使徒16:1-10 『 使徒㉓~聖霊の導きに従って 』 2013/02/10 松田健太郎牧師

使徒16:1~10
16:1 それからパウロはデルベに、次いでルステラに行った。そこにテモテという弟子がいた。信者であるユダヤ婦人の子で、ギリシヤ人を父としていたが、
16:2 ルステラとイコニオムとの兄弟たちの間で評判の良い人であった。
16:3 パウロは、このテモテを連れて行きたかったので、その地方にいるユダヤ人の手前、彼に割礼を受けさせた。彼の父がギリシヤ人であることを、みなが知っていたからである。
16:4 さて、彼らは町々を巡回して、エルサレムの使徒たちと長老たちが決めた規定を守らせようと、人々にそれを伝えた。
16:5 こうして諸教会は、その信仰を強められ、日ごとに人数を増して行った。
16:6 それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。
16:7 こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。
16:8 それでムシヤを通って、トロアスに下った。
16:9 ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願するのであった。
16:10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。

パウロによる第二回の宣教旅行が始まりました。
第一回はパウロとバルナバが共に旅をしましたが、第二回の旅が始まる直前にケンカ別れをしてしまい、バルナバはマルコと共に、パウロはシラスと共に別々の方向に進む事になりました。
パウロとシラスは、デルベに向かい、そこからルステラへと行ったと書かれています。

皆さん、この第二回伝道旅行の目的は何だったか覚えているでしょうか?
もちろん、まだイエス様を知らない人達に福音を伝える事は大きな目的です。
しかし、今回の目的はそれだけでなく、第一回の伝道旅行ですでに回った所の様子を見に行くという目的がありました。
デルベもルステラも、パウロが第一回の伝道旅行で行った町なんですね。
皆さんは、どんな街だったか覚えていますか?

ルステラは、パウロとバルナバがゼウスとヘルメスの化身と間違えられた町でした。
彼らはそこで神々として崇められただけでなく、最後には石を投げつけられて瀕死の状態で去った町です。
そんなひどい目にあわされた町に、パウロはもう一度その町に戻って行ったのです。
イヤな体験をした所に、わたし達はもう一度行こうとはあまり思えないものではないでしょうか?
彼の宣教の思いは、それ程大きかったという事です。
パウロの新しい宣教の働きの中で、わたし達は何を学んでいく事ができるのでしょう?

① テモテの割礼
パウロはまずルステラの町でテモテと会います。
聖書の中にパウロがこのテモテに宛てた手紙がありますが、そこでパウロはテモテを、『信仰による真実の子』と呼んでいます。
それによってわかるのは、テモテはどうやらパウロを通して信仰を持ったらしいという事です。
パウロとテモテがどういう経緯で出会い、信仰を持つようになったのかはわかりませんが、もともと深い関係の中にあったのだと思われます。

さて、これは今日お話ししたい主題からは少し離れる事なのですが、念のためにお話ししておきたい事があります。
それは、パウロがテモテに割礼を受けさせているという話しです。

16:3 パウロは、このテモテを連れて行きたかったので、その地方にいるユダヤ人の手前、彼に割礼を受けさせた。彼の父がギリシヤ人であることを、みなが知っていたからである。

この伝道旅行が始まる前に行われたエルサレム会議で、割礼は受けなくても良いという話しが合ったじゃありませんか?
パウロは他の所でも、割礼を大切だと言う人々に反対し、弱気な態度をとる他の使徒たちを非難したりもしています。
そしてガラテヤ人に宛てた手紙の中では、テトスという弟子に割礼を受けさせなかったと書かれています。
どうしてテモテに関してだけは、割礼を受けさせる事にしたのでしょうか?

第一にそれは、テモテの特別な生い立ちに関係があります。
テモテは、この当時では珍しかったユダヤ人とギリシア人のハーフだったという事です。
ユダヤ人は、もともと他の民族の人達と結婚する事を忌み嫌っていました。
しかしそれでも、他の民族との間に子供が生まれた時には、その子供にはユダヤ人となる権利が与えられていました。
そのためには、やはり割礼を受ける必要があったのですが、テモテはこの時点で割礼を受けていなかったのです。
それによってテモテは、ユダヤ人達からは受け入れられにくい存在でした。

第二に、テモテはこの後、教会のリーダーになって行く立場の人だったからです。
テモテの手紙は、パウロが教会のリーダーとなったテモテに宛てた励ましの手紙ですね。
テモテはそういう立場になって行く以上、余計な所でユダヤ人達からの反感を買う事は得策ではなかったという事なのです。

だからテモテは、周りのユダヤ人達への配慮として、割礼を受けた方が働きをしていきやすいとパウロは判断しました。
この辺りに、パウロの人々の心に届こうとする姿勢が見られますね。
パウロ達の働きは祝福を受け、たくさんの信仰の実を実らせて行きました。
この様に書かれています。

16:5 こうして諸教会は、その信仰を強められ、日ごとに人数を増して行った。

② 行き詰まった時
さて、ここからが問題なんです。
パウロはその後も、第一回伝道旅行で回ったのとは逆方向に、イコニオム、ピシデヤのアンテオケと辿っていこうとしていました。
しかし、これまでは順調にいっていた旅に、この辺りから少しずつ暗雲が漂い始めます。

16:6 それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。
16:7 こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。

ここ数回の間お話ししてきたのは、聖書の言葉を自分の生活に適用するために、罪や堕落、失敗に目を留めましょうというお話をしてきました。
今日の聖書箇所には、特に罪に当たるような事も、堕落も見当たりません。
その代わりに彼らの失敗と言うのか、働きをしていく上での挫折がここには描かれています。
わたし達はここに目を留めて行く事ができますね。

彼らは小アジヤと呼ばれる地方に抜けて行こうとしていましたが、そこで御言葉を語ることを、聖霊によって禁じられたと書かれています。
それが具体的にどのような事だったのかはわかりません。
でも、そこでは伝道をする事ができなかったのです。

彼らはさらにフルギヤ・ガラテヤの地方を通ってムシヤと言う所に行きます。
そこで御手にやの方に行こうとすると、またしてもイエス様の御霊(聖霊)がそれをお許しにならなかったのです。

皆さんは人生の中で、このような行き詰まりを経験した事はないでしょうか?
祈って、神様の導きに従って何かを始めたはずなのに、それが途中で立ち行かなくなって前に進めなくなってしまうような・・・。
先に進もうとすると何かが邪魔をしているように感じたり、突然物事がうまくいかなくなってどうしたらいいのかがわからなくなるような経験がないでしょうか?

それが神様の御心でないならば、神様がわたし達の進む道を閉ざして先に進めないようにさせるのはわかります。
また、悪魔が邪悪な働きによって邪魔をしようとしているなら、わたし達は御言葉と神様の愛によって闘って行く必要もあるでしょう。
しかしそうではなく、神様が行きなさいと言ったはずの道を、神様が閉ざしてしまうような時です。

これは、明確な神様の導きに従って歩むということをしなければ、はっきりとした形で経験する事はないかもしれませんが、何らかのミニストリーに関わっている人は必ずと言っていいほど経験する事ではないかと思います。

これまでたくさんの祝福があって、うまくいっていたのに、突然それが立ち消えてしまったり、運営がうまくいかなくなってしまうような時があるのです。
人がどんどん集められて次々に救いに導かれて行ったはずなのに、突然みんな転勤や色々な事情で教会を離れてしまうという事が、わたし達の教会にも起りました。
でも、それが必ずしも悪い事だとは限らないというのが、今回の所で起っている事なのです。

③ 新しいビジョン
どこに行っても福音を伝える事ができなくなり、行き詰ったパウロたち一行は、トロアスという所に向かいました。
そこで、聖霊によってこのようなビジョンが与えられました。
それを通して、これからどこに行って福音を伝えるべきかと言う事が示されたのです。

16:9 ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願するのであった。
16:10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。

わたし達は、神様がわたし達を召して遣わす時には、全てスムーズにいくような錯覚を抱いてしまいがちです。
そして、行き詰ってしまうと簡単にあきらめてしまうという事もあるのではないでしょうか?
でも、神様が歩ませる道は決して平たんではありません。
そこには困難もあるし、突然道が閉ざされたように行き詰る事もあります。
でもそれは、神様が次の何かを示そうとしている前触れなのかもしれません。

パウロ達が働きに行き詰った時、彼らは何をしたでしょうか?
使徒の働きの記述だけを見ていると、混乱して右往左往していたようにも見えます。
でも彼らはその間、神様の導きを祈り求めていたのではないでしょうか。
でも祈っている間も、立ち止まったり引き返したりするのではなく、新たな道を探し、進み続けたのです。
彼らが経験した行き詰まりは、聖書の中ではほんの数行ですが、実際の道のりを考えると数カ月に及ぶような道のりです。
彼らはその間、時には神様の御心を見失ってしまったかと不安になったり、この旅そのものが間違えていたのではないかとネガティブになった事もあったかもしれません。
その時にもし彼らがあきらめていたら、マケドニヤへと行く道は開けなかったでしょう。

この期間に、パウロは祈り求める中でその思いが神様と一致して行きました。
そして、縮んだバネが爆発的な力で伸びるように、パウロの働きは大きく力を増したのです。

皆さんがもし、今行き詰まりを感じているなら、あるいはこれから経験するなら、それは神様が新しいビジョンを示そうとしているからかもしれません。
今は力を蓄えながら、神様の御心を一致させていく時にあるのかもしれません。
どうか、祈り求めてみて下さい。
今そこに、道は拓けようとしているのかもしれません。

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