使徒17:1-14 『 使徒㉖~みことばを聞き、調べる 』 2013/03/03 松田健太郎牧師
使徒17:1~14
17:1 彼らはアムピポリスとアポロニヤを通って、テサロニケへ行った。そこには、ユダヤ人の会堂があった。
17:2 パウロはいつもしているように、会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基づいて彼らと論じた。
17:3 そして、キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないことを説明し、また論証して、「私があなたがたに伝えているこのイエスこそ、キリストなのです。」と言った。
17:4 彼らのうちの幾人かはよくわかって、パウロとシラスに従った。またほかに、神を敬うギリシヤ人が大ぜいおり、貴婦人たちも少なくなかった。
17:5 ところが、ねたみにかられたユダヤ人は、町のならず者をかり集め、暴動を起こして町を騒がせ、またヤソンの家を襲い、ふたりを人々の前に引き出そうとして捜した。
17:6 しかし、見つからないので、ヤソンと兄弟たちの幾人かを、町の役人たちのところへひっぱって行き、大声でこう言った。「世界中を騒がせて来た者たちが、ここにもはいり込んでいます。
17:7 それをヤソンが家に迎え入れたのです。彼らはみな、イエスという別の王がいると言って、カイザルの詔勅にそむく行ないをしているのです。」
17:8 こうして、それを聞いた群衆と町の役人たちとを不安に陥れた。
17:9 彼らは、ヤソンとそのほかの者たちから保証金を取ったうえで釈放した。
17:10 兄弟たちは、すぐさま、夜のうちにパウロとシラスをベレヤへ送り出した。ふたりはそこに着くと、ユダヤ人の会堂にはいって行った。
17:11 ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。
17:12 そのため、彼らのうちの多くの者が信仰にはいった。その中にはギリシヤの貴婦人や男子も少なくなかった。
17:13 ところが、テサロニケのユダヤ人たちは、パウロがベレヤでも神のことばを伝えていることを知り、ここにもやって来て、群衆を扇動して騒ぎを起こした。
17:14 そこで兄弟たちは、ただちにパウロを送り出して海べまで行かせたが、シラスとテモテはベレヤに踏みとどまった。
最初に、皆さんに謝らなければなりません。
「ピリピは大きな町で、マケドニヤの首都だったかもしれませんね~」なんて適当な事を言っていましたが、それは間違いでした。
ピリピという町が、マケドニヤで大きな町だったのは確かなのですが、首都ではありませんでした。
首都は、今日のお話しに出てくるテサロニケだったんです。
ちなみに、ローマ帝国下のギリシヤは南北に分けられていて、その北部がマケドニヤ州、南部はアカヤ州と呼ばれ、その首都はコリントです。
聖書の後ろに付いている地図を見たら一目瞭然でしたね。
パウロ達は、ギリシヤの北部から南部へと進んで行ったわけです。
かつて、弟子たちを二人ひと組で地方に送り出した時、イエス様はこの様に言いました。
『彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい。(マタイ 10:23)』
パウロ達を始めとする使徒たちは、この教えを守るようにして、迫害が起る度に次の町へと移動しています。
そうやってパウロとシラスは、ピリピからテサロニケへと移ってきたのです。
① テサロニケでの宣教
さて、パウロはテサロニケの会堂に行き、そこで3週間に渡って福音を述べ伝えました。
4節には『ギリシヤ人が大勢いて貴婦人も少なくなかった』と書かれていますが、ここは大都市であるだけに身分の高い人達も大勢いて、この貴婦人たちの中にはなんと、ネロ皇帝の妻となるポッパエアの姿もあったのではないかと言われています。
彼らは3週間の間に、とても大きな影響をテサロニケの人々に与えていました。
後にテサロニケの教会へ送った手紙の中で、パウロはこの様に書いています。
Iテサロニケ 1:5 なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです
しかし、大きな成果には大きな反対の力も伴います。
パウロ達はテサロニケに滞在中、ヤソンと言う人の家に滞在していましたが、彼らの働きに嫉妬したユダヤ人たちが集まり、ヤソンの家を襲撃したのです。
その時、幸いにもパウロとシラスはそこにいませんでした。
仕方がないので、ヤソンと兄弟たちを役人たちの所に連れて行き、彼らが危険人物をかくまっていると訴えます。
17:6 しかし、見つからないので、ヤソンと兄弟たちの幾人かを、町の役人たちのところへひっぱって行き、大声でこう言った。「世界中を騒がせて来た者たちが、ここにもはいり込んでいます。
17:7 それをヤソンが家に迎え入れたのです。彼らはみな、イエスという別の王がいると言って、カイザルの詔勅にそむく行ないをしているのです。」
17:8 こうして、それを聞いた群衆と町の役人たちとを不安に陥れた。
さて、それを聞いた人々は不安になったと書かれています。
彼らは何を不安に感じたのでしょうか?
危険人物が町中にいるという不安もあるかもしれません。
でもそれ以上に、カイザルに対する謀反を企てるような者がこの町から出たとしたら、その責任を負うために処分を受ける事になるという不安の方が大きかったかもしれません。
だから彼らは、ヤソンと他のものから補償金を受け取っただけで、あっさり釈放してしまったのです。
この事件の後、パウロとシラスはすぐにテサロニケを後にしてベレヤという町に向かいます。
しかしテサロニケのクリスチャンたちは、その後もユダヤ人達によって苦しめられたようです。
手紙の中に、この様に書かれています。
Iテサロニケ 2:14 兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったのです。彼らがユダヤ人に苦しめられたのと同じように、あなたがたも自分の国の人に苦しめられたのです。
この様な体験をしたからこそ、テサロニケの教会の人々の信仰は成長し、ギリシヤ中のクリスチャンたちの見本ともなって行きました。
そしてテサロニケは、ギリシヤの宣教のための中心地へとなって行ったのです。
② ベレヤでの宣教(熱心にみことばを聞く)
やむを得ずテサロニケを去って、ベレヤに来たパウロとシラスでしたが、次の町での働きもまた、祝福に溢れたものでした。
ここでの祝福の特徴は、ギリシヤ人達だけでなく、ユダヤ人達の反応も良かったという事です。
テサロニケではギリシヤ人ばかりが福音を聞いていましたが、ベレヤではむしろユダヤ人たちの方が多かったようです。
テサロニケだけでなく、これまで多くの町を訪れる中で、彼らはユダヤ人達からの迫害を受けてきましたが、ベレヤのユダヤ人だけはそうでなかったのです。
ベレヤのユダヤ人達の、いったい何が違ったのでしょうか?
17:11 ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。
ベレヤの人々が他のユダヤ人と違ったのは、『非常に熱心にみことばを聞』いたという事です。
パウロは後に、信仰についてこの様に書いています。
ローマ 10:17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。
ベレヤのユダヤ人たちは、まさにこういう人達だったのです。
多くのユダヤ人は、自分たちの宗教の正しさだけを主張して、違うものを排除する事だけに熱心でした。
実際の神様の御心がどうかなんて二の次です。
先週は、神様よりも与えられている“使命”や“賜物”が大切になってしまうと、神様を見失ってしまうという事をお話ししました。
多くのユダヤ人達の問題は、神様よりも“宗教”を大切にしてしまったという事です。
『あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。(マルコ7:8)』とイエス様が言った言葉そのままです。
でもこれは、ユダヤ人だけの問題ではありません。
クリスチャンであるわたし達にも、このユダヤ人達と同じようになってしまう事があります。
先週も同じような事を言いましたが、わたし達が神様以上に教理を、キリスト以上にキリスト教を愛するなら、わたし達にも同じ事が起るのです。
わたし達も、簡単に真実から目を背け、自分とは違う考えの人達を迫害するようになります。
事実、キリスト教もそういう歴史を繰り返してきました。
同じキリストを土台としているはずなのに、争い合い、殺し合いまでしました。
今でも、ネットを覗いてみれば互いを誹謗中傷するような記事がたくさん出てきます。
100万人しかいない、日本のクリスチャンの中にもそれがあるのです。
わたし達がそれを避けるために必要なのは、ベレヤのユダヤ人と同じように、何よりも神様を第一とする信仰なのです。
③ 毎日聖書を調べる
ベレヤの人々の行動には、もうひとつ特徴がありました。
もう一度11節を見てみましょう。
17:11 ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。
パウロ達は、ユダヤ人たちに福音を伝える時には旧約聖書からみことばを引用して、イエス様がキリストである事を述べ伝えました。
ベレヤの人々はそれを、『はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた』というのです。
ベレヤの人々も、他のユダヤ人達と同じように、パウロ達の主張に反発する心があったはずだと思います。
しかしベレヤのユダヤ人達は、彼らが言っている事をしっかりと聞き、聖書と照らし合わせてそれが真実かどうかを毎日確かめたのです。
自分の思いではなく神様の御心を第一とするというのは、こういう姿勢の事を言うのだと思うのです。
自分の気持ちがどう感じるかとか、感情がどう動くかと言う事ではなく、また人間の知恵や書物に頼るのでなく、神様のみことばがどう言っているかを調べ、それに従うという事です。
真実は、みことばによって指し示めされているのですから。
キリスト教界の中にもカルトがあります。
そういうカルトの教会では、そのリーダーだけが神様のみことばを理解できるかのように教えるそうです。
そして、「聖書にはこう書いてある。」と言って、信徒にその行動だけをさせるのです。
リーダーだけが聖書を正しく理解できるのですから、信徒はその言葉の言いなりになるしかありません。
リーダーが間違えていても、誰も間違えていると言えないし、間違えている事もわからないのです。
メッセージの冒頭でお話ししましたが、僕も間違える事があります。
というか、僕の言っている事なんて、適当な事もたくさんあります。(^^;A
どうか、牧師の言葉を神様の全てとして受け取らないでください。
僕は神様ではありません。
それは、どんな偉い先生の言っている事でも同じです。
だから私達は、常に聖書の言葉に立ち返って、その通りかどうかを調べるべきです。
それを通して、牧師が間違えている事が明らかになったり、自分自身の考え方が神様からずれていた事がわかったりするのです。
そうして初めて、その言葉を自分自身に向けられた言葉として受け取る事ができるのではないでしょうか?
ダビデはこう祈っています。
詩篇 119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。
皆さんを導くのは、牧師の言葉や、他の誰かが言っていた事、ましてやテレビや雑誌の言っていた事ではありません。
神様の言葉、それだけが、わたし達の道を照らす光なのです。