使徒4:33-5:11 『 使徒⑥~教会に死をもたらすもの 』 2012/05/20 松田健太郎牧師
使徒 4:33~5:11
4:33 使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。
4:34 彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、
4:35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。
4:36 キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、
4:37 畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
5:1 ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、
5:2 妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
5:3 そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。
5:4 それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
5:5 アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。
5:6 青年たちは立って、彼を包み、運び出して葬った。
5:7 三時間ほどたって、彼の妻はこの出来事を知らずにはいって来た。
5:8 ペテロは彼女にこう言った。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのですか。私に言いなさい。」彼女は「はい。その値段です。」と言った。
5:9 そこで、ペテロは彼女に言った。「どうしてあなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みたのですか。見なさい、あなたの夫を葬った者たちが、戸口に来ていて、あなたをも運び出します。」
5:10 すると彼女は、たちまちペテロの足もとに倒れ、息が絶えた。はいって来た青年たちは、彼女が死んだのを見て、運び出し、夫のそばに葬った。
5:11 そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。
わたし達は、使徒の働きを通して教会の事について学んでいます。
聖霊が与えられ、聖霊に満たされてどんどん増えていったクリスチャンたちは、互いに集まり、お互いを愛し合い、支え合い、教え合う深い関係を築いて行きました。
彼らはそれぞれに教会を形成しました。
彼らは、その関係があまりにも深く、また物質的なものへの執着心がなくなっていったので、必要に応じて財産を分かち合うようにもなったのです。
自分の土地を売り、財産を放棄してまで人々を支えたひとりとして、バルナバという人が紹介されています。
さてそのような出来事の中で、アナニヤとサッピラというクリスチャンの夫婦が紹介されます。
この夫婦も、自分達の土地を売ってお金を作ったんです。
そして、一部は自分達のためにとっておき、その残りを捧げました。
何が悪いんですか? イイ事じゃないですか?
ところがこの夫婦はペテロに叱りつけられ、その途端に死んでしまうというのがここに書かれている話しなのです。
何なんでしょうか、この話は?
一体なぜ、彼らは死ぬ事になってしまったのでしょう?
この話は、使徒の働きの中でも一番理解が難しい・・・というか、理解しがたい話ではないかと思います。
今日はこのエピソードから、わたし達が教会を立て上げていく上でどんな事に気をつけて、どのようにしていくべきかという事を共に考えていきたいと思います。
① 嘘をつくこと
それでは、ペテロがアナニヤに言った言葉を、注意深く見てみましょう。
5:3 そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。
ペテロは、ここで何を問題としているのでしょうか?
アナニヤが“土地を売って作ったお金を全て捧げなかった事”、でしょうか。
だとしたら、わたし達教会は、全財産をすべて捧げるべきだという話になってきますね。
それではカルトです。(笑)
これは、もちろんそういう話ではありません。
次の節でペテロはこう言っています。
5:4 それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
土地を売って作ったお金は、もともとアナニヤ自身のものであって、彼の自由にしていいお金です。
そもそも彼らは、土地を売る必要も、それを捧げる必要も全くありませんでした。
アナニヤとサッピラは、自分達の意思でその土地を売ったのです。
彼らがなぜそうしたのかは、わかりません。
その事によってバルナバが皆に注目されているのが羨ましかったのかもしれませんし、そうしなければならないと思ってしまったのかもしれません。
でも問題は、何を捧げたのかにあるのでも、どうして捧げたかにあるのでもありません。
いくら捧げたかと言う事に関して欺いた、つまり嘘をついたという事が問題なのです。
それにしても、アナニヤとサッピラが死ななければならなかったのはなぜなのでしょう。
もしかしたら、クリスチャンは嘘をついたらわたし達もその途端に死んでしまうんじゃないかと怖くなってしまう人もいるかもしれません。
でもこれは、目的のためにこの時一度きり起った出来事であって、わたし達にも起るような事ではありませんのでご安心ください。
あるいは、こんな事で殺してしまうなんて、神様は何という酷い事をするのだろうと思う方もいらっしゃるかもしれません。
でも、実は本人達はいいんですよ。
彼らは、何の痛みも苦しみもなく天国にいくのですから。
せいぜい、ふと目が覚めると神様の前にいて、「あ~、わたし達、やっちゃいましたね~。」と恥ずかしい思いをするだけの事です。
しかし神様は、この二人の死という衝撃的な出来事を通して、わたし達に伝えなければならない事があったのです。
言ってみれば、アナニヤとサッピラが命をかけて示してくれた大切な教訓を、わたし達はしっかりと受け取り、そこから学ぶ必要があるのです。
人を欺き、神様を欺く事によって死んでしまうのは、本当はわたし達の肉体的な命ではありません。
この様な欺きは、わたし達の信仰を殺し、教会に死をもたらすものなのです。
② 偽善
アナニヤとサッピラがした欺きとは、一体どのようなものだったのでしょうか?
アナニヤとサッピラは、お金の一部を自分達のために取っておいたのに、「全部捧げます」と嘘をついたんですよね?
しかしそれは、単にそれだけの嘘ではないとペテロは言っています。
アナニヤとサッピラは、どうしてそんな嘘をついたのですか?
それによって、自分はイイ事、正しい事をしていると思われたかったからです。
わたし達も、ついつい表面的に取り繕って立派なクリスチャンとして生きているように見せたくなってしまう事があります。
表面的に罪から離れ、表面的に愛し、表面的に赦していると言い、表面的に喜んでいるようにふるまい、表面的な捧げものをする・・・。
他人から見ると、一見その人は素晴らしい事をしている素晴らしい人であるように見えるかもしれません。
しかし内側では罪と憎しみにまみれ、不満と欺瞞に満ちているのです。
このように、自分が実際よりも善い者であるかのように偽る事、実際よりも聖い者であるように偽る事を偽善と言います。
偽善は神様がもっとも嫌うわたし達の性質のひとつです。
そしてこの偽善こそが、わたし達の信仰を殺し、教会に死をもたらす危険な嘘なのです。
イエス様は、偽善についてこの様に言っています。
ルカ 12:1c「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。
わたし達が、自分の中にある罪を押し隠して、自分がいかに霊的で、聖書の知識があり、正しい事をしているかと言う話ばかりしたらどうなると思いますか?
その人は、この人に自分のダメな所を知られたら大変な事になると思って、その人自身も自分の罪を隠し、みえを張って自分の素晴らしさをアピールするようになるんです。
こうして、その交わりの中では本当の事を言う事ができず、隠したり、嘘ばかり突くようになっていきます。
偽善のパン種はどんどん膨らんで、教会の中に広がって行くのです。
それでは、クリスチャンではない人達は、これをどのように見るでしょうか?
僕達がどれだけ自分の罪を隠して、素晴らしい人間のふりをしていたとしても、実はそんなものはノンクリスチャンの人にバレバレなんです。
クリスチャンがいつも正しい事をしているわけではない事なんて誰でも知っています。
それなのに、わたし達がすまして素晴らしい人間であるふりをしていたら、彼らは絶対にクリスチャンになりたいなんて思いません。
だって、クリスチャンになるという事は自分を偽って正しい人間のふりをする事になるのですから、誰がそんな集まりに加わりたいと思うでしょうか?
わたし達自身もまた、偽善によって蝕まれていくんです。
表面的にどれだけ変わっても、中身が変わらなければそれはムリしているだけだからです。
そんな無理をしていれば、やがて疲れて限界が来てしまいます。
そしてわたし達は、表面的に取り繕えば取り繕うほど、中身は成長できなくなってしまうものなのです。
これは恐ろしいほどリアルな問題だとは思いませんか?
この様な教会を、わたし達はたくさん目にします。
そして、わたし達も少しでも油断すれば、すぐにこのような偽善に陥ってしまう危うさを持っているのです。
③ 教会が命を得るために
このような偽善に陥ってしまわないために、わたし達はどうしたらいいのでしょうか?
第一にわたし達は、自分を偽ってイイカッコウをしなくてもいい、フラットな信頼関係を築く必要があるという事なんです。
それは、ここしばらくこの使徒の働きの学びの中で繰り返し話してきている事ですね。
使徒の働きの中に語られている大きなテーマは、教会の中にある親密な人間関係です。
嘘や偽善というものは、その人間関係を破壊してしまうものだからこそ、とても危険なものだと言われているのです。
わたし達が気をつけるべき第二の事は、自分と他人を比較しないようにする事です。
わたし達が、自分を他人と比較する時、自分の方が優れていると感じれば優越感から来る傲慢が生まれ、自分の方が劣っていると感じれば劣等感から来る妬みが起ります。
アナニヤとサッピラがバルナバと自分たちを比較したりしなければ、バルナバのまねをして偽善的な行動に走る必要もなかったのではないでしょうか
わたし達が気をつけるべき第三の事は、わたし達が御霊の実のひとつである謙遜さという性質を成長させていくという事です。
たまに間違えられてしまう事ですが、謙遜であるという事は自分を小さく見積もって卑下する事ではありません。
本当の自分をちゃんとわきまえ、自分の罪深さ、自分の小ささ、自分の至らなさをちゃんと認めるという事です。
聖書にはこの様に書かれています。
マタイ 5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
IIコリント 12:10b なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
わたし達は、自分の罪を認める時、罪赦されている事の幸をより大きく感じる事ができます。
わたし達は、自分の弱さを感じる時、神様がわたし達の内に働いて強くして下さるのをより大きく実感する事ができます。
わたし達は心を空っぽにして主に求める時、空の器が油で注がれて満たされるのを知る事ができます。
そして、そのような神様の愛を豊かに感じるからこそ、互いの事もより深く愛する事ができるようになっていくのです。
まずは、心を開いて本音で話す事から始めましょう。
そして、自分の失敗についてたくさん話す事です。
アナニヤとサッピラのような失敗をするのではなく、わたし達はきっと真の関係を築いて主にある関係の回復をしていく事ができると信じています。