黙示録11:1-11 『 黙示録⑫~ひとりでも多くを救うために 』 2011/12/04 松田健太郎牧師
黙示録11:1~11
11:1 それから、私に杖のような測りざおが与えられた。すると、こう言う者があった。「立って、神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ。
11:2 聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。彼らは聖なる都を四十二か月の間踏みにじる。
11:3 それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」
11:4 彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。
11:5 彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。
11:6 この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており、また、水を血に変え、そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。
11:7 そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。
11:8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。
11:9 もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない。
11:10 また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。それは、このふたりの預言者が、地に住む人々を苦しめたからである。
11:11 しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らに入り、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。
11:12 そのときふたりは、天から大きな声がして、「ここに上れ」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。
11:13 そのとき、大地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のため七千人が死に、生き残った人々は、恐怖に満たされ、天の神をあがめた。
11:14 第二のわざわいは過ぎ去った。見よ。第三のわざわいがすぐに来る。
11:15 第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」
11:16 それから、神の御前で自分たちの座に着いている二十四人の長老たちも、地にひれ伏し、神を礼拝して、
11:17 言った。「万物の支配者、今いまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。
11:18 諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りの日が来ました。死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。」
11:19 それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。また、いなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹が降った。
さて、黙示録を読んできてシリーズの12回目のメッセージとなります。
この辺りは、黙示録の中でも一番解釈が難しい所と言われていて、僕自身読んでいてよくわからないのが実際のところです。
それでも進んで読んでいくしかないので、とにかく進んでいきたいと思います。
今わたし達は、大患難時代について学んでいる所ですね。
そのただなかで、ヨハネは福音を口にし、その甘さと苦さを味わいました。
その体験は、ヨハネに福音を述べ伝える心を与えたというのが、前回の話でした。
今回もまた、ヨハネには役割が与えられます。
① 測りざお
11章は、この様な言葉から始まります。
黙示録11:1 それから、私に杖のような測りざおが与えられた。すると、こう言う者があった。「立って、神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ。
11:2 聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。彼らは聖なる都を四十二か月の間踏みにじる。
ヨハネには測りざおが与えられて、それで聖所と、祭壇と、礼拝している人を測るように命じられたのです。
聖所というのは、神殿の建物になっている部分の事ですが、問題があります。
ヨハネがこの黙示録を書く20年も前に、エルサレムの神殿はローマのタイタス将軍によって破壊されてしまい、今に至るまで神殿はありません。
このことから、終末には新しい神殿が建築されるのだという人達もいますが、僕はこの話は文字通りの神殿の事ではないんじゃないかと思います。
そこでパウロのこの言葉を思い出していただきたいのです。
Iコリント3:16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
神殿とは、教会やクリスチャンの事を指しているのです。
では、“測る”とはどういう事でしょうか?
この言葉も預言の中では色んな意味として考えられますが、この場合には、測る事によって救われる人々と、救われない人々が測り分けられているのだという事がわかります。
しかもこれは、測られた人は全員救いを受け、守られるために分けられるという事なのです。
しかし、聖所の外側、わたし達クリスチャンから近くても、信仰をもたない人々は、この困難の辛い部分もすべて経験しなければなりません。
そしてその人達がそのまま主イエスを受け入れるのでなければ、完全な裁きを受ける事になってしまうのです。
この時測られなかった人達は、一定の期間聖なる都を踏みにじると言われています。
聖所を踏みにじるというのは、教会を迫害するという事かもしれませんね。
そこである程度の被害は受けるものの、クリスチャンは神様によって護られるのです。
② ふたりの証人
次に、ふたりの証人と呼ばれる人達が突然現れます。
黙示録11:3 それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」
11:4 彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。
何の説明もないので、これが一体どこから来た誰なのか、さっぱりわかりません。
多くの聖書学者たちは、モーセとエリヤだとか、ペテロとパウロだとか色んな説を唱えていますが、黙示録がイエス様の再臨という未来の事について語っているものだとすれば、聖書に登場するだれかではなく、この時代にいる人達と考えた方が自然でしょう。
彼らは、『全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。』と言われています。
これは、旧約聖書の中に答えを見つける事ができます。
まずは、“二本のオリーブの木”という表現がゼカリヤ書の中にあります。
ゼカリヤ 4:3 また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はこの鉢の右に、他の一本はその左にあります。」
そしてゼカリヤ書には、この幻は聖霊の油に満たされていることを表していて、『権力によらず、能力によらず、神様の霊によって。』という意味である事が書かれていました。
また、燭台という言葉は黙示録の中で何度も出てきましたが、すべて“教会”を指している言葉として使われています。
つまり、このふたりの証人というのは、聖霊の力に満たされた教会を表していると解釈する事ができます。
この証人たちには、続いて次のような事が起ります。
黙示録 11:5 彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。
11:6 この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており、また、水を血に変え、そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。
11:7 そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。
彼らは終末の大混乱の時代に合って、暗闇の中の希望の光となって人々に証をします。
彼らにはモーセやエリヤにあったような偉大な奇蹟が共ない、時が満ちるまで護られているので彼らを殺す事は誰にもできません。
しかし、彼らが伝えるべき証を終えると、底知れぬところから上ってくる獣が彼らを殺します。
この獣とは、この後黙示録に出てくることになる、反キリストです。
黙示録を読んだ事がなくても、聖書を知らなくても、“666”という数字は多くの人達が知っていますね。
この“666”という数字は、この反キリストである“獣”を意味する名前として後で登場してきます。
反キリストはこの証人達を殺し、その死体はしばらくの間さらしものにされ、それを観た人々は喜んで祝います。
ところが、そのままでは終わらないのです。
黙示録 11:11 しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らにはいり、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。
11:12 そのときふたりは、天から大きな声がして、「ここに上れ。」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。
11:13 そのとき、大地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のため七千人が死に、生き残った人々は、恐怖に満たされ、天の神をあがめた。
このようにして、頑なになって神様を否定していた人達さえも、この奇跡を通して神様をあがめたのです。
この人達が信仰をもって救われるのかどうかはわかりませんが、神様がひとりでも多くの人達を救いに導こうとする姿を、わたし達は黙示録の中に見る事ができるのです。
③ 第7の御使いのラッパ
そしていよいよ、第7の御使いによってラッパが吹きならされる時が来ました。
「7つ目のラッパが吹きならされると、もう全てが終わる。」そのようにいわれていたんですよね。
ところが、いよいよ終わりの時が来た、クライマックスだと思ったら、まだ終わりません。
黙示録 11:15 第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」
元々は、イエス様が開いた巻き物の封印の、7番目の封印が開かれた時に全てが終わるはずでした。
しかし、7番目の封印が開かれたと思った途端、7つのラッパが吹きならされました。
そして、7つ目のラッパが吹くならされる時に、今度こそ全てが終わると宣言されていたのですが、7つ目のラッパが吹きならされるとそのイベントはたくさんの出来事で構成されている事がわかるのです。
こうして、時はどんどん凝縮され、加速を増してはいくのですが、わたし達にはそれと同時に、まるで終わりの時が引き延ばされているようにも感じられるのです。
何しろ、「もう終わる、もう終わる」と言いながら、章で言えば今やっと半分に達嫉妬頃です。(笑)
神様は、終わらせたくないと思っているようにしか思えない。
なぜでしょうか?
それは、神様は人々が裁かれるのではなく、ひとりでも多くの人達が救われて欲しいと願っているからです。
神様は、悔い改めるための機会を、人々に何度も繰り返し与えているのです。
イエス様はある時、この様なたとえ話をされました。
ルカ 13:6 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。
13:7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』
13:8 番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。
13:9 もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」
1年で実るはずのいちじくが、何年経っても実らない。
畑の主人が、「そんないちじくはじゃまだから切り倒せ。」と命じる。
しかし畑の番人は「あと一年、もう一年待って下さい。」と主人に頼み込みます。
神様は、わたし達をこの様な思いで守り、ひとりでも多くの人が救われるために戦っているのです。
黙示録、終末というと、わたし達は神様の怒りが下る時だというイメージを持っていると思います。
確かに、神様の“義”、正しさというものが発揮されて悪が滅びる時ではありますが、単なる怖い話ではないのです。
黙示録は、最期の時になってもあきらめず、ひとりでも多くの人を救おうとする神様の愛の物語です。
確かに恐ろしい事がたくさん起るのですが、神様はそのような出来事を通しても、わたし達を愛し、救おうとしているのだという事を思い出していただきたいのです。
わたし達はこれから聖餐の時を持ちますが、この聖餐式を通して、わたし達が神様の愛によって救いを受取っているのだという事を確かな事として受取れますように。
また、聖餐のパンとぶどうジュースを受取る事によって、自分はイエス様への信仰を持っているのだという事を告白していただきたいと思います。
では、祈りの後に聖餐式に入って行きましょう。