使徒16:24-40 『 使徒㉕~主イエスを信じなさい 』 2013/02/24 松田健太郎牧師

使徒16:24~40
16:24 この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。
16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。
16:26 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。
16:27 目をさました看守は、見ると、牢のとびらがあいているので、囚人たちが逃げてしまったものと思い、剣を抜いて自殺しようとした。
16:28 そこでパウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」と叫んだ。
16:29 看守はあかりを取り、駆け込んで来て、パウロとシラスとの前に震えながらひれ伏した。
16:30 そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。
16:31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。
16:32 そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。
16:33 看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。
16:34 それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。
16:35 夜が明けると、長官たちは警吏たちを送って、「あの人たちを釈放せよ。」と言わせた。
16:36 そこで看守は、この命令をパウロに伝えて、「長官たちが、あなたがたを釈放するようにと、使いをよこしました。どうぞ、ここを出て、ご無事に行ってください。」と言った。
16:37 ところが、パウロは、警吏たちにこう言った。「彼らは、ローマ人である私たちを、取り調べもせずに公衆の前でむち打ち、牢に入れてしまいました。それなのに今になって、ひそかに私たちを送り出そうとするのですか。とんでもない。彼ら自身で出向いて来て、私たちを連れ出すべきです。」
16:38 警吏たちは、このことばを長官たちに報告した。すると長官たちは、ふたりがローマ人であると聞いて恐れ、
16:39 自分で出向いて来て、わびを言い、ふたりを外に出して、町から立ち去ってくれるように頼んだ。
16:40 牢を出たふたりは、ルデヤの家に行った。そして兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出て行った。

さて、先週のお話しの続きです。
少しこれまでの復習をしながら本題に入って行きましょう。

パウロとシラスは、聖霊の導きによって、当初は行く予定のなかったマケドニヤへやってきました。
マケドニヤ第一の町であるピリピに入って宣教する中で、彼らは捕えられて鞭を打たれ、鎖につながれ、牢獄の一番奥に閉じ込められてしまいました。
神様の導きによって来たはずなのに、彼らは酷い目に合い、おまけに牢獄に閉じ込められて、これ以上宣教の働きをする事ができなくなってしまったのです。
今日は、その後彼らに何が起ったのかという事を、一緒に見て行きたいと思います。

① 看守との出会い
さて、パウロとシラスが牢獄の暗闇の中で、鞭で打たれた傷の痛みに耐えながら祈り、賛美をしていると、突然その地方を大きな地震が襲いました。
しかし、不思議な事に地震によって扉の鍵が開き、鎖が解けたのです。

牢獄を護っていた看守は居眠りをしてしまっていました。
彼が地震に驚いて目を覚ますと、なんと牢獄の扉が開いているのです。
それを見た看守は、囚人たちが逃げてしまったと思い愕然として自害しようとしました。
まるで侍が切腹でもするかのような状況です。

それは、囚人が逃亡した場合、看守が囚人の刑を身代わりに負わなければならないというのがローマのやり方だったからです。
この看守が、刑罰を受けるくらいなら自害した方がましだと思ったのは、ローマの刑罰がいかに残酷なものだったかという事を物語っています。

しかし、そこに驚くべき事が起ります。
苦悩して、今にも自害しようとする看守に、パウロ達は目を留めたのです。
パウロ達は逃げようと思えば、看守なんて放っておいて逃げる事ができました。
彼らの使命はマケドニヤで福音を述べ伝える事なのですから、牢獄で捕えられている場合じゃなくて一刻も早くここから抜け出すべきでしょう。
扉が開き、鎖が解けるという奇跡が起ったのは、神様が彼らに宣教の働きを続けさせるためだと思っても当然です。
僕ならそう思った事でしょう。
しかしこの状況の中で、パウロ達は看守を助け、「自害してはならない。みんなここにいるから大丈夫だ。」と叫びました。
一体パウロは何をしているのでしょうか?

パウロがとったその行動は、すぐに実を結びます。
看守はパウロの行動に驚き、パウロ達の前にひれ伏しました。
そして「先生方、救われるためには何をしなければなりませんか。」と訊ねたのです。
これまでパウロを見張り、彼らの働きを封じ込めていた看守が、何と求道者となって神様を求めるようになったのです。

あまりに唐突な反応なので、読んでいる僕たちは少し戸惑うほどです。
しかしこの看守は、恐らく牢獄に入れられる前にパウロ達が宣教の働きをしていた事を知っていたのではないしょうか。
そして、少なからぬ興味は持っていたのです。
しかし、ここで起った奇跡と、奇跡によって逃げる事ができるのに逃げようとせずに自分を救ってくれたパウロ達の行動によって、信じきる事ができない最後の壁が打ち砕かれたのです。
神様はこのような不思議な手段で、人々を御元に導かれるのですね。

② あなたもあなたの家族も・・・
さて、「どうやったら救われるか」と問う看守に対するパウロの答えを見てみましょう。

16:31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。

「救われるにはどうすればいいですか」という質問でピーンときたのでしょう。
パウロとシラスは、看守が彼らの話を聴いていた内の一人だという事がわかりました。
そこで簡潔に、「主イエスを信じなさい。」と一気に核心の部分に迫りました。
救いと言っても、人が求める救いには色々あります。
刑罰を免れるための救い、人生の苦しみからの解放としての救い・・・。
しかし、イエス様が与えて下さる罪からの救い、永遠の命へと至る道は、全てを覆い尽くす救いである事をパウロ達は知っていました。

続けて、彼らはこの様に言っています。
「あなたもあなたの家族も救われます。」
どうしてふたりが看守自身だけでなく、その家族の救いの事を付け加えたのかという事はわかりません。
もしかしたら、以前に会った時、彼が家族たちの事を心配するような話題になっていたのかもしれません。
あるいは、聖霊が与える知恵によってそのように促されたのかもしれません。
いずれにしても、これが看守にとっては大切な事だったのだろうと思います。

さて、話しが少し横道にそれるようですが、この言葉は少しわたし達を混乱させてしまう要素がある事をお話ししておいた方が良いと思います。
この所わたし達は、聖書の言葉から自分自身でメッセージを受け取る事ができるようにという訓練をメッセージの中に盛り込んでいます。
わたし達がちゃんと御言葉を理解して行く事ができるために、この言葉をもう少し掘り下げて考えてみましょう。

皆さんは、「あなたもあなたの家族も救われる」というこの言葉はどういう意味だと思いますか?
私が信仰を持って救われたら、家族もみんな自動的に救われるという事でしょうか?
そのようにとれなくもありませんし、実際にそのように理解している方も少なくないのですが、でもそれは聖書の他の個所がわたし達に伝えている事と矛盾してしまいます。

ローマ 10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

救いは、わたし達自身の信仰によってもたらされるのであって、家族の誰かが救われたら他のメンバーも自動的に救われるという事はありません。
まぁこの時代は父親の権威というものは大きかったですから、父親が信仰を持てば他のメンバーもそれに従うという事はあったでしょうが、それでも自動的ではありません。

この言葉は、「あなたが主イエスを信じたら、あなただけでなく家族も救われますよ。」という意味ではないのです。
そうではなく、「あなたも、あなたの家族も、主イエスを信じたら救われますよ。」という意味の言葉なのです。
その証拠に、この後彼とその家族に福音を語り、それを信じ、洗礼を受けたという事が書かれていますよね。
家族全員が信じたので、全員が救われたのです。

16:32 そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。
16:33 看守は、その夜、時を移さず、ふたりを引き取り、その打ち傷を洗った。そして、そのあとですぐ、彼とその家の者全部がバプテスマを受けた。
16:34 それから、ふたりをその家に案内して、食事のもてなしをし、全家族そろって神を信じたことを心から喜んだ。

皆さんの中にも、この部分を誤解していた方がいるかもしれません。
実際、これを間違えた解釈で教えてしまう教会もあるのです。
わたし達は、聖書の言葉を一部分だけとって理解するのではなく、全体像の中から理解して行く必要があるという事ですね。

③ 御心を知るために必要なこと
さて、パウロとシラスの看守とのやり取りの中で、とても考えさせられる事があります。
後から振り返ってみると、彼らが捕えられた事も、逃げられる状況で逃げずに留まったこと事もすべてこの看守が救われるための神様の計画だったんだとわかります。
しかし、パウロの反応を見ていると、そのひとつひとつが神様の導きである事を確信して必要な選択をしているように思えるのです。

彼がローマ市民である事を明らかにしていたら最初から牢獄に入れられる事もなかったし、鞭に打たれる事もなかったでしょう。
地震で扉があいたときも、僕がパウロ達の立場だったら、逃げる事が神様の御心だと思ったのではないでしょうか。
また、いざ導く段階になっても、パウロとシラスのように核心に迫り、さらに家族の救いにまで言及する事はなかったのではないかと思います。
彼らには、なぜそれができたのでしょうか?

あらかじめこの看守を知っていて、彼を救うためにターゲットを絞って全ての事をしたと考えられなくもないですが、そうではないと僕は思います。
彼らが神様の導きに従って行動する事ができたのは、彼らが常に神様に聞き従う姿勢を持っていたからだと思うのです。
先週お話しした、牢獄での祈りと賛美の中に、その事が良く表されているのではないかと思います。

彼らには、第2回伝道旅行の中で、人々を救いに導き、教会を建て上げて行くという目的がありました。
しかし、“仕事の効率”や、“伝道旅行の成功”という目的だけに捕われていたら、彼らにこの選択はできなかったはずです。
この時の行動そのものは、非効率的で計画を失敗に導きかねない決断だったのですから。
わたし達は、このような目先の使命や目的に心を奪われて、神様がその都度示して下さる微妙で絶妙な判断を見逃してしまっているのではないでしょうか?
それでは、本末転倒してしまっているのです。

自分の生きる目的を探り、自分に与えられている使命を知る事は素晴らしい事です。
しかし、それ以上に大切なのは、生きた神様との深い関係なのだという事を、わたし達は忘れてはなりません。
神様こそが、計画を持ってわたし達ひとりひとりを作り、この地上に送り出して下さったのですから・・・。

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