそうであれば、喜んで下さい。喜び踊って下さい。
なぜなら神様は、あなたが苦しんでいるその出来事を通して、ご自身のわざをそこに見せようとしているからです。
② 害をも益として下さる方
イエス様はこの生まれつき目が見えない人を癒すため、おかしな儀式をしています。
9:6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
9:7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
汚いですね。(笑)
イエス様はこの時なぜ、地面につばきをして、そのつばきで泥を作って、それをこの人の目に塗り、シロアムの池で目を洗わせる必要があったのでしょうか?
イエス様は聖書の中で、たくさんの癒しを私たちに見せて下さっています。
その癒しの殆どは、イエス様が相手を手で触れたり、あるいは相手がイエス様に触れたりするだけで癒されてしまいました。時には触れるどころか見るまでもなく、病から完全に癒してしまったり、蘇らせたりしています。
この時も手で触れるとか、「開け」と言いさえすれば、この盲人の目を癒すことができたでしょう。それならなぜその様にはしなかったのでしょうか。
それは、先ほど話していた事と関係があるのではないかと僕は思っています。
つばはともかくとして、泥というのはどんな細菌が入っているかも判らず、目には決して良いものとはいえません。
常識的に考えたら害にしかなりそうに無いものを通して、イエス様はこの人の目を癒されたのです。
先ほどの話を思い出して下さい。
私達は苦難を見るとき、その苦しさだけに目がいってしまいます。しかし、そのような苦難を通して、神様は私たちに益をもたらして下さる。
イエス様は泥を目に塗るということを通して、その事を身を持って示されたのです。
イエス様は泥を塗っただけでなく、それをシロアムの池で洗うように言いました。
そして、その盲人はそれに従ったのです。
イエス様が泥を塗られた所から、シロアムの池まではいくらか距離がありました。
それはもの凄い距離ではなかったものの、目が見えないこの人にとっては、シロアムの池にたどり着くまでが大変な道のりだったはずです。
それでもこの人がそれに従い、池で目を洗った事によって、目が癒されたのです。
この様に、神様は時として理屈に合わないような、常識や理解を超えた事を私たちにさせることがあります。
しかしそれでもそれに従うということによって、神様のわざが現れたのだということを私達は知らなければなりません。
昔シリアのナアマン将軍が、重い皮膚病にかかりました。
その時に家にいたイスラエル人の小間使いの薦めでエリシャという預言者のもとに行くのですが、エリシャは将軍に会おうともせず、召使を送ってヨルダン川に行き、その水の中で7度体を洗うように伝えさせました。
ナアマン将軍は怒ってこの様に言いました。
「私は預言者エリシャが私に会いに来て、自ら手を置いて治してくれると思っていたのに何だ! ダマスコのマアナ川やパルパル川の方がヨルダン川などより、よほどましではないか!」
怒って帰ろうとするナアマンを部下達がいさめます。
「閣下、怒らないで下さい。あの預言者がもっと難しいことを要求していたとしたら、あなたはきっとそのようになさったのではありませんか? それなら川で体を洗う事くらい、どうということはないではありませんか?」
そこでナアマンがヨルダン川に行って体を7度洗うと、彼の体の皮膚病は奇麗に治ってしまいました。(II列王5:1~14)
私達はこのように従う事ができるでしょうか?
聖書の教えは時として厳しすぎるように見えたり、神様の導きは辻褄が合わないように思えるかもしれません。
しかしその神様に従った時に私たちが見るのは、私たちの常識では測ることができないような、大きな祝福でもあるのです。
③ 霊的な盲目
目が見えないということの不自由さは、実際に経験した事がない私たちにはわかり得ない事かも知れません。特に生まれてからずっと目が見えなかったという人であれば、光とはどのようなものかも判らず、彩りや、自然がもつ美しさというようなものもまったく判らないということです。
心の目に関しても同じ事が言えるのです。心の目が開いていない人には、霊的な世界を見ることが全くできないのですから、ある意味においては、私たちの誰もが生まれつき盲目として生まれてきたということができるのです。
とはいえ、罪人である私たちが霊的に盲目となり、神様を見ることができないのだと言う事に気がつかない人が殆どです。
光が見えないから、少し歩けば障害物に当たってしまい、痛いんだけれどどうしていいのかがわからない。痛いのが人生だと思い込んでしまう。
しかし、今そのように霊の光が見えなくて、障害物に当たっては苦しんでいるその生き方さえも、神様のわざすなわちイエス様がそこに現れるための布石なのだと言うのです。
9:4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。 9:5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
これはイエス様が地上におられる間、主は父なる神のわざを示し、それが世の光としての役割を果たすということを意味しています。しかし、その働きが終わる夜がきます。それは、イエス様が十字架にかけられて、生涯を終えられるときです。
それでは、イエス様が十字架にかけられてからは永遠の闇、夜が世界の終わりまで続いてしまうのでしょうか?
そうではありません。
イエス様がオリーブ山で説教をされた時、苦難の時に喜びなさいと言った後で、「あなた方は世の光です。」と言っています。
霊的な盲目だった私たちが、神様のわざが現れ、イエス様によってその目が開かれた時、今度は私たちが主の光を反射させ、世の光となるのです。
この光は私たち自身の光ではありません。
私たちの内にいて下さるイエス様が光をもって私たちを光で照らして下さり、それをもって私たちが、世の光としての役割を果たしていくということです。
世の光となるためには、私たちの目が開かれ、光を内に迎え入れている必要があります。
イエス様はつばきでどろを作りそれを盲人の目に塗った後、シロアムの池で洗いなさいと言われました。
シロアムとは、訳して言えば遣わされた者の意味だと書かれていますね。
私達は、神様から遣わされたイエス様の元に行く時、霊的な目が開かれます。
皆さんの目は開かれているでしょうか?
まだ光を見たことが無いのであれば、どうか遣わされた者のところに行き、目を開かせてもらって下さい。
目が開かれた私たちのするべき事はひとつ、世の光となる事です。
そしてより多くの人たちの目が開かれるように、イエス様の元に導いてあげて下さい。