黙示録5:1-14 『 黙示録⑧~He is worthy 』 2011/10/23 松田健太郎牧師

黙示録5:1~14
5:1 また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。
5:2 また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか」と言っているのを見た。
5:3 しかし、天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻き物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もいなかった。
5:4 巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。
5:5 すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」
5:6 さらに私は、御座──そこには、四つの生き物がいる──と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。
5:7 小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。
5:8 彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。
5:9 彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、
5:10 私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」
5:11 また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。
5:12 彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
5:13 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」
5:14 また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。

黙示録のシリーズも8回目になりました。
黙示録は難しいとよく言われますが、黙示録の難しさは絵画で言えば抽象画の難しさではないかと思います。
そこに描かれているものを、そのまま実際の物として認識すると訳がわからなくなり、そこに描かれているものが象徴している物やイメージから読みとっていく必要があります。

色々な事を手掛かりに黙示録を理解しようとして読んでいくわけですが、その中にはどうしてもわかる所と、分らない所が出てきます。
それは黙示録について書かれている解説書の多さと、それぞれの解説書の解説がどれだけ一致していないかを考えると、黙示録の難しさがよくわかるのではないかと思います。

でも、こうして黙示録からメッセージをしていて思うのは、分らない事は本当に分る必要のあるところだろうかという事なのです。
僕達が明確に分る必要のある事であれば、神様はちゃんとそのように示して下さるはずです。
それでも分らない事がこれほどまでに多いのは、必ずしも分る必要がないのではないかと思ったりもするのです。
黙示録に書かれているメッセージは、実はすごくシンプルで簡単なものです。
分らない部分をあーでもない、こーでもないと考え過ぎてもあまり意味がありませんので、分る事はしっかりと、でも分らない部分はぼんやりとしたイメージのまま、黙示録のメッセージの大切な部分を受取っていきたいと思います。
それでは、今日も見て行きましょう。

① He is worthy

黙示録 5:1 また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。
5:2 また私は、ひとりの強い御使いが、大声でふれ広めて、「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか。」と言っているのを見た。
5:3 しかし、天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻き物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もいなかった。
5:4 巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。
5:5 すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」

御座に座っている天の父なる神様の手には、一つの巻物がありました。
それは内側にも外側にも文字が書き記されていて、7つの封印がしてあったんです。
しかし、その巻き物を開く事ができる者も、見る事ができる者もいませんでした。
この巻き物が聖なるものであり、世界のだれも開く権威をもたず、覗き見る事すらできないものなのです。

この巻き物は一体何なのでしょうか?
封印があるという事は、公式でとても大切な文書なのでしょう。
しかもその封印は7つもありますから、相当厳重に扱われています。
神様が封印した文書ですから、おいそれと開く事はできないものなのです。
しかし、その巻物を開く事ができる者が誰もいないと知って、ヨハネは嘆き悲しみます。
この巻き物の正体は明らかにされませんが、本当は開く必要があり、開きたいと思うようなものだという事がわかります。

多くの神学者は、この巻き物には世界の歴史の計画について書かれていると言っているのですが、どうしてそのような結論に至るのか僕にはよくわかりません。
神様の歴史計画について書かれているのだとすれば、終末の時の事が書かれているのではないでしょうか。
ここから先の、黙示録の内容そのものかもしれません。
いずれにしても、この巻き物は開かれなければならないものでした。
この巻き物の封印が解かれて開かれなければ、終末に向けての裁きは始まらず、という事は天の御国も訪れません。
だからヨハネは、この巻き物を開くに足る聖い人がいないのを知って嘆いたのです。

すると、24人の長老の内のひとりがヨハネにこう言いました。

5:5 すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」

ユダ族から出た獅子、またダビデの根とはイエス様を表しています。
これはイエス様の誕生するずっと前から預言されていた言葉ですね。
このメシヤ・イエス様こそが7つの封印を解くにふさわしい方だと、長老のひとりがヨハネに言ったのです。
この“ふさわしい”という言葉が、日本語ではとても弱いというか、あまり心に残らないですね。
英語では“worthy”という言葉を使い、ゴスペルや賛美の中で繰り返し出てくる言葉です。
「価値がある」というような意味なのですが、とても力強い印象の言葉なんです。
イエス様だけが、7つの封印を特に相応しい、それだけの価値がある存在です。
なぜなら、イエス様はすでに勝利を得たからです。

この勝利とは何でしょうか?
イエス様がすでに得た勝利とは、十字架の事です。
イエス様はわたし達のためにこの地上に来ました。
そして送るはずだった完璧な人生を投げ捨てて、わたし達の罪を贖うために十字架にかかり、死に、しかし3日後に死を打ち破って蘇られた。
その時主は、アダムとエバに罪が入った時から続くサタンとの戦いからの勝利したのです。
イエス様はわたし達のために死に、全てを投げ捨ててわたし達の罪の支払いをして、わたし達に救いを与えてくださった。

この巻き物の封印を解く事によって起る事は、恐ろしい出来事です。
多くの人達が死に、多くの魂が滅びへと向かう最後の時です。
しかし、その人類のために完璧な命を投げ出したイエス様だからこそ、この巻き物を開くにふさわしいのだと、長老はヨハネに語ったのです。

ここから、イエス様が神様から巻き元を受取る、厳粛な時が続きます。
僕の余計な解説なんて何もいらない。
ただひたすら読んでいきたい箇所です。

黙示録 5:6 さらに私は、御座――そこには、四つの生き物がいる。――と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。

5:7 小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。
5:8 彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱいはいった金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。
5:9 彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、
5:10 私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」
5:11 また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。
5:12 彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
5:13 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」
5:14 また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。

② 2つの質問
さて、2週間にかけて、神様はわたし達人類をすべ治める方であり、イエス様が人類の未来を委ねるにふさわしい方だという話をしてきました。
これまでは人類規模の話。
でも、ただ人類規模で話していたのではどこか遠くの世界の話のように聞こえるかもしれません。
そこで、今日は最後に少し考えていただきたいのです。

全てを世界規模、人類の規模から、わたし個人へ。
なぜなら神様は、わたし達ひとりひとりの名前を知り、わたし達の髪の数さえも知るほどに、わたし達自身よりもわたし達の事をよく知って下さる方だからです。
そしてイエス様は、ただ単に人類すべてのために死んだのではなく、この世界にわたしひとりしかいなかったとしてもわたしひとりのために命を投げ出して下さったほど、ひとりひとりを愛される方だからです。
この世界を支配し、人類の全てをすべ治めるにふさわしい神様は、わたし個人を支配し、すべ治めるにふさわしい方であるはずです。

やがて、来るべき時が来た時、イエス様がもう一度この地上に帰ってくる時が来ます。
その時、全ての人がイエス様を主として見上げるのです。

ローマ 14:11 次のように書かれているからです。「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」

しかしそれは、わたし達がどちらの側から主を見上げるのかが決まる時でもあります。
わたし達が、永遠の時を共に過ごす、良き羊飼い、主の主、王の王としてイエス様を見上げるのか、それとも裁き主としてイエス様を見上げるのかという事です。
まだ、イエス様を救い主として受け入れる決断をされていない方にお尋ねします。
皆さんはその時、イエス様をどのような方として見上げたいでしょうか?
救い主としてでしょうか、それとも裁き主としてでしょうか?今日、今この場で、その決断をする事ができます。
ぜひ皆さんにも、救いを受け入れて、天の御国で主を見上げて欲しいのです。

もう一つの質問は、すでに救いを受け入れている皆さんにさせていただきたいと思います。
イエス様を主とするという事は、本来わたし達が自分の自我も権利もすべてイエス様にお渡しして、絶対的な支配の元に下るという事を意味しています。
でも残念な事に、ほとんどのクリスチャンは救いだけ受け入れて、自分の人生はイエス様に明け渡す事を拒んで自分で握ろうとしてしまいます。
それによって、最終的な救いがなくなるという訳ではありません。
でも、生きている間は救いを手にしていない人と何の変わりもありません。

でも、イエス様がわたし達に与えようとした救いは、そんなものじゃないんですよ。
イエス様は、天の御国はすでにあなた達と共にあると言ったのです。
わたし達の肉体が新しくされて天に挙げられるのはイエス様の再臨の後だけれど、わたし達は今、生きている間からすでに天国の幸せを味わう事ができるとイエス様は約束しているのです。
そしてその生き方にこそ、クリスチャンとしての本当の力があり、喜びがあり、幸せがあるのです。

そのような人生を生きるためには、わたし達は自分自身をイエス様に明け渡す必要があります。
わたし達の夢も、思いも、未来の全てを明け渡して、イエス様に捧げるという事です。
それは何もかもをあきらめるという事ではありません。
わたし達が手にしたいと思っている人間的な成功よりももっと素晴らしいものを、神様から受け取るという事です。
自分が自分の努力だけで生き、自分の計画に従い、自分をコントロールしてきた人生に終止符を打ち、神様を信頼して未来を委ね、神様の計画の中で、平安をもって生きるという事です。

イエス様に、全てを委ねてみませんか?
イエス様は、わたし達の全てを委ね、自我を明け渡すのにふさわしい方です。
お祈りしましょう。

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