ヨハネ2:1-11 『カナの婚礼』 2009/02/01 松田健太郎牧師
ヨハネ2:1~11
2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
2:2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
2:3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
2:6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
2:7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
2:8 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
2:9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、――しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。――彼は、花婿を呼んで、
2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
2:11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。
イエス・キリストは神のひとり子、救い主ですとわたし達は言います。
でも、どうして本当にそうだと言う事ができるのでしょうか?
イエス様が言われた事が真実であり、十字架にこそ真理があるとどうしてわたし達は言えるのでしょうか?
結論を言うならば、結局の所わたし達はそれを信じるしかありません。
どうやっても必ずどこかに不明な部分は残り、すべての疑問がなくなる事は絶対にないでしょう。
しかしイエス様は、わたし達に信じるための手がかりをたくさん残して下さっています。
かつて、イエス様に洗礼を授けたあのバプテスマのヨハネでさえ、本当にイエス様が救い主なのかどうかわからなくなって、弟子たちを通して「本当にあなたが救い主だと信じてもよいのでしょうか?」と聞いたことがありました。
それに対して、イエス様はこの様に答えているんです。
「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。盲人が見えるようになり、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者に福音が宣べ伝えられています。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」(ルカ7:22~23)
この時イエス様は、「自分が救い主だから信じなさい。」とは言いませんでした。
「私に起こっている出来事を見て、自分で考えてみなさい。」と言っているのです。
イエス様はたくさんの奇跡を起こしましたが、聖書では多くの場合、それを奇跡と言いません。
今日の聖書箇所でもそうですが、“しるし”という言葉を使っていますね。
これは、奇跡がただ単に不思議な出来事ではなく、奇跡はイエス様こそキリストであり神である事のしるしとして起こっているからです。
今日は、その最初のしるしとして起こった事を、一緒に見て行きましょう。
① 結婚式でのピンチ
イエス様は、アンデレ、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、ピリポ、ナタナエルなどを弟子となさった後、カナという町であった結婚式に出席しました。
マリヤがそこで手伝いしている所を見ると、おそらくイエス様の親戚の結婚式だったのでしょうね。
しかしその結婚式で、緊急の事態が起こりました。
ぶどう酒が切れてしまったのです。
ユダヤの結婚式は、一週間も続く盛大なお祭りで、そこではたくさんの食事と、ぶどう酒がふるまわれました。
そこに参加する全ての人たちが満足する事は、主催者側の責任だったんですね。
途中で食べ物やぶどう酒がきれてしまうのは、主催者としてはあってはならない、不名誉で恥ずべき事だったのです。
そこでマリヤは、イエス様に助けを求めました。
イエス様なら何とかしてくれると思ったのでしょうね。
しかしそれに対して、イエス様はこの様に応えたのです。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
こうやって見ると、イエス様は何と冷たい事を言うんだろうと思うかもしれません。
ただ、これは翻訳の仕方の問題であって、実際にはまったくニュアンスが違うんです。
ここで使われている“女の方”という呼び方ですが、ユダヤの文化では、普通成人した男性が母親の事を“お母さん”と呼ぶ事はありませんでした。
むしろこの“女の方”という言葉は、ローマ皇帝アウグストゥスがエジプトの女王クレオパトラを呼んだのと同じ言葉だと言われています。
イエス様はむしろ、尊敬の念を込めて、マリヤをそう呼んだんですね。
“あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。”という言い方も、そのままでは突き放した言い方に聞こえてしまいますが、もちろんそれが趣旨ではありません。
バプテスマのヨハネから洗礼を受けた時、その時からイエス様のキリストとしての人生が始まったという事なんです。
イエス様はもう、マリヤの子供として生きるのではなく、また婚礼に呼ばれたゲストのひとりでもありません。
イエス様に出来るのは、自分がどう思って何をするかではなく、天の父なる神様の意思に従う事だけなのです。
だからイエス様は、続けて「わたしの時はまだ来ていません。」と言っています。
「天のお父様がわたしになすべき事を示されたなら、その時にこそ解決の道が開けるでしょう。」という事を、イエス様は言おうとしているのです。
それを聞いたマリヤは、手伝いの人たちを呼び寄せ、「この人がいう事は何でもしてあげてください。」とだけ言いました。
この辺りがマリヤの偉い所ですね。
マリヤは、「ぶどう酒は今すぐ必要なんです。すぐに何とかしてください。」とは言わなかったんです。
わたし達は主に全てを伝えたら、後は信頼して待つことです。
神様はわたし達よりもずっと、わたし達の必要をご存知であり、神様のタイムテーブルに従っていれば間違いはないのですから。
マリヤがイエス様に信頼して全てを委ねると、神様の時はその後すぐに訪れたのです。
② 水がめに水を
2:6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
イエス様は、手伝いの人たちに、この石の水がめに水をいっぱいにする様にと言いました。
ここに溜めた水がぶどう酒に変わって、人々にふるまわれる事になるのですが、実はこの出来事の中にいくつかの事が示唆されているのです。
ひとつには、そこに人の働きが加わる事を、イエス様が望まれたという事ですね。
イエス様は、空っぽの水がめから突然ぶどう酒をわかせる事だって出来たかもしれません。
あるいは、自分で水を汲んできてもよかったかもしれません。
しかしそうではなく、イエス様は他の人たちに、水を汲んでこさせました。
80リットルから120リットルの水がめですから、それは相当な重労働ですね。
そんな水がめが、6つもあったのです。
ぶどう酒が切れてこれからどうしようと言っているこの忙しい時に、どうしてこんな事をしなければならないんですか?
ここで大切なのは、この手伝いをしていた人たちが、そんなイエス様の言葉に従って実際に水を汲んできたという事なんです。
神様は、わたし達によくその様な事をさせます。
わたし達が祈る時、後はただ口を開けているだけではなく、わたし達にも何かをさせるという事が多いんです。
この時に求められたのは、「水を汲んできなさい」と言うイエス様の言葉に従うという事でした。
しかもイエス様は、水を汲んできたらそれをわたしがぶどう酒に変えますなんて、一言も言っていないんですね。
しかし、それがどういう事かわからなくても、主の言葉に従ってとにかく行動をするという事が、わたし達に求められています。
それは、その行動を通してわたし達が主への信頼と信仰を明らかにするためです。
わたし達の祈りが聞かれないと感じる時、もしかしたらわたし達は、「信じる」といいながら主の言葉に従わないでいるのではないでしょうか?
「神様は大切。でも、他のものももっと大事。」
「神様助けてください。でも、自分は罪を手放せません。」
イエス様はルカの福音書の中で、この様な話をされています。
ルカ 6:43 悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。
6:44 木はどれでも、その実によってわかるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。
6:45 良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。
6:46 なぜ、わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。
前にも言いましたが、行いによってわたし達が救われるのではありません。
しかし、わたし達の行いの中に、わたし達が信じている事が明らかになるのです。
③ ぶどう酒が水に
さて、この奇跡にはもうひとつの意味が隠されています。
もう一度この御言葉を見てみましょう。
2:6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
「ぶどう酒がなくなった」と言うなら、なくなるまでぶどう酒を溜めていたかめなり樽があったのではないでしょうか。
別にわざわざ石の水がめを使わなくても、空になった酒樽か何かがあったはずです。
しかしここで石の水がめに水を溜めさせた事には、ちゃんと意味がある事なのです。
この時使われた石の水がめは、ユダヤ人のきよめのしきたりに従って用意されていた、儀式用の水がめです。
そこに溜められた水が、ぶどう酒になったのです。
それは、これまでの儀式的・律法的なきよめが、さらにすぐれた新しいものに変えられるという事が象徴されます。
それは何に変えられたでしょうか?
水が、ぶどう酒に変えられたのです。
ぶどう酒が表しているものは何ですか?
今日は聖餐式ですから、よくわかりますね。
水のように味気ない儀式主義、律法主義が、(ぶどう酒が象徴している)イエス様の血によるきよめへと変えられたことを、この奇跡は表しているのです。
儀式をして戒律を守るだけの宗教など、何と味気のないものでしょうか?
ただ礼拝をし、ただ勉強し、禁じられた事をしないで、しなければならない事ばかりが続く毎日。
人々はそのような宗教的なものにすがりついて、味気のない信仰生活を送ってきました。
しかし、イエス様の血による救いは、その様なものではないのです。
ぶどう酒を飲んだ人々は、口々にこの様に言っています。
2:10b「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
これまで知らなかったおいしさ、これまで味わった事のない喜びを、飲んだ人は味わいました。
イエス様の血による救いとは、それほど喜びに満ちたものなのです。
それなのに、残念な事に、多くの人たちが結局は儀式的・律法的な味気のない宗教へと戻ってしまいます。
表面的に保っているだけ信仰の方が楽だからです。
皆さんの信仰に、喜びはありますか?
皆さんの、イエス様との関係に、楽しみはあるでしょうか?
信仰生活はもちろん、わたし達にとって嬉しい事や楽しい事ばかりではありませんが、わたし達がイエス様に信頼する時、わたし達は苦難さえも喜べるようになるのです。
作り笑いでなく、つかの間の喜びでもない真の喜びを、イエス様は十字架と復活によって与えてくださいます。
皆さんがぶどう酒の喜びをもって、主に従う事ができますように。
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