IIサムエル記11:1-17 『 サムエル⑯~罪の報い 』 2010/11/07 松田健太郎牧師
IIサムエル記 11:1~17
11:1 年が改まり、王たちが出陣するころ、ダビデは、ヨアブと自分の家来たちとイスラエルの全軍とを戦いに出した。彼らはアモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまっていた。
11:2 ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。
11:3 ダビデは人をやって、その女について調べたところ、「あれはヘテ人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバではありませんか。」との報告を受けた。
11:4 ダビデは使いの者をやって、その女を召し入れた。女が彼のところに来たので、彼はその女と寝た。――その女は月のものの汚れをきよめていた。――それから女は自分の家へ帰った。
11:5 女はみごもったので、ダビデに人をやって、告げて言った。「私はみごもりました。」
11:6 ダビデはヨアブのところに人をやって、「ヘテ人ウリヤを私のところに送れ。」と言わせた。それでヨアブはウリヤをダビデのところに送った。
11:7 ウリヤが彼のところにはいって来ると、ダビデは、ヨアブは無事でいるか、兵士たちも変わりないか、戦いもうまくいっているか、と尋ねた。
11:8 それからダビデはウリヤに言った。「家に帰って、あなたの足を洗いなさい。」ウリヤが王宮から出て行くと、王からの贈り物が彼のあとに続いた。
11:9 しかしウリヤは、王宮の門のあたりで、自分の主君の家来たちみなといっしょに眠り、自分の家には帰らなかった。
11:10 ダビデは、ウリヤが自分の家には帰らなかった、という知らせを聞いて、ウリヤに言った。「あなたは遠征して来たのではないか。なぜ、自分の家に帰らなかったのか。」
11:11 ウリヤはダビデに言った。「神の箱も、イスラエルも、ユダも仮庵に住み、私の主人ヨアブも、私の主人の家来たちも戦場で野営しています。それなのに、私だけが家に帰り、飲み食いして、妻と寝ることができましょうか。あなたの前に、あなたのたましいの前に誓います。私は決してそのようなことをいたしません。」
11:12 ダビデはウリヤに言った。「では、きょうもここにとどまるがよい。あすになったらあなたを送り出そう。」それでウリヤはその日と翌日エルサレムにとどまることになった。
11:13 ダビデは彼を招いて、自分の前で食べたり飲んだりさせ、彼を酔わせた。夕方、ウリヤは出て行って、自分の主君の家来たちといっしょに自分の寝床で寝た。そして自分の家には行かなかった。
11:14 朝になって、ダビデはヨアブに手紙を書き、ウリヤに持たせた。
11:15 その手紙にはこう書かれてあった。「ウリヤを激戦の真正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ。」
11:16 ヨアブは町を見張っていたので、その町の力ある者たちがいると知っていた場所に、ウリヤを配置した。
11:17 その町の者が出て来てヨアブと戦ったとき、民のうちダビデの家来たちが倒れ、ヘテ人ウリヤも戦死した。
これまでわたし達は、イスラエル最大の王ダビデの栄光と躍進を見てきました。
しかしここで、ダビデの栄光にも影が差し始めます。
ダビデの罪が、暴かれてしまう訳です。
これが、偉人の伝記であればこのような記事は載せません。
ダビデがいかに素晴らしい王だったかという事だけが述べられればいいのです。
ましてやイスラエル最大の王のはなしです。
ここで王の威厳を損ねるような事を書いたら、示しにならない。
こういう失敗は、歴史からも抹消されるべきではないかと、僕が聖書の著者なら思ったかもしれません。
しかし、聖書はそうではないのです。
人には、光もあれば影もある。
そして、人の失敗も、闇の部分も全て余さず書いてくれているから、わたし達は聖書に共感もできるし、信用する事もできるのです。
わたし達は、聖書の人物を見ながら良い事もたくさん学べるでしょうが、彼らの失敗から学ぶ所もかなり多いのではないかと思います。
何よりも励まされるのは、このような失敗をしてもまだ見捨てられず、神様はわたし達を赦し、愛を受け続ける事ができるという事です。
今日は、ダビデ王最大の失敗から学んでいきましょう。
① ダビデの堕落と罪
ダビデの大きな失敗は、堕落と油断から始まります。
11:1 年が改まり、王たちが出陣するころ、ダビデは、ヨアブと自分の家来たちとイスラエルの全軍とを戦いに出した。彼らはアモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまっていた。
人々が戦いの中にある時、ダビデは前線に出るのではなく、エルサレムに留まっていました。
言ってみれば、部下に戦わせておいて、自分は安全な所でサボっていたのです。
それだけではありません。
11:2 ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。
夕暮れ時に起きてくるというこの生活習慣、これは決して正しい道を歩んでいる人の生活ではありません。
この頃には、ダビデはかなりだらけてきていたのを見てとることができますね。
そして夕暮れ時、ダビデがのんびりと王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女性が体を洗っているのが見えたんです。
見えてしまった。これ自体は言ってみれば事故であり、仕方のない事です。
でも、見てはいけないものなのですから、すぐに目を背けるとか、その場から離れるとかすればいいのです。
しかし、ダビデはそれを見続けてしまいました。
堕落というものは、少しずつわたし達の心を蝕んでモラルを低下させていきます。
「これくらいいいじゃないか。」という事が少しずつ増えていき、いつの間にか何が正しくて何が間違っているのかという判断ができなくなってきてしまうんですね。
ピンチの中にあったり、気が引き締まっている時には大丈夫なのです。
しかしわたし達が調子のいい時、わたし達が油断してガードを下げてしまうと、いつの間にか堕落が入り込んできて、わたし達の判断を鈍らせてしまうのです。
そんな時に誘惑を受けると、わたし達はひとたまりもありません。
美しい女性の裸に見とれたダビデは、それが忘れられなくなり、部下にその女性の事を調べさせることまでしました。
すると、その女性はバテ・シェバといい、ダビデの大切な部下であるウリヤの妻である事がわかりました。
ここに、ひとつのターニングポイントがあります。
自分の部下の妻である事がわかったなら、そこであきらめればよかったのです。
罪から離れるためのチャンスは、そこに与えられていました。
しかしダビデは、その機会を無視しました。
彼は、わかっていながらこのバテ・シェバを王宮に呼び出し、関係を結んでしまったのです。
そこからはドロ沼です。
バテ・シェバはダビデによって妊娠し、何とかしてごまかそうとしますがどうやってもうまくいかない。
どうしてうまくいかないのかと言えば、このウリヤがダビデの予想をはるかに超えて忠実であり、誠実だったからです。
だからこそ、その度にダビデの良心は痛んだ事でしょう。
しかしそれでも、ダビデは罪の道を進み続けました。
そしてついに、ウリヤを戦場の最前線に配置し見殺しにするという、事故に見せかけた殺人を起こしてしまうのです。
罪と言うのは、本当に恐ろしいものなのです。
「これくらいいいだろう。」「このくらいの事は誰でもやっている。」そんな油断から始まる罪は、次から次へと別の罪を呼び込み、気がつけば取り返しのつかない事になってしまう。
そのきっかけは、ほんの些細なことだったりするのです。
しかし、進めば進むほど、その道を後戻りする事は難しくなる。
そして気がつくと、恐ろしいほど大きな罪へと変わってしまっているものなのです。
わたし達は罪の力を侮らず、いつも罪を避けて通るものでありたいものです。
② 悔い改めるダビデ
ダビデはウリヤを始末し、その後バテ・シェバと正式に結婚しました。
ダビデは、これで事なきを得たと思っていたのかもしれません。
あるいは、罪悪感にさいなまれる事になったかもしれませんね。
いずれにしてもこの出来事は、神様の御心を損なう出来事だったのです。
罪というものは、わたし達を神様から遠ざけます。
何かやましい事があると、相手の目を見る事ができないと言いますけど、わたし達の中に罪の意識があると、神様と向き合う事ができないのです。
ダビデが犯したこの大きな罪は、ダビデを神様から引き離し、このままではサウル王の二の舞を踏んでしまいます。
しかし、神様はそのままでダビデをおいては置きませんでした。
そんなダビデの元に、ある日預言者であり親友であるナタンがやってきました。
そして、こんな話をしたのです。
IIサムエル 12:1b 「ある町にふたりの人がいました。ひとりは富んでいる人、ひとりは貧しい人でした。
12:2 富んでいる人には、非常に多くの羊と牛の群れがいますが、
12:3 貧しい人は、自分で買って来て育てた一頭の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。子羊は彼とその子どもたちといっしょに暮らし、彼と同じ食物を食べ、同じ杯から飲み、彼のふところでやすみ、まるで彼の娘のようでした。
12:4 あるとき、富んでいる人のところにひとりの旅人が来ました。彼は自分のところに来た旅人のために自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を取り上げて、自分のところに来た人のために調理しました。」
幼いころ、自分自身が羊飼いだったダビデは、この話を聞きながら貧しい人の気持ちに共感しました。
そして、たくさんの羊を持っていながら貧しい人から最愛の子羊を取り上げた事に対する怒りが湧いてきたのです。
12:5 すると、ダビデは、その男に対して激しい怒りを燃やし、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ。
12:6 その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。」
怒りを露わにしてそう言ったダビデに、今度はナタンが言い放ちました。
「その男とは、あなたの事です!」
神様からは、何も隠す事ができません。
ダビデもその事を知っていたはずですが、ナタンのこの言葉に大きな衝撃を受けました。
胸が、えぐられるような気持だった事でしょう。
しかし、ナタンのこの言葉を通して、ダビデは自分の罪を悔い改める事がでたのです。
ガラテヤ 6:1 兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。
この様にして罪を指摘し、わたし達を神様の元に戻してくれるのはとても大切な働きなんです。
しかし、多くの場合、わたし達はこのような声に耳を傾ける事ができません。
それは、自分の罪を見たくないからです。
自分は正しいと思っていたい。
自分が悪いなんて事を聞きたくない。
ほとんどの人は、ここでますます神様から離れて行ってしまうのです。サウル王もそうでした。
しかし、ダビデはそうではありませんでした。
この時のダビデの悔い改めの祈りは、詩編51編の中で記されています。
詩編 51:1 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。
51:2 どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。
わたし達はみな罪人なので、時として失敗もし、神様の前に罪を犯すことがあります。
そんな時にわたし達に必要なのは、ダビデのように自分の罪を認め、神様に立ち返ることです。
自分は正しいものではないのだという事を自覚し、自分が犯した悪を認める事は簡単な事ではありません。
しかし、わたし達が罪を悔い改めて神様に立ち返る時、神様は必ずわたし達を受け入れ、その罪を赦して下さるというのが、わたし達にとっての希望なのです。
ダビデの犯した罪はとんでもなく大きなものでしたが、彼が悔い改めた時、神様はそれを完全に赦したのでした。
③ 罪から来る報酬
わたし達の罪は、イエス様の十字架と復活によって赦されました。
それが福音の中核をなす事実ですね。
しかし、全ての罪が赦されたのだとしたら、わたし達はもうどれだけ罪を犯してもいいという事にならないでしょうか?
そういう質問を受ける事があります。
イエス様の十字架の血潮によって、どんな罪も赦されます。
それがどんな酷い罪であっても、何度同じ過ちが繰り返されようと悔い改めてイエス様の元に来るならば、赦されます。
ローマ 4:25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。
でも同時に、罪の結果は残るという事を、聖書は教えています。
罪はそれ自体が毒を持っていて、わたし達を苦しめ、また周りの人達を傷つけ、わたし達と直接関係のない人にまで影響を及ぼす事があります。
それが罪であり、罪の恐ろしさなのです。
わたし達の罪は確かに赦されます。罪は確かに聖められます。
しかし、だからと言って罪が持っているその影響はなくなるとは限りません。
ローマ 6:23a 罪から来る報酬は死です。
このパウロの言葉を証明するように、この時バテ・シェバの体に宿った子供は死にました。
ダビデにとっても、バテ・シェバにとっても、自分の命が取り去られる方がどれほど楽だった事でしょうか。
罪には、このような悲しい結末が必ず伴うのだという事を、わたし達は忘れてはならないのです。
何度も言いますが、わたし達は罪と言うものを甘く見てはいけません。
「みんなやってるじゃないか。」とか「どうせ赦されているんだ。」ではなく、また「これくらい良いじゃないか。」でもなく、わたし達は罪から離れるべきです。
そしてその罪が、本当に大きなものとなってしまう前に、悔い改めて神様の元に立ち返るべきです。
今日はこれから聖餐式ですが、それに備えて心を整え、神様の前に罪を告白する時としたいと思います。