使徒15:1-11 『 使徒㉑~本当に大切なもの 』 2012/01/27 松田健太郎牧師

使徒15:1~11
15:1 さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない。」と教えていた。
15:2 そしてパウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。
15:3 彼らは教会の人々に見送られ、フェニキヤとサマリヤを通る道々で、異邦人の改宗のことを詳しく話したので、すべての兄弟たちに大きな喜びをもたらした。
15:4 エルサレムに着くと、彼らは教会と使徒たちと長老たちに迎えられ、神が彼らとともにいて行なわれたことを、みなに報告した。
15:5 しかし、パリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである。」と言った。
15:6 そこで使徒たちと長老たちは、この問題を検討するために集まった。
15:7 激しい論争があって後、ペテロが立ち上がって言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。
15:8 そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、
15:9 私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。
15:10 それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。
15:11 私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」

今日の聖書箇所は、実は「キリスト教の分水嶺」と呼ばれている大切なところです。
この使徒の働き15章から、キリスト教は完全にユダヤ教の一派という立場から離れ、別の宗教として確立したと言われているんです。

今日も先週に引き続き、この聖書箇所から自分の人生にあてはめる“適用”を一緒に考えていきたいのですが、まずはここで何が起こっているのかという事について考えるところから始めていきたいと思います。

①  エルサレム会議
さて、最初の頃のクリスチャンは使徒たちを初めとしてそのほとんどがユダヤ人でした。
ユダヤ人であるということは、単に民族的にユダヤ民族であるというだけでなく、旧約聖書を土台とするユダヤ教徒だったという事でもあります。
彼らは厳しい律法を守り、その価値観を土台とする生活を送っていました。

しかしパウロとバルナバが異邦人に対して福音を伝え始めると、スゴイ勢いで異邦人のクリスチャンが増えていったのです。
するとやがて、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンとの間に問題が起るようになりました。
異邦人がクリスチャンになるためには、異邦人たちもユダヤ人と同じようになる必要があるとユダヤ人クリスチャンたちが言い始めたのです。
具体的な話をすると、異邦人クリスチャンも、ユダヤ人と同じように割礼を受けるべきだという話しになってきたのです。

僕たちにはビックリするような話ですが、当時のユダヤ人達にとって、これは当たり前の事でした。
神様に従おうとするなら、割礼を受ける事は当然です。
割礼を受けていない人間は汚れていて、神様には受け入れられないというのは半ば常識的な事として信じられていたのです。

この事をきっかけとして、エルサレムではクリスチャンたちが集まって緊急の会議が開かれる事になりました。
激しい議論の中でペテロは、「律法という自分たちが背負いきれなかった枷を、異邦人達にまで負わせるべきではない」と話し、最終的にはイエス様の弟、ヤコブの発言によって方針が決まりました。
異邦人は割礼を受ける必要がないという事だけではなく、律法主義から解放されたのです。

パウロは後に、ローマの教会に宛てた手紙の中で書いています。

ローマ 3:28 人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。

これは、律法を土台として生きていたユダヤ今日ではありえない事でした。
今はわたし達にもなじみ深いこの考え方ですが、それはこのエルサレム会議からスタートした価値観なのです。

② 本質に対して妥協なく、それ以外は寛容に
では私達は、この話からどのようなメッセージを受け取る事ができるのでしょう?
どのように、自分の生活に適用していけばよいのでしょうか?

私たちが聖書の真理を自分の人生に当てはめて行く上で、コツがあります。
それは、登場人物の良い部分や正しい事を見るのではなく、まずは聖書の中に出てくる罪や堕落、失敗の部分に焦点を当ててみる事です。(Focus on fallen conditions)
なぜなら、私達の賜物はそれぞれ違いますから、良い部分が一致するとは限らないのですが、罪の根っこは一緒なので、多くの場合わたし達は同じ課題を持っているからです。

今日の聖書箇所に出てくる、罪や失敗は何でしょうか?
それは、ユダヤ人クリスチャンの中で起った、自分の常識やこだわりを他の人にも当てはめようとする性質ではないかと思います。
彼らは、異邦人達にも割礼をするように求めましたね。
私達の中にも、昔からの習慣やこだわりのようなものがあるのではないかと思います。
それそのものが悪いわけではありません。
そのこだわりがわたし達の個性となり、人格を作っていくのですから、あった方が良いと言うべきかもしれません。
しかし問題なのは、その価値観を他の人達に押し付けてしまう事があるということなのです。

わたし達はそれぞれの家庭ごとに文化的背景があります。
これは「国際結婚は大変じゃないですか?」と聞かれるたびに話すことですが、文化が違うのは日本人同士でも一緒なんですよね。
そしてわたし達は、自分が経験してきた文化が常識であり、正しい事だとと思いこんでしまうのです。
そこに衝突が起り、問題が発生します。

ユダヤ人達にとって、異邦人が異邦人のままで救われるなんていう事はありえない、あってはならない事でした。
彼らこそが選ばれた民なのですから。
そのように教えられ、育てられ、それが常識だったのです。
でも、2年に渡る伝道旅行の中で、バルナバやパウロが見てきたのはそうではなかった。
多くの異邦人達が、異邦人として主イエス・キリストと出会い、救いを受け、聖霊が働くのをたくさん目撃してきたんです。
事実が、これまでの常識を覆したのです。
でも、異邦人と接することなく、世界に何が起っているかを見て来なかった人達は、これまでの常識に縛られたままでした。
これは、正にわたし達自身にも起っている事ではないでしょうか?

その中で、彼らの解決法から学ぶべき事があるのです。
エルサレム会議を通して決定されたのはどんな事だったのかを見てみたいと思います。

使徒 15:19 そこで、私の判断では、神に立ち返る異邦人を悩ませてはいけません。
15:20 ただ、偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように書き送るべきだと思います

話しは律法からの解放だけで終わりませんよね?
わたし達は古い戒律からは解放されているという事と同時に、偶像への供え物と、性的、道徳的な悪い行い、そして絞め殺した動物を食べたり、血を食べる事を避けるようにという事が念を押して付け加えられています。
律法のこの部分だけは除外されないで守らなければならないという事でしょうか?

そうではなく、後のパウロの手紙などを読んでいると、これはそれぞれ律法として守られなければならないものではなかったという事がわかります。
言ってみれば、これは既存のユダヤ人クリスチャンたちへの配慮なのです。

わたし達は、ここで禁じられている絞め殺した動物や血を普通に食べています。
ユダヤ人たちが食べるような、血を絞りとってカスカスになった肉なんて、まずくて食べたくありません。
でも、ユダヤ人にとっては、血はとても気持ちの悪いものだったんです。
だから少なくともユダヤ人達の前では、それを避ける配慮をしましょうというのが、この会議の結果伝えられている事なのです。

私達は第一に、真理に対しては厳密である必要があります。
第二に、それ以外の事に関しては寛容である事が求められています。
そのためにわたし達は、本当に大切な事が何かを見極めた上で、歩み寄る姿勢が必要なのです。
わたし達が本当に大切にするべき真理は何でしょうか?
そして、寛容になるべき、真理以外の部分は何でしょうか?


実はこの問題は、教会の中にこそ重要な課題なんです。
教会はこの2000年の歴史の間に、たくさんの分裂を繰り返してきました。
最初に東方オーソドックス教会と西方カトリック教会が分裂し、カトリック教会からプロテスタント教会が分裂し、そこから何万という枝分かれをしてきたのが教会の歴史です。
そこには、互いに譲り合う事の出来ない、やむを得ないこだわりがあったのは確かです。
しかし、分裂の理由のほとんどは、何が正しいとも断定できない微妙なことだったり、どちらが正しかったとしても大きな違いがない枝葉の部分だったりします。
そんな事が原因で分裂し、互いに反目し合い、時には殺し合いもしてきたこのキリスト教の歴史は、あまりにも残念な結果ではないかと思うのです。

こだわりは捨てなさいという話ではありません。
むしろわたし達自身は、こだわりを持つべきです。
わたし達はキリストの体として色々な役割を持っているわけですから、それぞれの働きに合わせた特色もあるはずです。
そこにある種のプライドを持ち、こだわりを持つ事は間違っていません。
でも、絶対に変わらない真理は何かという事と、こだわりを持ってはいても、他者に対しては寛容になる部分とをちゃんとわきまえる必要があるのではないかと思うのです。

キリスト信仰において、絶対に変わってはならない真理とは何でしょうか?
それは、わたし達が信じる神様は唯一の神であり、世界の創造者である事。
その父なる神様は、私達のためにイエス・キリストを地上に送り、イエス様はわたし達の罪の許しと贖いのために十字架にかかり、命を投げ出して下さった事。
しかしその3日後に蘇り、天に上り、今は父なる神様の右に坐しているという事。
その事を信じる全ての者が救いを受け、聖霊が与えられ、聖霊によって神様はわたし達の内に働いて下さる事。
その救いを受け、イエス・キリストを主として従うクリスチャンの共同体を教会と呼び、神様は教会を通して地上で御業を広げて下さる事。
やがてわたし達は、天国に上げられ、永遠の命をそこで過ごす事です。

それをまとめたものが使徒信条と呼ばれるもので、これが土台となる妥協できない部分だと言っていいかもしれません。
他の部分に関しては、パウロの精神に学びたいと思います。
最後にこの聖書の言葉を読んで、今日のメッセージを終わりましょう。

Iコリント 9:19 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。
9:20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。
9:21 律法を持たない人々に対しては、――私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、――律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。
9:22 弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。
9:23 私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。

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