使徒16:16-23 『 使徒㉔~暗闇の中の賛美 』 2013/02/17 松田健太郎牧師
使徒16:16~23
16:16 私たちが祈り場に行く途中、占いの霊につかれた若い女奴隷に出会った。この女は占いをして、主人たちに多くの利益を得させている者であった。
16:17 彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです。」と叫び続けた。
16:18 幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け。」と言った。すると即座に、霊は出て行った。
16:19 彼女の主人たちは、もうける望みがなくなったのを見て、パウロとシラスを捕え、役人たちに訴えるため広場へ引き立てて行った。
16:20 そして、ふたりを長官たちの前に引き出してこう言った。「この者たちはユダヤ人でありまして、私たちの町をかき乱し、
16:21 ローマ人である私たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しております。」
16:22 群衆もふたりに反対して立ったので、長官たちは、ふたりの着物をはいでむちで打つように命じ、
16:23 何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。
さて、パウロによる第二回伝道旅行の話の続きです。
神様からの新たな導きを受けたパウロとシラスは、トロアスから船に乗り、中東からヨーロッパへの入り口となるマケドニヤへやってきました。
そこで、マケドニヤ第一の町であるピリピという町にやってきたのです。
後にパウロは、このピリピのクリスチャンたちに宛てて手紙を書いていますよね。
そのピリピの教会がどのようにして出来て行ったのかという事を、この辺りから少し知る事ができるのです。
それでは、このピリピの町でどんな事が起ったのでしょうか。
① 占いの霊につかれた女奴隷
ピリピでの宣教は、初めは順調な滑り出しから始まります。
パウロ達は、まず町の人々が祈るために集まる祈り場と呼ばれる所に行き、そこにいる人達に福音を述べ伝えました。
そこで彼らは、ルデヤという女性と出会い、まずはこのルデヤが信仰を受け入れます。
そして、パウロ達はこのルデヤの家を拠点として、ピリピでの伝道を始める事になるのです。
さて、再びこの祈り場にやって来ると、パウロ達は占いの霊に憑かれた若い女奴隷と出会います。
この時代の占い師たちは、日本で言うとイタコに近い存在です。
自分に霊を乗り移らせて色々な事を話したり、占いによって人々を導いたりします。
ここに登場する女性は奴隷だったので、主人のために客をとって占いをしている専門職の占い師でした。
後の主人の反応を見ていると、この女奴隷は占いによってそこそこ稼いでいたようですから、腕の良い、つまり良く当たる占い師だったのでしょう。
しかしその力は、明らかに悪霊の働きによって起っている事だったのです。
この女奴隷は、パウロ達を見つけると彼らに付きまといました。
そして皆の前でこの様に叫び始めたのです。
16:17 彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです。」と叫び続けた。
パウロ達は、最初は無視していたものの、だんだん放っておくことができない状況になってきて、すっかり困ってしまいました。
なぜでしょうか?
彼女が言っている事は、宣伝になっているのだからいいじゃないですか。
ここで言っている事も、それほど間違っていないように思えます。
しかしパウロ達は、これを嫌がったのです。
想像してみて下さい。
人々によって良く知られているこの占い師がパウロ達の宣伝をすれば、人々はパウロ達が占い師の仲間であるように見られてしまいます。
これから人々に、福音と言うまったく新しいものを伝えようとしているのに、この占い師の教えと一緒にされてしまっては困った事になってしまうのです。
現代でも、スピリチュアル系とか、ニューエイジと呼ばれる人達が、イエス様の事を語る時があります。
しかし、この人達がどれだけ「キリストの教えは素晴らしいのです」と宣伝をしてくれても、全く違った教えの延長線でこの話をしているのですから、聴く人達を混乱させる事にしかなりません。
実を言うと、彼らはキリスト教を利用しようとしているだけなのです。
そこでパウロは、この女奴隷に力と知識を与えている悪霊を追い出しました。
すると、この女性からその不思議な力が失われ、彼女は占いをする事ができなくなってしまったのです。
② 迫害を受けるクリスチャン
悪霊から解放された女性が、この後どうなったかはわかりません。
彼女は占いをする力は失いましたが、悪霊の力から解放されて良かったかもしれません。
しかし、これによって困ったのはこの奴隷の主人たちです。
彼女が占いをして稼ぐお金を当てにしていましたから、その収入がなくなる事は大きな痛手となります。
この主人たちは、おそらく町の名士たちだったのでしょう。
彼は権力に物を言わせてパウロ達を捕えさせ鞭打ちにして牢に放り込んでしまったのです。
わたし達が福音を伝える時、この様な迫害もそこには起ります。
世界の多くの国では、まさにパウロ達が直面したのと同じような迫害が起り、今もそれによってクリスチャンたちが殺されています。
日本では牢に入れられたり、拷問を受けたりと言う事はないかもしれませんが、やっぱり色んな形で迫害を受ける事があるのではないでしょうか。
人々がクリスチャンを迫害するのは、自分たちの利益を護るためです。
それはパウロ達のように、何か悪い方法によって利益を得ようとする事を、わたし達クリスチャンが邪魔をするという事もないわけではありません。
でも、問題はたぶん、もっと本質的な部分にあるのではないでしょうか?
人々は、自分の王座や支配をキリストに明け渡すことを、何よりも恐れているのです。
戦争も、大金持ちになろうとする欲も、性的な不品行も、実はすべて自分の支配欲を満足させるためのものです。
その力を明け渡す事を迫られる聖書の言葉は、多くの人にとって耳障りであり脅威なのです。
しかし、人々がわたし達を迫害する時は、自分の利益と支配を守るためだとは絶対に言いません。
他のもっともらしい理由を考えて持ってくるのです。
パウロ達は、このような理由で訴えられたと書かれています。
使徒 16:20 そして、ふたりを長官たちの前に引き出してこう言った。「この者たちはユダヤ人でありまして、私たちの町をかき乱し、
16:21 ローマ人である私たちが、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しております。」
元々の理由とかけ離れているばかりか、彼らが実際にしていた事とも何の関係もないことではないでしょうか?
それは、現代でも同じです。
人々はキリスト教が科学者を迫害したという話しや、十字軍、魔女狩りを持ちだしたり、一神教は不寛容であると言ってみたり、聖書に書かれている本来の姿とは違うキリスト教を持ちだしてわたし達を責めます。
でも、その根っこにあるのは、自分が利益や支配を失う事に対する恐怖なのです。
③ 暗闇の中の賛美
さて、パウロとシラスはこのようにして、鞭を打たれ、枷をつけられ、牢の一番奥に閉じ込められてしまいました。
ローマのむち打ちと言うのは、それだけで命を失う人達がいるような過酷なものです。
そして、宣教の道も完全に閉ざされてしまって、彼らは今や絶望的な状況に追いやられてしまいました。
そんな絶望の中で、パウロとシラスはどうしたでしょうか?
ここに、驚くべき事が起ります。
パウロとシラスは、絶望に駆られて泣き叫んだり、助けを求めるのではなく神様に賛美をし始めたのです。
使徒 16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。
牢にいた人々は、二人の声に聞き入りました。
彼らの歌がうまかったとか、あまりにキレイな声だったので人々が感動したという事ではないでしょう。
鞭打たれ、ボロボロになった体で祈り、歌っていたのですから、うめきに近いような酷い声だったはずです。
そもそも賛美は、他の人達に聴かせるためのものでなく、神様へと向けられたものです。
しかし、それを聴いていた囚人たちは、思わず彼らの祈りと賛美に聴き入ったのです。
それは、こんなに酷く過酷な状況の中で、彼らが喜び、神を賛美していたからです。
どうにもならない苦しい状況に陥った時、普通は愚痴や嘆きの言葉が出てくるものだと思います。
しかし、神様との深い関係ができていると、そんな時でも祈りと賛美が出てくるものなのです。
それが、信仰を持っている事の素晴らしさのひとつですよね。
そしてその時、驚くべき事が起りました。
使徒 16:26 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。
この地方は、もともと地震が多い地域だったと言われています。
しかし、その衝撃で扉が開き、みんなの鎖が外れてしまったというのは、神様の起こした奇跡としか言いようがありません。
こうしてパウロ達は逃げる事ができる状態になりました。
しかし、この時はそのようなかたちで監獄を出る事が神様の御心だったのではありませんでした。
詳しい話しはまた来週のメッセージで見て行きたいと思いますが、この事がきっかけでこの監獄の看守が救われる事になっていくのです。
わたし達は、厳しい状況、大変な経験をするとその事を嘆き、どうしてこんな目にばかり合うのかと考えてしまいます。
しかし、この経験を通してこの監獄の看守はパウロ達を知り、信仰を持って救いを受け取る事ができるようになって行きました。
それもまた神様の計画であり、ここからピリピの教会は形成されて行きます。
パウロ達が苦難を避けて、脱出する事ばかりを考えていたら、彼らがこの看守と出会い、彼が救われるという事はなかったかもしれません。
ツライ苦しい状況を嘆いているだけだったら、看守との出会いを活かす事もできなかったでしょう。
暗闇のような絶望の状況の中で、祈れば奇跡が起ると言うつもりはありません。
でも、神様が助け、御業によって様々な事を起こしていくような器は、暗闇の中でも賛美の言葉が付いて出るような、神様との深い信頼関係の中に起る事を覚えていて欲しいのです。
良い事が起っている時ではなく、悪い事が重なる時、わたし達は何をするでしょうか?
あるいは、何も特別な事がない普通の時、わたし達はどのように行動するでしょう?
わたし達の神様との関係は、案外そういう所に現れてくるものなのだと思います。
そしてそのような普段からの神様との関係が、いざという時に発揮されるものなのです。