使徒3:1-10 『 使徒⑤~金銀は私にはないが 』 2012/05/13 松田健太郎牧師
使徒 3:1~10
3:1 ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
3:2 すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。
3:3 彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。
3:4 ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。
3:5 男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。
3:6 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、
3:7 彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
3:8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。
3:9 人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。
3:10 そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。
ここしばらく、使徒の働きから教会の事に関してお話ししてきました。
そしてその中で、聖霊を受けたわたし達は、互いに愛の関係を深く築き、もっと人間関係を強くしていく事ができるというお話をしてきたんです。
御霊によってわたし達教会は、互いに愛し合い、互いに赦しあい、互いに教え合い、互いに支え合う関係となります。
そしてその交わりは、どんどん大きく成長していくものです。
でも時としてわたし達は、その人間関係の中で誰かを助けたかったり、力になりたいと思ってもどうしていいのかわからないような状況に直面する事があります。
今日は、ペテロとヨハネが直面したある出来事を通して、わたし達に何ができるのか、どうしたらいいのかという事を考えていきたいと思います。
① 祈る事
ペテロとヨハネが礼拝のために教会に行こうとすると、その前に足の不自由な男性が、施しを受けるためにそこにいました。
昔から、教会のような場所は、貧しい人達や障害を抱えている人達にとって助けを得やすい場所だったんです。
嫌な言い方をすれば、信仰と良心に訴えかけるのには打ってつけの場所だったわけです。
さて、ペテロとヨハネはその男性を見つめると、その男性に近づいて行きました。
使徒 3:6 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、
3:7 彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
3:8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。
足が不自由なこの男性が求めていたのは、何だったでしょうか?
この男性は、お金をもらおうとしていたのです。
あるいは、何か食べ物がもらえないかと思っていたのです。
しかし、ペテロもヨハネも、あげられるものを何も持っていませんでした。
そこでも、彼らには出来る事がありました。
それは、この人の癒しために祈る事です。
わたし達には祈ることしかできない時があります。
でもそれは、“祈る事くらいしかできない”という消極的なものでは決してなく、“祈る事ができるのだ”という積極的なものとして考えていただきたいと思います。
祈りには力があります。
でもそれは、わたし達の力ではありません。
この時、ペテロ達が祈った結果、この男性が歩けるようになったのを見て人々は驚きましたが、ペテロはこの様に言いました。
使徒 3:12 ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。
この奇跡は、ペテロやヨハネの力ではありません。
神様がこの奇跡を起こすのです。
「わたしなんかが祈ったってあまり効果がないんじゃないか。」と思われている方がいらっしゃるかもしれません。
でもそのように考える必要はないんです。
祈りの答えはわたし達自身から来るのではなく、神様がなさる事だからです。
とは言え、この人が癒されるためにはいくつかの条件がそろう必要がありました。
ひとつにはタイミング。
この人は毎日のようにこの美しの門にいて、ペテロやヨハネも毎日のように会っていたはずでしたが、彼が癒されるには神様の時がありました。
2番目に、彼自身の信仰です。
イエス様が人を癒される時、そこに人々の信仰が必要だったように、彼が癒されるためには信仰が伴う必要があったはずです。
ペテロとヨハネは、この男性の中にある足が癒されたいという思いと、神様への信仰の種がある事を聖霊によって理解したのかもしれません。
それはからし種のような小さな信仰でしたが、癒しという体験によってそれは30倍、60倍、いや100倍に膨れ上がりました。
そして3番目に、ペテロとヨハネが祈る事です。
癒すのは神様です。
しかし、祈りがなければ、彼は癒される事がなかったでしょう。
彼らは気付かれないようにこっそり祈ったのではなく、彼自身と人々の前で祈りました。
その事によって、この男性が神様によって癒されたのだという事がそこにいた人々に明らかになったのです。
わたし達にできる事は、まずわたし達が、信仰をもって祈るという事ではないでしょうか。
例え今はその時ではなかったとしても、わたし達にできる事をまずやってみる事は、わたし達に必要な事だからです。
② 救い
さて、この人はただ癒されたのではありませんでした。
使徒 3:8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。
彼の体に起った変化は、次に彼自身の心を変えたのです。
彼は喜びの中で神様を賛美し、ペテロ、ヨハネと一緒に教会の中に入っていきました。
それまでの彼の信仰はからし種のようなものでしかなく、彼はいつも宮の外にいました。
彼は人が施してくれる事を期待し、お金や食べ物という目で見て、肌で触れる事ができ、お腹に入れる事ができるものを信じていました。
しかし癒された時、彼は宮の中に入って行ったのです。
その時彼は、ペテロとヨハネを通して、彼にとって本当に必要だったものが何だったかという事を知りました。
体の癒しだけではなく、魂の癒しを得る事ができたのです。
それだけではありません。
使徒 3:9 人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。
たくさんの人達が、この男性が癒されて、歩きながら神様を賛美しているのを見ました。
驚く人達の前で、ペテロが再び説教をします。
それを更にたくさんの人達が見て、耳を傾けました。
ペテロ達はそれによってローマによって捕えられ、厳重な注意を受けましたが、それを見て、聴いた人達の中では大きな変化が起っていたのです。
使徒 4:4 しかし、みことばを聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった。
ペンテコステの時、使徒たちに聖霊が下るのを見て三千人の人達が救いを受けました。
今度は、歩けなかった物乞いが歩けるようになったのを見て、五千人の人達が救われたのです。
わたし達にできる第二の事は、そこに救いをもたらす事です。
足の不自由な男性が求めていたのはお金でしたが、ペテロ達はそこに癒しをもたらし、それは彼を救いに導きました。
厳密に言うなら、ここに救いをもたらしたのはペテロ達ではなく、神様です。
でも神様は、その救いの中にわたし達が関わり、わたし達がその人達の道しるべとなる事を求めています。
「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」とある人は言いました。
聖書の中にそう書かれているように、多くの人達が、わたし達の導きを必要としています。
今わたし達にできる事は、何でしょうか?
どうやって、福音をつたえる事ができるでしょうか?
③ 支え合い
さて、そんな訳でわたし達は、金銀はなくても、いや金銀よりもっと素晴らしいものを分かち合う事ができるという話をしてきました。
それではお金なんてどうでもいいという事なのかと言えば、決してそうではありません。
使徒の働きには、ただ奇跡や不思議な出来事が起ったというだけの話ではなく、それを支えるたくさんの人達の働きについても語られているからです。
使徒 4:32 信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。
4:33 使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。
4:34 彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、
4:35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。
4:36 キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、
4:37 畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
わたし達の教会にも、陰で支えて下さっているたくさんの人達がいます。
働きとしての支え、人と人を結ぶ支え、そして経済的な支えも・・・。
そうして支えて下さる事がなければ、わたし達は今こうして礼拝をする事もできません。
でもそれは、みんなから財産を徴収するようなものではなく、喜んで捧げる心によって行われるものだという事も忘れてはならないでしょう。
わたし達には、それぞれに役割があり、それぞれの働きがあります。
ある人は助け、ある人は祈り、ある人は導き、ある人は捧げる。
ひとつの事をやっていれば他はやらなくていいという事ではないでしょうが、得手不得手はあっていいのです。
大切なのは、わたし達が互いに支え、補い合いながら教会の働きをするのだという事です。
今この時も、わたし達の周りには助けを必要としている人がいます。
それはもしかしたら、皆さんの隣にいる方かもしれません。
わたし達の体の一部が痛み、わたし達の家族の一員が苦しんでいる時、その人のために、わたし達が今できる事は何でしょうか?
今わたし達に何ができるのか、何をするべきなのか、個人の力は小さくても、教会というひとつの体としてどうする事が示されているのか、しばらく祈り訊ねる時を持ちたいと思います。
祈りましょう。