黙示録10:1-11 『 黙示録⑪~福音は苦くてあまい 』 2011/11/27 松田健太郎牧師
黙示録10:1~11
10:1 また私は、もうひとりの強い御使いが、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。その頭上には虹があって、その顔は太陽のようであり、その足は火の柱のようであった。
10:2 その手には開かれた小さな巻き物を持ち、右足は海の上に、左足は地の上に置き、
10:3 獅子がほえるときのように大声で叫んだ。彼が叫んだとき、七つの雷がおのおの声を出した。
10:4 七つの雷が語ったとき、私は書き留めようとした。すると、天から声があって、「七つの雷が言ったことは封じて、書きしるすな」と言うのを聞いた。
10:5 それから、私の見た海と地との上に立つ御使いは、右手を天に上げて、
10:6 永遠に生き、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを創造された方をさして、誓った。「もはや時が延ばされることはない。
10:7 第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」
10:8 それから、前に私が天から聞いた声が、また私に話しかけて言った。「さあ行って、海と地との上に立っている御使いの手にある、開かれた巻き物を受け取りなさい。」
10:9 それで、私は御使いのところに行って、「その小さな巻き物を下さい」と言った。すると、彼は言った。「それを取って食べなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。」
10:10 そこで、私は御使いの手からその小さな巻き物を取って食べた。すると、それは口には蜜のように甘かった。それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった。
10:11 そのとき、彼らは私に言った。「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」
私たちはここしばらくの間、大患難時代という大変な時期について話してきました。
怖くて、聞いているのが苦痛になってくるようなその時代ですが、今日は少し休憩です。
第7のラッパが鳴った時、全てが終わるのですが、その時を前にしてヨハネには別のメッセージが語られます。
それによって、神様がどうしてこのようなビジョンをヨハネに見せたのかという事、そしてこの黙示録が全ての教会に、すべてのクリスチャンに読まれなければならない理由が明らかにされていきます。
早速テキストを観て行きましょう。
① 秘密の言葉
10:1 また私は、もうひとりの強い御使いが、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。その頭上には虹があって、その顔は太陽のようであり、その足は火の柱のようであった。
10:2 その手には開かれた小さな巻き物を持ち、右足は海の上に、左足は地の上に置き、
10:3 ししがほえるときのように大声で叫んだ。彼が叫んだとき、七つの雷がおのおの声を出した。
10:4 七つの雷が語ったとき、私は書き留めようとした。すると、天から声があって、「七つの雷が言ったことは封じて、書きしるすな。」と言うのを聞いた。
これは、1章に出てきたイエス様の姿に似ていますが、ここには御使いと書かれているので、イエス様に次ぐような、偉大な権威をもった御使いなのでしょう。
この御使いが大きな声で叫ぶと、7つの雷が鳴り響き、その雷が言葉としてヨハネの耳に響きました。
雷のような音なのですから、はっきりと、誰の耳にも聞こえるような、そして誰にでもわかるような事が表されたのだと思います。
しかし、ヨハネはそれを書き留めてはならないと告げられました。
それがなぜなのか、雷のような声は何と言ったのか、今の私たちにはわかりません。
しかしその時が来れば、わたし達にもこれがそうだとはっきりわかるような形で示されるでしょう。
今はまだ、それを知る時ではないのです。
② 終わりの時は、確かに近づいている
10:5 それから、私の見た海と地との上に立つ御使いは、右手を天に上げて、
10:6 永遠に生き、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを創造された方をさして、誓った。「もはや時が延ばされることはない。
10:7 第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」
偉大な御使いは、神様に誓ってこの様な事を口にしました。
「もはや時が延ばされる事はない。」これは、「もう時間がない。」という事です。
いよいよ、7つ目のラッパが鳴って終わりの時が来ようとしている。
7つ目のラッパが鳴った時、預言者達に告げられていたように、神の奥義は成就するのです。
ここで言われている、神の奥義とは何でしょうか?
イエス様はかつて、弟子たちにこの様に語られました。
マタイ 13:11 イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。
神の奥義とは、神様の救いの計画。
福音です。
それは、わたし達人間に罪が入ったその時からずっと計画されていた偉大な計画です。
イエス様が、ご自分の命と引き換えに私たちの罪を贖い、死を打ち破って3日後に蘇られた事によって、わたし達にも永遠の命が与えられました。
私たちはそれによって、神様と永遠に過ごす事が約束されていたのです。
人類が罪に堕ちてからずっと約束が、今こそ果たされる時が来たのだと、この御使いは教えているのです。
③ 福音を伝えよ
10:8 それから、前に私が天から聞いた声が、また私に話しかけて言った。「さあ行って、海と地との上に立っている御使いの手にある、開かれた巻き物を受け取りなさい。」
10:9 それで、私は御使いのところに行って、「その小さな巻き物を下さい。」と言った。すると、彼は言った。「それを取って食べなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。」
10:10 そこで、私は御使いの手からその小さな巻き物を取って食べた。すると、それは口には蜜のように甘かった。それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった。
神様は、御使いのところに行って、小さい巻き物を受取るようにとヨハネに告げました。
ヨハネが行くと、御使いは「それを取って食べなさい。」と告げました。
そしてこのように言ったのです。
「それはあなたの腹には苦いが、あなた口には甘い蜜のようだ。」
この巻き物は、“小さな巻き物”と呼ばれているので、イエス様が開いた7つの封印がある巻き物とは別のものです。
この小さな巻き物は、福音を告げ知らせる神様の御言葉を表しているんです。
もともと聖書の中では、神様の言葉は蜜のように甘い物として表されてきました。
詩篇 19:10 それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。
エゼキエル 3:3 そして仰せられた。「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。」そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。
みなさん、それを口にする人々にとって、福音とは甘いものなんです。
それは、神様の愛で満ちているからです。
わたし達の心に喜びを与え、心をわくわくさせ、わたし達を幸せにするものだからです。
神様の御言葉を口にしたエレミヤはこの様に言っています。
エレミヤ 15:16 私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。
しかし、福音は甘さだけで終わるものではありません。
福音は確かにわたし達に喜びを与える。
福音は確かにわたし達を幸せにする。
しかし、ただ嬉しいだけじゃない、ただハッピーになるのではない。
わたし達が、福音を受け入れて神様の愛と赦しを余すところなく受けるほどに、わたし達の心にはっきりとして来るものがあります。
それは、わたし達人間の小ささ、愚かさ、罪深さ、そういったものです。
わたし達はどれほど救いを必要としているのか、どうしてわたし達のために神のひとり子が十字架にかからなければならなかったのか、それがわたし達の心のうちにもっともっと大きなものとなって行くのではないでしょうか?
そしてだからこそ、神様の愛をより大きく感じ、より深く味わう事ができるのです。
ヨハネが福音の甘さと苦さの両方を味わった時、御使いと神様はヨハネに言いました。
10:11 そのとき、彼らは私に言った。「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」
ここで、ビジョンはいつの間にか未来の事ではなく、現在のヨハネに対してのメッセージに変わっている事がわかります。
そしてこのメッセージは、黙示録を読み、福音の甘さと苦さを味わった全ての人に対するメッセージだと僕は思います。
福音の甘さと苦さを知ったわたし達は、この福音を全ての人々に伝えて行かなければなりません。
それは義務や命令というものよりも、自分自身の使命としてわたし達は受取って行くのではないでしょうか?
この黙示録を読み、学びながら、わたし達の心のうちに大きくされて行くのは、もっと多くの人達を救いに導かなければという想いなのではないかと思うのです。
僕自身が今、人々に福音を伝えるという事を大きな使命として実感しています。
時に驚かされるのは、福音を必要としているのは、まだ救いを受けていないノンクリスチャンの人達だけでなく、すでに洗礼を受けたクリスチャンの方たちの多くも、福音に飢え、福音を受取る事を必要としているという事です。
この日本という国を変え、世界に影響を与えて行くのはキリスト教という宗教ではありません。
世界の3分の1がクリスチャンである。
すでに救われている。
それは素晴らしい事です。
しかし、それほど多くのクリスチャンがいるにも関わらず、世界にこれほど闇におおわれているように感じるのはなぜでしょうか?
これほど多くの無神論者が増え続け、イスラム教が力を持って行くのはなぜでしょうか?
それは、宗教には力がないからです。
わたし達に力を与えるのは、福音です。
神様がわたし達の家に生き、わたし達に力を与えてくれるからこそ、わたし達は赦し、愛し、助け、他の人達を救いに導いて行く事もできるのではないでしょうか?
そして、その力を手に入れるためには、わたし達は福音の甘さと、苦さをよく味わう必要があるのです。
御言葉という霊の食べ物を、どうかよく噛み、ゆっくりと味わって下さい。
そしてわたし達も、ひとりでも多くの人達に福音を伝える者となろうではありませんか。