黙示録8:1-9:21 『 ⑩7つのラッパのわざわい 』 2011/11/20 松田健太郎牧師

黙示録8:1~9:21
8:1 小羊が第七の封印を解いたとき、天に半時間ばかり静けさがあった。
8:2 それから私は、神の御前に立つ七人の御使いを見た。彼らに七つのラッパが与えられた。
8:3 また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。
8:4 香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。
8:5 それから、御使いは、その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけた。すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。
8:6 すると、七つのラッパを持っていた七人の御使いはラッパを吹く用意をした。
8:7 第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現れ、地上に投げられた。そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。
8:8 第二の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血となった。
8:9 すると、海の中にいた、いのちのあるものの三分の一が死に、舟の三分の一も打ちこわされた。
8:10 第三の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちて来て、川々の三分の一とその水源に落ちた。
8:11 この星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。
8:12 第四の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれたので、三分の一は暗くなり、昼の三分の一は光を失い、また夜も同様であった。
8:13 また私は見た。一羽の鷲が中天を飛びながら、大声で言うのを聞いた。「わざわいが来る。わざわいが、わざわいが来る。地に住む人々に。あと三人の御使いがラッパを吹き鳴らそうとしている。」

9:1 第五の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は一つの星が天から地上に落ちるのを見た。その星には底知れぬ穴を開くかぎが与えられた。
9:2 その星が、底知れぬ穴を開くと、穴から大きな炉の煙のような煙が立ち上り、太陽も空も、この穴の煙によって暗くなった。
9:3 その煙の中から、いなごが地上に出て来た。彼らには、地のさそりの持つような力が与えられた。
9:4 そして彼らは、地の草やすべての青草や、すべての木には害を加えないで、ただ、額に神の印を押されていない人間にだけ害を加えるように言い渡された。
9:5 しかし、人間を殺すことは許されず、ただ五か月の間苦しめることだけが許された。その与えた苦痛は、さそりが人を刺したときのような苦痛であった。
9:6 その期間には、人々は死を求めるが、どうしても見いだせず、死を願うが、死が彼らから逃げて行くのである。
9:7 そのいなごの形は、出陣の用意の整った馬に似ていた。頭に金の冠のようなものを着け、顔は人間の顔のようであった。
9:8 また女の髪のような毛があり、歯は、獅子の歯のようであった。
9:9 また、鉄の胸当てのような胸当てを着け、その翼の音は、多くの馬に引かれた戦車が、戦いに馳せつけるときの響きのようであった。
9:10 そのうえ彼らは、さそりのような尾と針とを持っており、尾には、五か月間人間に害を加える力があった。
9:11 彼らは、底知れぬ所の御使いを王にいただいている。彼の名はヘブル語でアバドンといい、ギリシヤ語でアポリュオンという。
9:12 第一のわざわいは過ぎ去った。見よ。この後なお二つのわざわいが来る。
9:13 第六の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は神の御前にある金の祭壇の四隅から出る声を聞いた。
9:14 その声がラッパを持っている第六の御使いに言った。「大川ユーフラテスのほとりにつながれている四人の御使いを解き放せ。」
9:15 すると、定められた時、日、月、年のために用意されていた四人の御使いが、人類の三分の一を殺すために解き放された。
9:16 騎兵の軍勢の数は二億であった。私はその数を聞いた。
9:17 私が幻の中で見た馬とそれに乗る人たちの様子はこうであった。騎兵は、火のような赤、くすぶった青、燃える硫黄の色の胸当てを着けており、馬の頭は、獅子の頭のようで、口からは火と煙と硫黄とが出ていた。
9:18 これらの三つの災害、すなわち、彼らの口から出ている火と煙と硫黄とのために、人類の三分の一は殺された。
9:19 馬の力はその口とその尾とにあって、その尾は蛇のようであり、それに頭があって、その頭で害を加えるのである。
9:20 これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、
9:21 その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。

先週に引き続いて大患難時代に起る事を見ていきたいと思います。
今日は、7つ目の封印が開かれる所からですね。
先週もお話ししましたが、7つ目の封印は、御使いが吹きならす7つのラッパの禍によって構成されています。

この御使い達は、どうしてラッパを吹きならしたのでしょう?
それは、この時代の人達がどのような時にラッパを吹きならしたのかという事を考える必要があります。
ラッパは音楽として以外に様々な用途のために吹かれたのですが、ここでのラッパは警告のためのラッパではないかと思うのです。
「危険が迫っているぞ! 気をつけろ!」という事を告げるラッパです。
もっと言うなら、「終わりの時が近付いているぞ!」という事を警告しているラッパなのです。
では、御使いのラッパによって起る事を見ていきましょう。
① 第1~4のラッパ
封印のわざわいは、人が起こす戦争によって構成されていましたが、ラッパのわざわいは、基本的には自然現象の脅威によって構成されています。

黙示録 8:7 第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現われ、地上に投げられた。そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。
8:8 第二の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血となった。
8:9 すると、海の中にいた、いのちのあるものの三分の一が死に、舟の三分の一も打ちこわされた。
8:10 第三の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちて来て、川々の三分の一とその水源に落ちた。
8:11 この星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。
8:12 第四の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれたので、三分の一は暗くなり、昼の三分の一は光を失い、また夜も同様であった。

有名な話ですが、1986年4月、チェルノブイリの原子力発電所が爆発した時、世界中の人々がこの聖書箇所を思い出して身を震わせました。
チェルノブイリというのは、ロシア語で苦よもぎという意味の言葉だからです。
苦よもぎという星が落ちてきて水に落ち、その水のために多くの人が死んだというのは、確かにとても意味深ですね。
ただ、本当にそれがここに描かれている事だとしたら、わたし達はもう25年も前から大患難時代のただ中にいる事になりますね。
絶対にそうではないとは言えないでしょうが、黙示録に表されているのはチェルノブイリの原発の問題ではないだろうと思います。

この4つのわざわいは、自然災害として起るわざわいです。
自然の力は、わたし達が絶望的なくらい小さな存在である事を思い知らせます。
わたし達も3月11日の地震を経験し、津波の映像を目にした時に実感のではないでしょうか。
自然の力の大きさに、わたし達は太刀打ちする事なんてできません。
そこに明らかにされるのは、そのような自然をもお創りになった神様の偉大さと、人の小ささ、弱さ、力にも時間にも限りのある存在としてのわたし達なのです。

② 第5~6のラッパ
さて、9章に入って第5のラッパが吹きならされると、空から星が落ちてきて底知れぬ穴を開くカギが与えられました。
この星とは何でしょうか?
イザヤ書にこのような言葉があります。

イザヤ 14:12 暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。

この明けの明星とは、悪魔、サタンの事です。
黙示録に出てくるこの星も、色んな解釈はあると思いますが、サタンであると考えていいのではないかと思います。
そして地獄に通ずるような穴の底から、いなごの形に似たアバドンとかアポリュオンと呼ばれる異様なものが出てきて、クリスチャンではない人達を苦しめるのです。

さらに、第6のラッパが吹きならされると、繋がれていた4人の御使いが、人類の3分の1を殺すために解き放たれます。
その4人の御使いに引き連れられた2億の騎兵が出てくるのですが、この騎兵はこの様に描写されています。

黙示録9:17 私が幻の中で見た馬とそれに乗る人たちの様子はこうであった。騎兵は、火のような赤、くすぶった青、燃える硫黄の色の胸当てを着けており、馬の頭は、ししの頭のようで、口からは火と煙と硫黄とが出ていた。
9:18 これらの三つの災害、すなわち、彼らの口から出ている火と煙と硫黄とのために、人類の三分の一は殺された。

だんだんわかりにくくなってきますが、この6つ目のラッパのわざわいが表しているのは、火と煙と硫黄という表現からして火山だろうと思われます。
そして、これによって人類の3分の1が死んでしまう事になるわけです。

こうして見ると、ラッパのわざわいは1~6まで全てが自然に関連するわざわいであるわけですが、5番目と6番目のわざわいに関しては、他の4つとは少し違う描きかたがされています。
それは、5番目のわざわいから悪魔が登場して、わざわいを起こし始めるという事です。
そしてわざわいのその大きさは、どんどん増し加わって行くのです。

これまでのわざわいを、もう一度ざっと振り返ってみたいと思います。
大患難時代には、さまざまな神様の裁きが下り、わたし達は多くのわざわいを経験する事になります。
大患難時代はまず巻き物の封印のわざわいから始まり、それは人によって起こされた戦争を通して起ったものでした。
次にラッパの災害は自然災害の形をとり、多くは自然界の中で起ることであり、あるいは敵である悪魔たちが解き放たれて起こしていく物として起って行きます。
しかし、神様が直接手を下している裁きは、まだ起っていないのです。

神様が直接手を下したら、それこそノアの洪水のようにあっという間に全てが終わってしまうでしょう。
しかし、大患難時代は、そういう形では訪れてきません。
それよりは、神様の間接的な裁きと言った方が良いかもしれません。
どう言う事かというと、これらの裁きは、神様が裁きを下す事によって起るのではなく、神様がわたし達の手助けをしない事によって起って行く出来事だという事です。

わたし達の罪の根源は、わたし達が神様から離れ、自分自身を神にしようとする事にあります。
アダムとエバが善悪の知識の木からとって食べて最初の罪を犯した時、神様が作った人間は汚れた者となり、この地上もまた呪われてしまったのです。
罪によってあなた達は死ぬと言われ、実際に霊的には死んだ状態となり、そして肉体にも限界ができて死ぬようになてしまった。
そんな状態にあってもなお、神様がどれほどわたし達を守ってきたかという事なんです。

本来ならば、アダムとエバが罪を犯した時から、人間はそのまま滅び、地上は終わってしまってもおかしくはなかったのです。
でも裏で、神様はずっとわたし達を守り、色々な事からわたし達を助けてきたのです。

にもかかわらず、わたし達は神様を認めず、否定し、時には罵倒し、憎み、裏切り、酷い事をしてきた。
終わりの時に、神様はわたし達人類を思うままにさせるのです。
神を否定し、自分の力で世界を支配するという事がどういう事なのか、経験させるのです。
神様の守りがなく、神様が助けてくれない世界というのがどういうものなのか、自らの体験によって味あわせようとするのです。

しかし、人の支配によってはこの世界には争いしか起こらず、神様の守りなしには環境はひたすら呪いの場となり、神様によって繋ぎとめられていた悪魔たちは自由になって、人々を攻撃し始めます。
それがどんなに悲惨で、悲劇的な事であるかという事が描かれているのが、この御使いのラッパによって起るわざわいなのではないでしょうか。

③ 10のわざわい
さらに、もうひとつ。
御使いのラッパと共に起るこのわざわいと似たようなものが、旧約聖書の時代に起っていたのを覚えているでしょうか?
それは、出エジプトの時にエジプトに下った10のわざわいです。

エジプトの時にはまずナイル川の水が血に変わり、かえる、ぶよ、あぶ、家畜の疫病、珠持つ、雹、いなご、闇、そして初子が死ぬという10のわざわいがエジプトを襲ったのです。
これは、まさに最後の審判の時に起る出来事を表している事だった事がわかります。

エジプトで起ったわざわいの目的は、神様の偉大さを表すことと、パロとエジプトの人々を悔い改めに導くためでした。
このラッパのわざわいを通して表されているのも、同じ事が目的です。
滅ぼす事が目的であれば、一気に滅ぼしてしまえばいいのです。
そうではなく、こうして様々なわざわいが起るのは、神様は人々を悔い改めに導くために起こしているのだという事なのです。

しかし、注意しなければならない事があります。
エジプトでわざわいが起る時、神様はモーセにこの様に告げているのです。

出エジプト 4:21 主はモーセに仰せられた。「エジプトに帰って行ったら、わたしがあなたの手に授けた不思議を、ことごとく心に留め、それをパロの前で行なえ。しかし、わたしは彼の心をかたくなにする。彼は民を去らせないであろう。

このまま読むと、神様がパロを悔い改めさせないようにしているようにも見えますが、これは翻訳上の問題でそのように聞こえてしまうのです。
ここで“かたくなharden”と訳されている言葉は、本来“その性質を強めるfortify, strengthen”というような意味として書かれている言葉です。
つまり、パロは最初からかたくなに神様に背く思いを持っていたので、それがさらに強められてイスラエルの民を去らせなかったのです。

終末の時にも同じ事が起ります。
心が神様に向いている人はみんな救いに入り、頑なな人はますます頑なになって神様に背く事になるでしょう。
そうやって、誰が救いを受けて、誰が滅ぼされるのかがが、誰も文句の言えない形で実現されるのが、神様の御業なのだと思います。

わたし達の心はどのような状態でしょうか?
わたし達の心が強められた時、それは悔い改め、神様を求める心において強められるのでしょうか?
それとも、より頑なな心となるのでしょうか?
まだ選択する時間があるうちに、自分の信仰を確かなものとし、ひとりでも多くの人達をイエス様の元に導きたいものです。

ヘブル3:13 「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。
3:14 もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。
3:15 「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。

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