使徒10:1-17 『 使徒⑭~救いを阻むもの 』 2012/07/15 松田健太郎牧師
使徒10:1~17
10:1 さて、カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という部隊の百人隊長であった。
10:2 彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが、
10:3 ある日の午後三時ごろ、幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。御使いは彼のところに来て、「コルネリオ。」と呼んだ。
10:4 彼は、御使いを見つめていると、恐ろしくなって、「主よ。何でしょうか。」と答えた。すると御使いはこう言った。「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。
10:5 さあ今、ヨッパに人をやって、シモンとう人を招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれています。
10:6 この人は皮なめしのシモンという人の家に泊まっていますが、その家は海べにあります。」
10:7 御使いが彼にこう語って立ち去ると、コルネリオはそのしもべたちの中のふたりと、側近の部下の中の敬虔な兵士ひとりとを呼び寄せ、
10:8 全部のことを説明してから、彼らをヨッパへ遣わした。
10:9 その翌日、この人たちが旅を続けて、町の近くまで来たころ、ペテロは祈りをするために屋上に上った。昼の十二時頃であった。
10:10 すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなった。ところが、食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢ごこちになった。
10:11 見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。
10:12 その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。
10:13 そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい。」という声が聞こえた。
10:14 しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」
10:15 すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」
10:16 こんなことが三回あって後、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。
10:17 ペテロが、いま見た幻はいったいどういうことだろう、と思い惑っていると、ちょうどそのとき、コルネリオから遣わされた人たちが、シモンの家をたずね当てて、その門口に立っていた。
今日の話は、ローマ人であるコルネリオという人の救いの話です。
コルネリオはローマ軍の百人隊長でした。
百人隊長は福音書の中にも何人か登場しますが、ちょっとした士官クラスの兵士ですね。
このコルネリオという人は、異邦人でありながら真の神様を求めていました。
でも、この時点で彼ははっきりとした信仰を持っていたわけではありません。
言ってみれば求道者だったわけです。
彼はこの後ペテロと出会い、聖霊が与えられて救いを手にする事になるのですが、それは単にキリストの弟子がひとり増えたというだけの事ではありませんでした。
彼の救いから、これまで誰も考えていなかった異邦人への福音伝道が始まっていく事になるのです。
彼の救いを通してどんな事が起ったか、今日はそれを共に学んでいきたいと思います。
①
コルネリオは祈りの中で、ペテロという人と会うようにと神様に命じられました。
それと同時に、ペテロもまた夢の中で幻を見ていました。
それはあらゆる動物や鳥、爬虫類などの幻で、神様がそれを食べなさいと言うのです。
お腹はすいていたのですが、ペテロは夢の中で、それを拒みます。
「わたしはこれまで、きよい物しか口にした事がありません。汚れた物を食べる事なんてできません。」と言ったのです。
それに対して神様は答えます。
10:15b 「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」
このようなやりとりを、ペテロは何と3回もたて続けに見ました。
その度に、ペテロは頑なに拒んだという事ですね。
ペテロは、どうしてこんなにも食べる事を拒んだのでしょう?
そこには、きよいと食べ物とか、きよくない食べ物が関係している事がわかります。
実は、これは旧約聖書のレビ記から来ているのです。
レビ記の中には、イスラエルの人々が食べていい動物と、食べてはいけない動物とが分けられています。
四足の動物でひづめが割れていて反芻する動物はあなた達にとってきよいから食べてもいいけれど、反芻しない動物や、ひづめが割れていない動物はあなた達にはきよくないので食べてはならないというような事が延々と書かれているのです。
それによって、ユダヤ人たちはこれまで限られた物しか口にしてこなかったのです。
どうして食べていい物と食べてはいけないものが分けられたのでしょうか?
人がエデンの園にいた時代には、確かに食べてはならないものがありました。
それは善悪の知識の木の実ですね。
しかし、それ以外のものは何でも食べてよかったのです。
それから月日が経ってノアの洪水の後、神様はこの様に言っています。
創世記 9:3 生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。
この時にも、全てのものは食べてよかったと書かれています。
しかし、先ほどお話ししたように、レビ記が書かれた出エジプトの時代になってから、ユダヤ人は食べるものを制限されたのです。
どうしてきよい食物と汚れた食物とに分けられたかという詳しい理由が聖書には書かれていないので、はっきりとした事を言う事はできません。
しかし、ここには二つの理由を考える事ができます。
ひとつは、ユダヤ人が神様の命令に従う事のトレーニングのためです。
彼らは祭司の民として仕える事になる民族でしたから、このような特別な訓練が必要でした。
だからこれ以外にも、訓練のために彼らだけに課せられた律法がたくさんありました。
もうひとつは、ユダヤ人が他の民族と“区別されるため”という事です。
実は、聖書の中で見る“きよい”と言う言葉は、私たちが考える“聖なるもの”という意味とは違って、“区別される”というのが本来の意味なのです。
イスラエルは神様によって“きよい”民とされたという事は、モラル的に正しい事なわけでも、聖なる人々なわけでもありません。
彼らは、神様によって特別な民として“区別された”という事なのです。
それは、彼らが世界中の人々と神様との関係を結ぶための、“祭司の民として”区別されたという事です。
出エジプト以前の歴史の中で繰り返し語られてきた事のひとつは、罪というものの恐ろしさと、その影響力の強さです。
罪はあっという間に人々の間に広まって、近づいた人々を罪に染め上げてしまいます。
そんな中で、ユダヤ人が祭司の民となるために、他の民族とは分けられる必要があったのです。
だから彼らは、他の民族と結婚する事もできませんでしたし、つき合いを持つ事も禁じられていました。
イスラエルがその禁を破って他の民族と交流するたびに、イスラエルは影響を受けて、一夫多妻制になったり、偶像崇拝に走ったり、たくさんの罪を犯す事になったのです。
②
しかし、そんな神様の命令を覆す新たな命令を、ペテロは聞いた事になります。
彼らにとって、どんなものも食べてもいいという事は、それほど大きな事だったのです。
どうして今更、これまでの命令が覆されたのでしょうか?
それは、この後に起った事を見てみればわかる事です。
この夢によってペテロは、訊ねてきた異邦人コルネリオを受け入れる事ができ、彼に福音が伝えられ、異邦人も救われる事を知りました。
ここから、異邦人達の間にどんどん福音が伝えられていき、やがてローマ帝国全体を変えてゆく事になるのです。
考えてみれば、それこそ神様がユダヤ人のために最初から計画していた事でした。
ユダヤ人が神と人々の間に立つ祭司となり、福音を述べ伝え、救いへと導いて行く事になったのです。
それにしても、なぜこれまでは異邦人から離れていなければならず、今になって異邦人との交わりに導かれたのでしょうか?
それは、彼らに聖霊が与えられていたからです。
聖霊が与えられるまで、人は罪の力から一方的に影響を与えられるだけでした。
だから、区別された民であるイスラエルは、罪人から可能な限り離れて、罪の影響を避ける必要があったのです。
しかし聖霊を受けた今、私たち罪の力から解放され、福音を述べ伝える力を受けるようになったのです。
パウロは手紙の中でこの様に書いています。
ローマ 6:20 罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。
ローマ 6:22 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。
今の私たちは、罪から自由になって神様に仕えるものとなっています。
私たちには、罪と闘う力も与えられているのです。
イエス様は、「医者を必要とするのは丈夫なものではなく、病人です(マタイ9:12)」と言って罪人と共に多くの時間を過ごしました。
そして、罪人たちの多くが悔い改めて救いを手にしていきました。
それと同じように、イエス様の弟子である私たちは、これまで恵みが届かないように思えた人達の間にも入って行って、福音を述べ伝えていく事になったのです。
③
ユダヤ人達が汚れた物を食べる人々が救われるはずがないと信じてしまったように、私たちが福音を伝える事を阻害する最大のものは、相手に対する偏見です。
私たちは、彼らのように、誰かが変わった食べ物を食べるからと言って救われるはずがないなどと思いこんだりはしないかもしれません。
しかし、思わず救いの条件を付けたしてしまったりする事はないでしょうか?
ある教会のグループの人達は、クリスチャンはアルコールを飲むべきではないと決めつけて、アルコールを飲む人々を救いなんてないかのように扱います。
ある人々は、ロックミュージックはクリスチャンにあるまじき音楽だと言って、ロックを聴く人をクリスチャンとして認めません。
「クリスチャンなのにあんな事をして…」という考え方は、下手をすると救いに新たな条件を付けたしてしまう危険性があるのです。
その人が良い人かどうかは、救いの条件になり得るでしょうか?
逮捕歴の有無は、救いの条件になり得るでしょうか?
洗礼の有無、礼拝出席、献金、聖書通読、祈りの量、そう言ったものは、救いの条件となり得るでしょうか?
私たちに求められている救いの条件に関して、聖書はこの様に教えています。
ローマ 3:28 人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。
私たちがイエス様を救い主と信じて、王として受け入れる信仰。
それ以外の条件はありません。
クリスチャンとしての行いの部分は、信仰、救いの後に来るものです。
救いの条件を付けたして偏見を持つことなく、信仰による救いだけを信じて歩んでいきましょう。
そして、私たちの想像を超えた人々の救いのために、突き進んでいきたいと思います。