黙示録2:1-7, 12-29 『 ④7つの教会(上) 』 2011/09/25 松田健太郎牧師
黙示録 2:1 エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。
2:2 「わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。
2:3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。
2:4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
2:5 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。
2:6 しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行いを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。
2:7 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」』
2:12 また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。
2:13 「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。
2:14 しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。
2:15 それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。
2:16 だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。
2:17 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」』
2:18 また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。
2:19 「わたしは、あなたの行いとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行いが初めの行いにまさっていることも知っている。
2:20 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。
2:21 わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。
2:22 見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。
2:23 また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行いに応じてひとりひとりに報いよう。
2:24 しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。
2:25 ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。
2:26 勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。
2:27 彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。
2:28 また、彼に明けの明星を与えよう。
2:29 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』
長く僕を知っている方はご存じだと思いますが、僕は腰が弱くて、これまでに何度かぎっくり腰を患っています。
腰だけが理由ではないのですが、僕は今、週2回整骨院に通って体の歪みを治してもらっているんですね。
体の歪みが健康に不調を起こしているわけですが、もちろん歪めようと思って歪んだわけではありません。
それは普段の姿勢や癖に偏りがあるので、どうしても歪んできてしまうんですね。
そこで整骨院の先生が、治療するだけではなく、普段の生活でこういう所に気をつけるようにというアドバイスをしてくれます。
そのアドバイスに従う事によって、僕たちは体の歪みを起こす癖が改善されて、体調を崩しにくくなるわけです。
イエス様も同じように、わたし達を治療し、アドバイスをくれます。
クリスチャンとして生きていく上で、どうするべきか、何をして、何を避けるべきか。
時としてそれは厳しい言葉である時もありますが、それはわたし達にとって必要な事だからです。
糖尿病の患者が「甘いものがやめられないんですよ・・・。」とお医者さんに相談した時、「あ~、やっぱ止められないですよね~。やめられるんなら糖尿病なんてなっていないすし。まぁ仕方がないですよ。あ~、甘いものが好きだったら、この病院の近くにあるケーキ屋さんお勧めですよ。あそこのキーライムパイがメチャクチャおいしいんです。」なんて言うお医者さんは信用できますか?
そのままではいけないから、イエス様はわたし達に注意を促し、正して下さるのです。
7つの教会全てをじっくり見て行くわけにはいきませんが、ひとつひとつの教会に言われている事を自分に対しての言葉として、吟味していきたいと思います。
今日はその内の3つの教会について取り上げましょう。
① エペソの教会へ(2:1~7)
まずはエペソの教会から見て行きましょう。
2:2 「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。
2:3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。
2:4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
2:5 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。
エペソの教会はパウロが始め、テモテが働いていた教会です。
この教会には素晴らしい点がいくつもありました。
彼らはよく働き、迫害にもよく耐え、とても忍耐した教会でした。
さらに、使徒であると自称している人のウソを見抜き、ニコライ派という異端の教えを排除する事ができるような、見る目を持った人々だったのです。
この教会は、キリスト教の教理に関して、とても優れた知識を持っていて、何が正しく、何が間違っているかという事をよく理解していました。
それはとても大切な事です。
「しかし、あなた方には非難する事があるのだ。」とイエス様は言っています。
それは、この教会に愛がなかったという事です。
正しいか、間違っているかという事を判断する事は、とても大切な事です。
しかし、わたし達をとても冷たくしてしまいます。
教会とキリストの関係は時として夫婦の関係にたとえられますが、その例えで考えれば、この夫婦は品行方正、清廉潔白ではあるけれど、愛のない夫婦です。
確かに浮気もしない、ケンカもしない、夫であればよく働き、妻であればよく家事をこなすかもしれないけれど、この夫婦には愛がないのです。
この様な教会に、あなたは初めにあった愛に戻りなさいとイエス様は言います。
愛がなければ、本当に健康な教会にはなれません。
愛がなければ、どんな行いにも意味はなく、わたし達は愛を持ってキリストの弟子である事を知らしめるようにと命じられているのです。
もし変わる事がなく、悔い改めようとしないなら、あなたの元から燭台をはずしてしまうとイエス様は言います。
これはどういう事でしょうか?
これは別に、救いを失ってしまうというような事ではありません。
イエス様が言ったこの言葉を思い出してみていただきたいのです。
マタイ 5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
わたし達がどれだけ正しい事をしていたとしても、愛がないならば、わたし達が暗闇であるこの世界の中にあって世の光となる事は出来ないという事です。
光を失った教会はすぐに滅んでしまうかと言えば、そうではないでしょう。
しかし、光を失った教会はこの世の中に溶け込んでしまって、力を失い、福音を伝える事もありません。
そして、そのような教会はやがてなくなって行ってしまうのです。
日本では、たくさんの教会やクリスチャンがこのような状態の中にあります。
人を批判し、裁き、型にはめようとします。
しかし、それでは世の光とはならないとイエス様は言うのです。
イエス様はこう言ったはずです。
ヨハネ 13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
13:35 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
② ペルガモの教会、テアテラの教会へ(2:12~29)
次に、少し飛んで先にペルガモの教会を見て行きましょう。
2:13 「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。
2:14 しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。
ペルガモの教会は、大迫害を受けた町にあった教会でした。
この教会で多くの人達が捕えられ、残酷な殺され方をしました。
正にサタンの王座があるような街が、このペルガモだったのです。
この教会の人々は、その大迫害によく耐え抜きました。
彼らはどんなに絶望的な状態にある時でもしっかりと信仰を保ったのです。
しかし、彼らにも問題がありました。
ひとつには、ペルガモの教会の中にバラムの教えを奉じている人達が出たという事です。
これが具体的にどのような教えだったのかはわかりませんが、偶像崇拝と不品行を教えていたと書かれていますね。
さらに、彼らはエペソの教会が排除したニコライ派の教えを受け入れてしまいました。
テアテラの教会に関しても同じ事が言えます。
次はテアテラの教会も見てみましょう。
2:19 「わたしは、あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。
2:20 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。
テアテラの教会は最初に挙げたエペソの教会とは正反対の教会です。
この教会は、愛と愛の働きに溢れていました。
愛はあるという意味では、テアテラの教会は素晴らしい教会でした。
しかし、教会の中で不品行が起り、偶像崇拝が起り、間違った事を教える人々を野放しにしていたのです。
ここに、教会が陥りがちなもうひとつの問題があります。
それは、この世の価値観や罪への妥協です。
優しさや寛容さは、時として別の物にすり替わってしまう事があります。
必要な事を注意する事ができず、悪いものをのさばらせてしまうという事です。
しかし、滅びの道を進む友を放っておく事は、優しさでも寛容さでもありません。
ましてや、そこには愛がありません。
「あなた方は地の塩である」と、イエス様は言われました。
塩は、味付けをすると同時に、肉が腐るのを遅らせる、防腐剤としての効果があります。
わたし達クリスチャンは、この世界に味付けをし、社会が腐るのを留める役割を担うように命じられているのです。
わたし達がその役割を果たさないなら、わたし達は塩けをなくした塩と同じです。
塩けをなくした塩は、地に捨てられるだけです。
この世の中に、何の影響力も発揮する事ができないからです。
③ バランスが大切
イエス様が診断し、警告を伝えたこの3つの教会へのメッセージは、わたし達にバランスの大切さを教えてくれます。
わたし達は、どれだけ正しくても愛がないなら、誰もその言葉に耳を傾けようとはしないでしょう。
また、わたし達はどれだけ愛があっても、正しさを知らなければ、この世界に決して良い影響を及ぼさないのです。
どちらか一方では片手落ち。
正しさと愛の両方そろって、わたし達は初めて地の塩、世の光としての役割を果たす事ができます。
では、愛や正しさが足りない事を知ったわたし達は、どうしたらよいのでしょうか?
どうすれば、愛や正しさを手にする事ができるのでしょう?
愛について、聖書にはこの様に書かれています。
Iヨハネ 3:16a,b キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。
わたし達が本当に愛を知るためには、神様の愛に触れる必要があります。
愛を体験した時、初めて愛せる様になるという事もあるのです。
正しさに関しても、聖書にはこの様に書かれています。
ローマ 3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
正しさもまた、本来わたし達の中には備わっていないものです。
正しさというものは、わたし達がもっているものではなく、神様の内にあるものなのです。
わたし達が、自分の内には愛も正しさもない事を自覚して、神様にそれを求めるなら、わたし達は少しずつでもそれを理解する事ができるようになっていくでしょう。
主は、ただわたし達に問題を教えてくれるだけでなく、わたし達に必要なものを与えてくれる方だからです。
わたし達を診断するだけでなく、ちゃんと治療をして下さるのです。
そして、イエス様ほどの癒し主は他にはいないのです。
わたし達の問題は何でしょうか?
今日学んだ3つの教会の中では、どの教会に似ているでしょうか?
もしかしたら、今日は学ばなかった他の4つの教会に、自分の霊的な状態が表されているかもしれません。
全ての問題を理解し、癒して下さる主に感謝して、祈りの時をもちましょう。