黙示録3:1-6, 3:14-22 『 黙示録⑤~7つの教会(中) 』 2011/10/02 松田健太郎牧師
黙示録 3:1 また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。
3:2 目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。
3:3 だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。
3:4 しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。
3:5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。
3:6 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』
3:14 また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。
3:15 「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
3:16 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。
3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
3:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。
3:19 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
3:21 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。
3:22 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』」
皆さん、恐れていた事が起りました。(笑)
この7つの教会へのメッセージのシリーズは、2回では終わらず、3回まで続く事になりました。
ダラダラやっていく事は避けたいのですが、別にそれほど急いでいるわけでもないですから、大切な所はじっくり時間をかけながら進めてもいいのかもしれません。
そのようなわけで、今日は先週のメッセージの続きです。
先週のメッセージを聞いていらっしゃらない方は、ホームページから先週のメッセージを聴く事ができるので、ぜひ聴いてみてください。
先週からお話ししているのは、わたし達全ての教会とクリスチャンを代表する7つの教会への、イエス様からのメッセージです。
イエス様はお医者さんと同じだという話をしました。
イエス様は、必要に応じてわたし達を力づけ、励まし、場合によってはそれぞれの霊的な状態と問題を的確に指摘して、が気をつけるべき事を教え、問題を癒して下さるのです。
先週は7つの教会の内、エペソ、ペルガモ、テアテラという3つの教会について、正しさと愛のバランスの大切さを中心に学びました。
順番はバラバラですが、今日はサルデスとラオデキアという二つの教会を見て行きます。
しかし実は、この二つの教会はかなり悪い状態にある教会なのです。
だから、わたし達にとっても耳の痛い話があるかもしれませんが、わたし達への必要な診断であり指導として、心して受け取って行きたいと思います。
それでは見て行きましょう。
① サルデスの教会(3:1~6)
この大迫害の時代、多くの教会が迫害を受け、残酷な殺され方をしていました。
しかしその中で、サルデスの教会は平和に、特に問題もなく過ごしてたのです。
多くの日本人は、神社で無病息災を祈ります。
そういう意味で言うならば、サルデスの教会は何も深刻な問題が起らず、平穏無事な日々を暮らしていた教会だったんです。
本人達は、他の教会は大変だけどこの教会は祝福されていると思っていたかもしれません。
ところが、イエス様の評価はそうではありませんでした。
黙示録 3:1 また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。
3:2 目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。
3:3 だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。
厳しいですね。
これまでは、教会の良い所、悪い所の両方が記されてきましたが、この教会は良い所が何もない。
それどころか、「神の御心に適う事を何もした事がない。」というように言われています。
サルデスは、重症の教会だったのです。
サルデスの教会の何が問題だったのでしょうか?
それは、「生きていると思っているけれど、実は死んでいる。」という霊的状態です。
これは確かに重症、というかもう死んでいるのですから大変な事です。
でも自分は生きているつもりでいるので、これはもう霊的なゾンビ状態にあるわけです。
それでは霊的なゾンビ状態というのは、一体どういう状態なのでしょうか?
まずひとつ押さえておきたいのは、わたし達は生まれつき、霊的には死んだ状態で生まれてくるという事です。
死んでいる人は、わたし達が何をしても、話しかけても、何の反応もしません。
それと同じように、霊的に死んだ状態であるわたし達は、神様の呼びかけやアクションに大して、何の反応もする事ができない状態にあるのです。
しかし、イエス様は、「わたしは命であり、蘇りです。」と言いました。
わたし達が自分の中にある罪を認め、悔い改めて、イエス様の十字架によって罪が赦された事を信じる時、わたし達は罪の赦しを受取り、新しい命を受けます。
わたし達がイエス様と共に生きるという事は、わたし達が新しい命によって生きる、新しい人生が始まるという事を意味しています。
新しい命を受けたわたし達クリスチャンは、聖霊によって神様を呼び掛けに応答できるようになり、神様の言葉に対するアクションをする事ができるようになったはずなのです。
ところが、わたし達が神様から目を背け、この世の価値観に目を向け始めると、わたし達の心は少しずつ元の状態に戻り、やがて霊的には死んでしまったのと同じような状態になってしまうのです。
わたし達が聖書を読む事をせず、神様の御言葉に触れていなければ、そもそも神様の言葉に耳を傾ける事さえない状態です。
例え聖書を読んでいても、わたし達がただ読み進めているだけだったり、知識をたくわえたりするだけなら、わたし達は神様に何の応答もしない、霊的には死んだ状態です。
そんなわたし達に、イエス様は言うのです。
「目を覚ましなさい! そして、死にかけている人を力づけなさい。」
クリスチャンなのに霊的に死んでしまったから、もうダメなのではありません。
仮にも新しい永遠の命を受けているわたし達は、例え死んだような状態にあったとしてもその事に気づき、悔い改め、イエス様の元に戻ればいいのです。
そうすれば、わたし達は再び、命の光に満ちたクリスチャンとして回復する事ができます。
イエス様はペテロにこの様に言った事があります。
ルカ 22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
イエス様が十字架に架けられた時、ペテロは3度もイエス様を知らないと言いました。
そのような挫折と失敗を経験したからこそ、ペテロは他の人達を立ち直させる事ができると、イエス様は言ったのです。
わたし達もまた、失敗や躓きを経験したならば、そこから立ち直って、今度は同じ失敗をしようとしている他のクリスチャンたちを励まし、その状態から抜け出すのを助けてあげる事ができるのです。
② ラオデキヤの教会(3:14~22)
さて、もうひとつ、ラオデキヤの教会を見てみましょう。
ラオデキヤはとても大きくて、裕福な町でした。
サルデスとは別の意味で、何不自由なく、問題意識も感じることなく暮らしていた教会だったのです。
ところが、この教会に対しても、イエス様は厳しい評価を下したのです。
黙示録 3:15 「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
3:16 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。
3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
ラオデキヤの教会は、現代のわたし達に“なまぬるい”教会として知られています。
“なまぬるい“教会と言うのは、皆さんにとってどんなイメージでしょうか?
なまぬるいというのは、何だか神様はビシビシとやろうとしているのだけど、ラオデキヤの人達はタラタラやってるような、そんな感じのイメージかもしれません。
でもそういう事ではないんですね。
ラオデキヤは、天然の温泉で有名な町でもありました。
当時のローマ帝国によって、この町にも上水道が敷かれていたのですが、この町は天然温泉の影響で、温かい水が流れていたのです。
観光客が知らずに飲もうとすると、予想に反して温かい水なので、思わずオエっとなってしまうのが、この町で有名な事でもありました。
イエス様は、まさにこの町の教会は、それと同じだと言っているのです。
熱くも冷たくもない、気持ち悪い状態だということですから、“なまぬるい”というよりは、“生温かい”という方が吐き出したくなるような気持ち悪さを表現できているかもしれません。
では、生温かい信仰とはどのような信仰の事でしょうか?
これは一言で言うと、“救われただけのクリスチャン”の状態なのだと思うのです。
まだ救われていないというなら、これから救われてクリスチャンになればいい。
もう救われたクリスチャンなのであれば、神様の福音によって燃やされて、愛と喜びの中でキリストに似たものと変えられていきます。
ところが、イエス様の十字架を受け入れて救われたはずなのに、本当に信じているのかどうかわからないような状態、福音に生きているとは思えないような状態のクリスチャンもいます。
それは、冷たくも熱くもない、生温かいクリスチャンだと、イエス様は言うのです。
そしてそんな生温かい信仰は、ラオデキヤの水のように吐き出してしまいたいとイエス様は言うのです。
どうしてそのような状態になってしまうのでしょうか?
わたし達が、このような生温かいクリスチャンになってしまう要素はたくさんあります。
しかしラオデキヤの教会に関しては、彼らが裕福な状態にあったという事が大きな要因となっているでしょう。
別に、裕福であることが悪い事だというわけではありません。
しかし、裕福である事によって、わたし達は感謝の心が薄れ、また生活の中で神様の力に頼らなければならない部分が圧倒的に少なくなってしまうのではないでしょうか。
それによって、神様との関係がどんどん希薄になってしまうのです。
イエス様は言います。
3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
イエス様は、わたし達の意思を尊重して下さる方です。
だから、決してわたし達の心の扉をこじ開けたり、たたき壊して入ってくるような方ではありません。
しかし、扉の前でひっそりと、入るには入れないでじっと待っているような草食系でもありません。
イエス様は、積極的にわたし達の心の扉をたたいているのです。
「さあ、わたしはここにいる。扉を開いてくれ。共に飯でも食いながら、心を割って話し合おう。わたしの前で心を偽って良い子ぶる必要はない。納得のいかない事があるなら、離したらいい。辛い事があるなら、泣いたらいい。しかしどうか心の扉を開いて、心の底からの関係を築いてほしいのだ。」と、わたし達と関わろうとして下さいます。
自分のイエス様との関係が冷たくも熱くもない、生温かい状態だと感じている方はいらっしゃるでしょうか?
どうか、イエス様との深い関係を築いていただきたいのです。
わたし達がイエス様の呼びかけに応え、心を開いてイエス様と語り、その関係を深めるならば、わたし達が生温かいクリスチャンに留まる事はありません。
主の愛はわたし達の心を燃やし、熱い心をもって主と共に歩むようになるはずです。
イエス様はそれを心から望んでいるのです。
この話で言うところの冷たい関係、つまりイエス様の救いをまだ受け入れていない状態の方もいらっしゃると思います。
そんな皆さんの心の扉も、イエス様はたたいています。
「どうかわたしを心の内に迎え入れ、共に生きる道を歩んで欲しい。」とイエス様は望んでいます。
今日をその初めの時としてみてはいかがでしょうか?