使徒11:1-4, 15-18 『 使徒⑮~御心を求める方法 』 2012/07/22 松田健太郎牧師

使徒11:1~4、15~18
11:1 さて、使徒たちやユダヤにいる兄弟たちは、異邦人たちも神のみことばを受け入れた、ということを耳にした。
11:2 そこで、ペテロがエルサレムに上ったとき、割礼を受けた者たちは、彼を非難して、
11:3 「あなたは割礼のない人々のところに行って、彼らといっしょに食事をした。」と言った。
11:4 そこでペテロは口を開いて、事の次第を順序正しく説明して言った。

11:15 そこで私が話し始めていると、聖霊が、あの最初のとき私たちにお下りになったと同じように、彼らの上にもお下りになったのです。
11:16 私はそのとき、主が、『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは、聖霊によってバプテスマを授けられる。』と言われたみことばを思い起こしました。
11:17 こういうわけですから、私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。」
11:18 人々はこれを聞いて沈黙し、「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。」と言って、神をほめたたえた。

皆さんは、神様の御心を知りたいと思いますか?
知りたい方は、どんな事に関して御心を知りたいと思われるでしょうか?
「どの学校に行くべきか?」、「どこに就職するべきか?」、「誰と結婚するべきか?」
私たちが神様の御心を求める時は色々あると思います。
でも、神様の御心がわからないという声をよく聞くのです。
そこで今日は、使徒の働きの話を通して、どうやったら神様の御心を知る事ができるかという事を共に考えていきたいと思います。

① 非難の中で神の御心を信じる
さて、今日の聖書箇所は長いので真ん中の10節を省略してしまいました。
この10節の中で語られているのは、先週のメッセージでお話しした事がペテロの体験談として語られている所です。
そこで、少し先週のお話しの復習をしましょう。

ある時、ローマの百人隊長であり、異邦人求道者だったコルネリオは、祈りの中でペテロに会うようにと言う神様の導きを聞きます。
一方でペテロもまた、夢の中で神様が見せてくれた幻を見ます。
これまでユダヤ人達には禁じられていた食べ物を食べなさいというその夢を見る事によって、ペテロは神様の御心が異邦人を救う事にもあるという事に気がつきます。
コルネリオには聖霊が与えられる事によってその救いと信仰が本物である事が明らかにされ、ペテロから洗礼を受けました。
彼の救いを発端として、イエス様の弟子たちは異邦人への伝道を開始し、ここから大きな救いが生まれていく事になっていくんですね。

そんな体験をしたペテロが、その報告をもってユダヤ人たちの元に帰ってきます。
そしてこの素晴らしい知らせを、たくさんいる他の弟子たちに分かち合ったのです。
しかし、彼らの反応はペテロ思っていたほど温かいものではありませんでした。
それどころか、ユダヤ人や割礼を受けた異邦人の中でたくさんの反対意見が起り、非難されてしまったのです。

11:2 そこで、ペテロがエルサレムに上ったとき、割礼を受けた者たちは、彼を非難して、
11:3 「あなたは割礼のない人々のところに行って、彼らといっしょに食事をした。」と言った。

私たちも時々、この様な場面に直面する事があります。
神様の導きだと思って善い事をしたつもりが、他の人達から批判を受けてしまったという経験がある方もいるかもしれません。
クリスチャンではない人達から一斉攻撃を受ける事もあれば、仲間だと思っていた他のクリスチャンから非難される事もあります。
知らない人達や、敵から非難される事より、仲間から批判を受ける事の方が何倍も痛かったりするものです。
こんな時、皆さんはどのように対応するでしょう?
「神様の御心だと思っていたけど、皆にこんな反応されるんだったら、間違ってたかな?」と思ってしまいませんか?
でも、ペテロの中には確信があったんですね。
11:4 そこでペテロは口を開いて、事の次第を順序正しく説明して言った。
と書かれています。

一体どうすれば、神様の御心を知り、そこに確信を持つ事ができるのでしょうか?

② 御心を知る方法
まず第一に、神様の御心を知るに当たって、どうしても必要な前提条件があります。
それは、私たちが“その御心に従う準備ができている”という事です。
「え? 御心が何か分からない限り、従えるかどうかなんてわかるはずがないじゃん。」と思うかもしれません。
でも、聞いてみないとわからないというのは、私たちがどうしたいかという事を決めてしまっているという事ではないでしょうか。
それでは、神様の御心が示されても、私たちは自分にとって都合のいい道しか目に入りませんから、きっと御心はわからないでしょう。

でも、それではダメなんです。
御心を知る前から、従う準備ができていなければなりません。
それは、全て神様に信頼し、どんな事にでも従うという心構えです。

第二に、私たちは御言葉を通して神様の御心を知る事ができます。
実は、これこそ基本中の基本であり、これがすべてだと言っても過言ではありません。
聖書の言葉は、そのまま神様の言葉です。
これを通して、私たちは神様の御心を知る事ができます。
神様の御心が、聖書の言葉と矛盾するという事は絶対にあり得ないのです。

ペテロはこの様に言っています。

11:16 私はそのとき、主が、『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは、聖霊によってバプテスマを授けられる。』と言われたみことばを思い起こしました。

これは、マルコの福音書の中にある言葉ですね。
この時点で、福音書はすでに出回っていたという事になります。
そしてペテロは、御言葉によってこの出来事が神様の御心だという確信を得たのです。

第三に、それが自分の思いを超えたものである事によって、神様の御心かどうかを知る事ができます。
私たちは、ついつい何事も“自分の”都合のいいように理解してしまいがちです。
聖書の言葉から神様の御心を求めていても、「赦しなさい」という言葉を素通りして、「私が復讐する」という言葉を見つけて、それを御心だと考えてしまうのが私たちです。
しかし神様の御心は、私たちの思いを遥かに超えているのだという事を覚えておくといいと思います。

“異邦人の救い”がペテロに示された時、そんな事はペテロにとって思いもよらない事でした。
汚れた食べ物が下りてくる幻を見た時、その意味を測りかねて3度も拒んだほどです。
しかし自分の思いとは全く違う事だったからこそ、ペテロはそれが自分の思い付きではなく、神様の導きであると確信を持つ事ができたのです。

第四に、自分以外の人も同じように感じている事によって、それが導きかどうかを知る事ができます。
私たちは思いこみが激しい生き物です。
勝手な思い込みを、神様の御心だと信じてしまう事も少なくありません。
「牧師になる事が自分に与えられている召しだ。」と思っても、他の誰もそのように感じられないなら、考え直してみた方がいいでしょう。

コルネリオの救いは、ペテロとコルネリオ自身の二人が同時に受けた神様の導きでした。
確かに、多くの人達がペテロに反対もしましたが、二人の中にあった一致は神様から来たものだという確信を、ペテロは得ていました。
それによって、ペテロはそれが神様の導きであるという確信を持つ事ができたのです。

第五に、どのような結果が伴うかという事によって、それが御心かどうかを知る事ができます。
コルネリオの信仰は、ペンテコステの時に人々が経験したのと同じように、そこに聖霊が激しく臨んだことによって、確かなものと確認されました。
このような成果は、すぐに表れるとは限りませんが、いつまでも何の結果も表れないなら、それが本当に神様の御心であるかどうかを考え直してみた方がいいかもしれません。

③ 御心に従う
こうして見てみると、私たちには多くの場合、全然違う事に関して御心を求めているんじゃないかと言う事を思いませんか?
私たちはつい、自分の結婚や就職など、目先の個人的な事にばかり心が向いて、その部分に関しての神様の御心や計画ばかりを求めてしまう傾向があると思います。
でも、神様の御心というものは、多くの場合、誰と結婚し、どこで働くかと言う事よりも、結婚相手をどのようにして愛するか、就職した場所でどのように仕事をするかと言う事にあるのです。

もし私たちが、個人的な導きを与えられるなら、それはよほど特別な働きが用意されているという事なのではないでしょうか?
私たちでなければ福音を伝える事ができない相手、私たちでなければできない働きがそこにあるという事でしょう。
もし皆さんが、今の環境に神様の導きを感じて入ったなら、そこにある神様の目的は何でしょうか?

神様は、私たちの幸せを願う方ですが、私たちがただ幸せになるために特別な環境に導いたりはなさらないはずです。
主にある幸いは、どんな環境の中でも適用されるものなのですから。

僕が、神様の明確な御心を示されて召しを受けたのは、僕が牧師になった時でした。
その導きも、一度に確信となったのではなく、何度かに渡って少しずつ与えられていったものです。
自分の性格や資質を見る時、僕は必ずしも牧師に向いているとは思わないのですが、神様が僕を召して下さったという確信によって、牧師であり続けています。

同じような導きを、僕は神学校で講義を行った時に感じました。
そして神様の御心は、僕が牧師を育てる働きをする事にあるのではないかと感じています。
現時点では、まだまだ僕自身が半人前の牧師で、他の牧師を育てるなんて冗談のようです。
でも、それが神様の御心なら、必ずそれは起ると信じてその道を進んでいくつもりです。
皆さんはどのような導きを受けていますか?
神様の御心はどこにあるでしょうか?
これから少し時間をとって、神様の御心を祈り求める時としたいと思います。

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