使徒17:15-20 『 使徒㉗~神の愚かさは人より賢い 』 2013/03/10 松田健太郎牧師

使徒17:15~20
17:15 パウロを案内した人たちは、彼をアテネまで連れて行った。そしてシラスとテモテに一刻も早く来るように、という命令を受けて、帰って行った。
17:16 さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。
17:17 そこでパウロは、会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ、広場では毎日そこに居合わせた人たちと論じた。
17:18 エピクロス派とストア派の哲学者たちも幾人かいて、パウロと論じ合っていたが、その中のある者たちは、「このおしゃべりは、何を言うつもりなのか。」と言い、ほかの者たちは、「彼は外国の神々を伝えているらしい。」と言った。パウロがイエスと復活とを宣べ伝えたからである。
17:19 そこで彼らは、パウロをアレオパゴスに連れて行ってこう言った。「あなたの語っているその新しい教えがどんなものであるか、知らせていただけませんか。
17:20 私たちにとっては珍しいことを聞かせてくださるので、それがいったいどんなものか、私たちは知りたいのです。」

日本で福音を伝えていると、度々こういうセリフを耳にする事があります。
「日本には八百万の神の信仰があるので、西洋的な宗教であるキリスト教は日本の文化には合わないんだ。」
皆さんはそのような事を言われた経験がありますか?
あるいは、皆さんの中にも同じように思われている方がいるかもしれません。
それにしても、これは本当でしょうか?

実際には、キリスト教は西洋の宗教ではありませんね。
ここしばらくお話ししているように、キリスト教は使徒たちによって、西洋に伝えられたのです。
そして、西洋の文化もまた、現代の日本人と同じように、聖書の価値観をなかなか受け取る事ができなかったのです。

今日は、現代ではギリシヤ首都として知られるアテネという町で、パウロとシラスが直面した出来事を通して、日本で福音を伝える事に関して一緒に考えてみたいと思います。

① 偶像崇拝者たち
第一に、ギリシヤは日本と同じく多神教の宗教観を持った国でした。
だから、パウロの話を聞いていた人達の中には、彼が新しい神々の話をしているのだと思った人達もいました。

実を言うと、世界中のほとんどの文化が、多神教的宗教観をベースに持っています。
それは、創造主である神様から離れて罪の中にある人間が、多神教的価値観を持ちやすいという事でしょう。
多神教的価値観を持っている人達は、「どうしてひとりの神を選ぶ必要があるのか」がわからなかったり、他を認めない一神教は心が狭いと言ったりします。
でも考えてみて下さい。
皆さんのお父さんは何人でしょうか? お母さんは?
家庭の事情で何人かの父親や母親がいる家庭はあるかもしれませんが、生物学的父親、母親はひとりです。
同じように、世界にどれだけ“神”と呼ばれる存在があっても、わたし達を作り出して下さった方はひとりです。
そして、その作り主との関係こそが、大切な関係なのです。
多神教の価値観の中にいる人達には、まずその事を理解していただく必要があるでしょう。

さて、パウロ達がアテネの町で目撃したのは、偶像に埋め尽くされている町の様子です。
それを見たパウロは、激しい憤りを感じたと書かれています。

17:16 さて、アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。
17:17 そこでパウロは、会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ、広場では毎日そこに居合わせた人たちと論じた。

もしも子供が、「お母さんは叱ってばかりだ。」と言うので、その辺の人形をお母さんと名付け、自分の母親として振舞い始めたら、本当の母親はどのように感じるでしょうか?
偶像がどれだけ神様を悲しませるかという事を考えると、パウロは憤りを抑える事ができませんでした。
そこでパウロは、情熱に駆られて手当たり次第に福音を伝えようと、人を捕まえては論じ始めます。

日本にも、お地蔵さんを始めとしてたくさんの偶像があります。
でも、現代の日本人のどれくらいの人達が、実際にお地蔵さんやその辺のほこらにある偶像を信じて、例えばお参りしたり、祈ったりするでしょうか?
僕たちのおじいさんやおばあさんの世代ならともかく、若い世代には、そういう偶像の信仰はそれほど大きな問題ではないように思えます。
しかし、実はより深刻で重要な偶像崇拝の問題を、現代のわたし達は抱えているのです。

偶像崇拝は、神様以外のものを神様以上に大切にする事です。
例えそれが樹や石を掘って作った物でなくても、わたし達が何かを神様以上に重要だと考えているなら、それがわたし達の偶像なのです。

それはもしかしたら、社会的地位を維持する事、恋愛や容姿の美しさ、仕事やビジネスの成功、人からの賞賛、あるいは自分のメンツを保つという事かもしれません。
例えそれが善いと思えるもの、例えば家族や子供への愛、神様のための働きであるミニストリーであったとしても、それが神様との関係よりも重要になるなら、わたし達にとって偶像となります。
そして偶像は、例えそれがどんなに素晴らしく善いものであるかのように思えても、必ずわたし達に破壊と破滅をもたらすものなのです。

フランスで宗教改革を起こしたジャン・カルヴァンは、我々は偶像製造機のように、あらゆるものから、いくらでも偶像を作り出すことができると言っています。
偶像崇拝は、宗教離れと言われる現代の社会でも、とても深刻な問題なのです。

② エピクロス派とストア派の人々
街角で、パウロが福音を届けようとしていたのは、偶像崇拝者たちだけではありませんでした。
その中には、当時流行していたエピクロス派や、ストア派と呼ばれる哲学を信じる人達がいました。

エピクロス派というのは、快楽主義者と呼ばれる人達です。
簡単に言うと、世の中楽しいのが一番、楽しければイイじゃないか、という考え方です。
彼らは宗教なんて我々を縛るものでしかないから、排除するべきだと考えていました。

一方でストア派というのは、“ストイック”という言葉でも知られる“ガンバリズム“的な考えの人達です。
彼らは、真理とは自分の力で、努力によってたどり着くものだと考えていました。
彼らはどちらも、神様の恵みによってのみ救いを受ける事ができるという福音を受け入れる事ができず、パウロと議論したのです。

快楽主義も、ガンバリズムも、偶像崇拝と同じように形を変えてはいますが、現代の日本で見る事ができるものです。
それどころか、時としてこれは教会の中にも入り込んでしまっている価値観ではないでしょうか?
クリスチャンの中にも、エピクロス的に、自分にとって都合のいい祝福だけに目を留めて、苦難や困難は悪であるかのように信じています。
また律法主義となり、ストイックに善い行いをする事に命をかけ、既に与えられている恵みを無視している人達もいます。
しかし、福音はそのどちらでもないからこそ、パウロは議論しているのです。

神様から離れて罪人となってしまったわたし達の人生は、苦難で満ちています。
でも、罪となった事に対する償いを、自分自身の行いで払う事はできません。
わたし達が罪人であるという事は、わたし達の力がおよばないほどに深刻な事なのです。
だからこそ神様は、わたし達のためにひとり子を送って下さり、文字通り命をかけて代価を払い、わたし達との関係を修復して下さいました。
わたし達に与えられている救いは、神様からの恵みによって与えられた贈り物なのです。
わたし達は、その贈物を受け取るなら、それを自分のものとする事ができます。
皆さんはその贈物を、もう受けとっているでしょうか?

③ 神の愚かさ
アテネの人々に対して述べ伝えたメッセージの中で、パウロはこのように言っています。

使徒 17:30 神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。

『これまでは、神様も救いもよくわからないまま、当てずっぽうに求める事も許されてきました。しかし今、あなた達は福音を知ったのです。
自分がどのような状態にあり、神様がどのような方であるかを知りました。
その上で、あなたはどのように応答するでしょうか?』
これがパウロのメッセージのポイントです。

わたし達は、それぞれに決断を迫られます。
悔い改めるか、否か?
悔い改めとは、これまでの罪を悔いるという事よりも、神様に立ち返るという事です。

しかし、アテネの人々の反応は決して良いものではありませんでした。

使徒 17:32 死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、「このことについては、またいつか聞くことにしよう。」と言った。

いつの時代も、これが罪の中にいるほとんどの人達の反応です。
福音がどれだけ語られても、人々は神の超自然的な救いをあざ笑い、さもなければ『またいつか聞く事にしよう』と言って逃げて行くのです。

なぜなら、この世界が神様によって創造されたという事、わたし達はみな罪人であるという事、わたし達が救われるために、神様がひとり子を地上に送り、その死によって救いをあたえて下さった事、神のひとり子イエス・キリストは、十字架にかけられて死んだ後、3日後に蘇って神のもとに帰って行った事。
そのどれをとっても、人々にはバカバカしい事に聴こえたからです。
しかし、聖書にはこうも書かれています。

Iコリント 1:21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。

Iコリント 1:25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

救いにいたる門は狭き門です。
誰でも入る事ができますが、その道を見いだす人は稀です。
どの国でも、いつの時代も、ほとんどの人達は福音を拒絶します。
2000年前のアテネでも、現代の日本でも、福音を伝える事は簡単な事ではありません。
しかし、それでも神様の計画を信じ、神様の知恵に信頼してこの福音を伝え続けて行かなければなりません。

やがてローマ帝国にリバイバルが起ってたくさんの人達が救われたように、日本にもその時が来ると信じて、述べ伝えて行きましょう!

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