黙示録2:8-11, 3:7-13 『⑥7つの教会へのメッセージ(下) 』2011/10/09 松田健太郎牧師
黙示録 2:8 また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。
2:9 「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。──しかしあなたは実際は富んでいる──またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。
2:10 あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。
2:11 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」』
3:7 また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。
3:8 「わたしは、あなたの行いを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。
3:9 見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。
3:10 あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。
3:11 わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。
3:12 勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。
3:13 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』
7つの教会へのメッセージ、最後の2つの教会についてお話していきたいと思います。
最初に取り上げた3つの教会、エペソ、ペルガモ、テアテラの教会は、良い所と悪い所があって、そのバランスが大切だという事をわたし達は学びました。
先週取り上げた2つの教会、サルデスとラオデキアの教会は、自分たちは優れていると負っていましたが、実際には重症の教会でした。
今日取り上げる二つの教会、スミルナとフィラデルフィアの教会は、イエス様から悪い評価を全くされなかった理想的な教会なんです。
皆さんが理想とされる教会とはどんな教会でしょうか?
アメリカで言えばサドルバック・チャーチとか、ウィロークリークチャーチのような、いわゆるメガチャーチでしょうか?
それとも、イベントやスモールグループなど、プログラムが充実している教会でしょうか。
あるいは、感動的なメッセージをする、素晴らしい牧師の元にリーダーシップを取られる教会でしょうか?
では、ひとりのクリスチャンとしては、どんなクリスチャンが理想でしょうか?
クリスチャンになったら全ての悩みから解放されて、何の問題もなく、良い事ばかり起る。
いつでも喜びに満たされていて、素晴らしい人間となる事と考えるかもしれません。
それでは、イエス様が考える理想的な教会とはどのような教会なのか、ともに考えていきたいと思います。
① スミルナの教会(2:8~11)
このスミルナに宛てたメッセージは短いので、全体を読んでみたいと思います。
黙示録 2:8 また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。
2:9 「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる。――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。
2:10 あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。
2:11 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」』
スミルナという町は、とても大きな町でした。
そしてこの町は、ローマ皇帝を一番初めに神として崇めた町として知られている町でもあります。
その事もあって、このスミルナの町にあった教会は、大きな迫害を受け、何人もの人達が囚われ、殺されていたのです。
わたし達がクリスチャンになるからと言って、人生で起る全ての事が祝福に変わり、良い事ばかりが起るようになるのではありません。
それどころか、もっと大変な状況に陥ってしまう事も少なくありません。
僕達がどのような環境で生活しているかにもよりますが、ある僕の友人は、会社が毎朝神棚に参拝する事を拒んだために、職を失ってしまいました。
ある友人は、ブログで福音を伝えようとしていましたが、ある事がきっかけで大きな攻撃を受け、ブログは炎上し閉鎖せざるをえなくなってしまいました。
僕の大学時代の友人は、クリスチャンになったために両親から勘当されてしまいました。
わたし達がクリスチャンであるからと言って、必ずこのような迫害に合うとは限りません。
しかし、わたし達が福音を伝えていくという事には、このような仕打ちを受ける事があるんだという覚悟も、持っていなければならないと思います。
イエス様は、かつてこの様に言いました。
ヨハネ 15:18 もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。
15:19 もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。
わたし達が神様に従うという事は、それ自体が辛かったり、苦しい事ではありません。
しかし、この世界との関わりの中で、様々な苦難を経験する事が起りうるのです。
いや、起る事が当然と言っていいのかもしれません。
なぜなら、わたし達が神様に従おうとする事を嫌い、邪魔をする敵がわたし達にはいるからです。
この教会でも、「さぁこれから!」という時に病で倒れたり、人間関係が悪くなったり、邪魔をするような様々な事が起ってきました。
今も気がつかない内に、わたし達は敵からの攻撃を受け続けているでしょう。
それは、わたし達が神様の御心に従い、働きをしているからです。
わたし達は、サタンを恐れてはいけません。
わたし達は、決してそのような攻撃に惑わされて恐れることなく、神様に従い続ければいいのです。
わたし達が恐れをなして戦いを止めてしまう事こそ、サタンの狙っている所だからです。
② フィラデルフィアの教会(3:7~13)
さて、この7つの強化のシリーズで、最後に取り上げるのは、フィラデルフィアの教会です。
この教会は、“兄弟愛”という意味の名を持つフィラデルフィアという大きな町にありましたが、彼らは力のない小さな群れでした。
そんなどこにでもありそうな、目立たない一つの教会でしたが、イエス様はよい教会として惜しみない称賛を贈ったのです。
黙示録 3:7 また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。
3:8 「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。
この教会の素晴らしさは、自分たちの小ささや力の無さにあきらめてしまうことなく、イエス様の言葉を守り、従い続けたという事です。
わたし達は、目に見える部分ばかりを大切にしてしまいがちです。
どれだけ大きな教会であるか、何人の人を救いに導いたか、どんな素晴らしい働きをしているか。
そして他の人達の働きと比較して、高ぶったり、自分はダメだと落ち込んだりします。
しかし、神様評価するのは、その働きの大きさではなく、わたし達が主に忠実であるかどうかという一点だけです。
1か月ほど前にタラントの話をしましたが、覚えていらっしゃるでしょうか?
主人が留守の間、あるしもべは5タラント預けられ、別のしもべは2タラント預けられ、そしてもうひとりは1タラント預けられました。
5タラントと2タラント預けられたしもべは、それぞれのタラントを使って倍にして主人に返しましたが、1タラント預かったしもべはそれを土に埋めて隠し、主人に叱られました。
5タラントと2タラント預けられたしもべ達は、いくら稼いだかという事によって褒められたのではありません。
主人に忠実であって、それぞれ預けられた額に従った働きをしたから褒められたのです。
わたし達は、5タラントや2タラントではなく、1タラント預けられたしもべかもしれません。
他の人達に比べたら、持っている力も小さいかもしれない。
しかしわたし達は、自分たちの力が小さいからと言って言いわけをしたりあきらめるのではなく、忠実に預けられたタラントを用いて、働きをする事が求められているのです。
③
こうして3週間かけて7つの教会を見てきたのですが、わたし達はただ学ぶだけで終わってしまったのでは何の意味もありません。
「昔こういう教会があったんだって。」という事で終わってはいけないのです。
これは、今のわたし達にも関係のある事であり、ここからわたし達は自分自身の状態を見いだして、必要な所は変わっていかなければならないのです。
まずわたし達は、エペソ、テアテラ、ペルガモの教会に言われていたように、正しさと愛のバランスを身につけなければなりません。
どっちかが上がれば別の方が下がるのではなく、またどちらもほどほどで良いという事ではなく、知識と愛の両方を身につけていく必要があるという事です。
また、サルデスやラオデキヤの教会に伝えられたように、わたし達は豊かで恵まれているという事や、平穏無事で問題が起っていない事に慢心していてはいけません。
わたし達は日々の学びや祈りの中でイエス様との関係をますます深くし、その愛と恵みに満たされなければなりません。
その時わたし達は、熱い情熱をもって福音を語る者となっていくのです。
そして、今日学んだスミルナとフィラデルフィアの教会のように、わたし達が神様に従っていれば必ず苦難や迫害は起るものです。
しかし、それに負けてはなりません。
悪魔が猛威をふるうこの世の力の中で、わたし達は本当に力がなく、弱々しい存在だと感じる事があります。
でもわたし達が、神様に従って歩み続けているなら、イエス様はわたし達を喜んで下さるのです。
イエス様は、力がなくても忠実だったフィラデルフィアの教会にこの様に約束しました。
黙示録 3:7 また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。
3:8a 「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。
最後にこの言葉について共に考えながら、この教会のシリーズを終わりたいと思います。
フィラデルフィアという町は、東西トルコの中心にあり、交易のために多くの商人たちが出入りする町でした。
言わば、商業の門となる町だったのです。
それになぞらえて、イエス様はあなた達の教会の前に決して閉じる事のない、誰にも閉じる事の出来ない天の御国への門を開いておいたと言われたのです。
その門を通すかどうかは、彼ら次第だと言うのです。
わたし達の周りには、まだイエス様を救い主としては受け入れていない、救いを受けていない家族がいます。
また、友人たちがいるはずです。
皆さんは、その人達が救われる事を望んでいますか?
わたし達は、本当に心からその事を願い、祈り、福音を伝えようとしているでしょうか?
わたし達は、「この人は救われるはずがない。」と諦めてしまってはいないでしょうか?
「うちの夫はムリ」「あの人は悩みなんてないし」「わたしの言う事なんて聞かないし」と決めつけてしまっているのではないでしょうか?
わたし達の前にも、誰も閉じる事ができない天の御国への扉が開かれています。
それを心から信じて欲しいのです。
聖書には、使徒 16:31「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」とも約束されています。
皆さんはその言葉を心から信じているでしょうか?
わたし達はそれを信じ続け、祈り続け、そして福音を伝え続けるべきです。
主は、必ずその道を開いて下さいますから。
これから、家族や友人の救いのために祈る時を持ちたいと思います。
家族や友人に救いのための道が開かれるように、主がご自身を明らかにして下さいますように、また福音を伝える機会が与えられますように、必要な事を語る事ができる知恵と勇気が与えられるようにお祈り下さい。