使徒6:8-14, 7:55-60 『 使徒⑨~人生を捧げる 』 2012/06/12 松田健太郎牧師
使徒 6:8~15、7:55~60
6:8 さて、ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行なっていた。
6:9 ところが、いわゆるリベルテンの会堂に属する人々で、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤから来た人々などが立ち上がって、ステパノと議論した。
6:10 しかし、彼が知恵と御霊によって語っていたので、それに対抗することができなかった。
6:11 そこで、彼らはある人々をそそのかし、「私たちは彼がモーセと神とをけがすことばを語るのを聞いた。」と言わせた。
6:12 また、民衆と長老たちと律法学者たちを扇動し、彼を襲って捕え、議会にひっぱって行った。
6:13 そして、偽りの証人たちを立てて、こう言わせた。「この人は、この聖なる所と律法とに逆らうことばを語るのをやめません。
6:14 『あのナザレ人イエスはこの聖なる所をこわし、モーセが私たちに伝えた慣例を変えてしまう。』と彼が言うのを、私たちは聞きました。」
6:15 議会で席に着いていた人々はみな、ステパノに目を注いだ。すると彼の顔は御使いの顔のように見えた。
7:55 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、
7:56 こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」
7:57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。
7:58 そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。
7:59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
7:60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。
かつてイエス様は、弟子たちの前でこの様な話をしました。
ヨハネ 15:18 もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。
15:19 もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。
15:20 しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。
迫害は、必ず起ります。
迫害は、決して避ける事ができません。
そのようなわけで、教会に対する迫害はその大きさを増してゆき、ついに最初の殉教者が起りました。
その殉教者の名前を、ステパノと言います。
先週のメッセージで、貧しい人達ややもめ達を支えていく働きをするために、7人のリーダーが新たに選ばれたという話をしました。
その7人の中に、このステパノの名前が入っています。
この7人の中に選ばれたという事は、御霊と知恵にあふれ、評判の良い人であったという事ができます。
そうは言っても、私たちは、このステパノという人の事をほとんど知らないんですね。
聖書のこの部分になるまでは、名前すら全く出てこなかったような人物でした。
しかし、このステパノが最初の殉教者となるに当たって、彼に突然スポットライトが当てられる事になるのです。
殉教というのは、その信仰の故に、命を失う事です。
世界では、今でもそのようにして、迫害の中で殉教していく人達がたくさんいます。
つい数百年前には、日本でもキリスト教史に残るほど多くの殉教者が出ました。
しかし、私たちが気をつけなければならないのは、「信仰の故に死ぬ事が素晴らしい」「死ぬべきである。」という価値観になってしまう事です。
殉教という者が、例えば第二次世界大戦の頃の特攻隊のようであったり、イスラム原理主義者による自爆テロのようなものとして考えられるべきではないという事です。
しかし、それでもこのステパノの殉教は大きな意味をもって、この使徒の働きの中に記されました。
それではこのステパノの死がどのような意味を持っていたのかというと、この話の次の話に繋がっていくのです。
ステパノが殉教したその場に、サウロという男がいました。
サウロは熱心なパリサイ派ユダヤ教徒で、イエスの弟子たちを捕え、迫害していた人物でした。
しかしこのサウロが、新約聖書の半分を作り、異邦人伝道を始めとしてたくさんの人達に影響を与えていくパウロというクリスチャンとなっていくのです。
パウロを変えたのはイエス様でした。
しかし、彼の人生の中でステパノの死が、とても大きな意味をもって変わっていくきっかけとなった事は疑いありません。
今日は、このステパノの殉教を通して二つの事を考えていただきたいのです。
第一に、ステパノがどうして信仰のために命を捨てる事ができたのかという事。
彼が命を捧げる事ができたという事は、彼が自分の人生の全てを神様に捧げていたという事です。
ステパノは、福音を綱える事にはそれだけの価値があると感じていたという事です。
それは、神様がどれほど大きなものを与えて下さっていたかという事を、ステパノが知っていたという事です。
以前、天に宝をたくわえる事の大切さについてお話ししました。
天に宝を蓄えるというのは、何か良い行いをして天国に行ってからご褒美をもらうというような事ではありません。
天に宝を蓄えるという事は、神様がこれまでどれだけの恵みを私たちに与えられたかという事に目を留め、そこに価値を見いだしていくという事です。
私たちは、どれだけの恵みを神様から受けているでしょうか?
私たちが実感している宝が多く、大きいほど、私たちは神様のためにより多くのものを捧げたいと思う事ができます。
神様がわたし達にどれほどよくしてくださったかを知る事は、大切な事なのです。
第二に、私たちはどのように生き、どのように死ぬかという事を通して、主の証人となるのだという事です。
それは、私たちが“どのように見せるか”という事ではありません。
私たちが日々、どのように生きているかという事が、私たちの生きざまであり、死にざまに繋がるのです。
私たちがどれだけ偉そうな事を言うことができても、どれだけ素晴らしい知識を伝える事ができても、誰もそんな説教に耳を傾けたりしません。
人は、私たちがどのように生きているかを見て、そこから何かを感じ取っています。
そしてそこに何か魅力を感じるなら、私たちの言う事に耳を傾けてみようと思うものなのです。
天国への希望をどれだけ伝えていても、その死にざまが醜かったら、誰がそんな言葉を信じようと思いますか?
だから私たちは、福音の知識を増すこと以上に、福音に生きる事が大切なのです。
さて、私たち自身はどのように証する事ができるでしょうか?
私たちの生きざまや死にざまの事を考えるのは、少し時間をかけながらじっくり取り組んでいく必要があるかもしれません。
でも、神様がどのようにして私達の人生に関わって下さったかという事を考える事は、すぐにでもできる事ではないかと思います。
これからしばらく、互いに証する時を持ちたいと思います。
神様がどのようにして私たちの人生に働きかけて下さったか。
神様のすばらしさ。
どうやって自分が神様と出会う事になったかを、それぞれ5分くらいの時間で分かち合っていただければと思います。
クリスチャンでない方は、話を聞くだけでも構いませんが、なるべくひとつのグループに固まらないようにしていただければと思います。
それでは、ひとつのグループに最大5人くらいになるように別れて下さい。