II列王記17:5-18 『⑱神様の愛と裁き』 2011/06/19 松田健太郎牧師

II列王記17:5~18
17:5 アッシリヤの王はこの国全土に攻め上り、サマリヤに攻め上って、三年間これを包囲した。
17:6 ホセアの第九年に、アッシリヤの王はサマリヤを取り、イスラエル人をアッシリヤに捕え移し、彼らをハラフと、ハボル、すなわちゴザンの川のほとり、メディヤの町々に住ませた。
17:7 こうなったのは、イスラエルの人々が、彼らをエジプトの地から連れ上り、エジプトの王パロの支配下から解放した彼らの神、主に対して罪を犯し、ほかの神々を恐れ、
17:8 主がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人の風習、イスラエルの王たちが取り入れた風習に従って歩んだからである。
17:9 イスラエルの人々は、彼らの神、主に対して、正しくないことをひそかに行ない、見張りのやぐらから城壁のある町に至るまで、すべての町々に高き所を建て、
17:10 すべての小高い丘の上や、青々と茂ったどの木の下にも石の柱やアシェラ像を立て、
17:11 主が彼らの前から移された異邦人のように、すべての高き所で香をたき、悪事を行なって主の怒りを引き起こした。
17:12 主が彼らに、「このようなことをしてはならない。」と命じておられたのに、彼らは偶像に仕えたのである。
17:13 主はすべての預言者とすべての先見者を通して、イスラエルとユダとに次のように警告して仰せられた。「あなたがたは悪の道から立ち返れ。わたしがあなたがたの先祖たちに命じ、また、わたしのしもべである預言者たちを通して、あなたがたに伝えた律法全体に従って、わたしの命令とおきてとを守れ。」
17:14 しかし、彼らはこれを聞き入れず、彼らの神、主を信じなかった彼らの先祖たちよりも、うなじのこわい者となった。
17:15 彼らは主のおきてと、彼らの先祖たちと結ばれた主の契約と、彼らに与えられた主の警告とをさげすみ、むなしいものに従って歩んだので、自分たちもむなしいものとなり、主が、ならってはならないと命じられた周囲の異邦人にならって歩んだ。
17:16 また、彼らの神、主のすべての命令を捨て、自分たちのために、鋳物の像、二頭の子牛の像を造り、さらに、アシェラ像を造り、天の万象を拝み、バアルに仕えた。
17:17 また、自分たちの息子や娘たちに火の中をくぐらせ、占いをし、まじないをし、裏切って主の目の前に悪を行ない、主の怒りを引き起こした。
17:18 そこで、主はイスラエルに対して激しく怒り、彼らを御前から取り除いた。ただユダの部族だけしか残されなかった。

先週は、列王記の話から少し離れてヨナ書を読みましたね。
預言者ヨナの活躍によって、アッシリア帝国の首都ニネベで、大リバイバルが起ったという話でした。
ヨナ書の中に表されていたのは、神様の愛と優しさでした。
神様が与えた使命に逆らったヨナの気持ちも理解し、なだめ、諭した神様の愛。
そして、その悪によって滅ぼされようとしていたアッシリアも、悔い改めて神様に立ち返った時、その罪が赦されてすぐに滅ぼされる事がなかったという神様の赦し。
まさに福音そのものの物語でした。

しかし、聖書に描かれている神様は、ただ優しくて何でも赦してくれるというだけのお方ではありません。
神様は悪を憎み、悪を裁かないではおきません。
神様の愛は、厳しさを伴うものでもあるのです。

前回は優しさの部分をたくさん見たので、今日は神様の厳しさの部分に目を止めながら、神様の事をより深く理解していきたいと思います。

① アッシリア捕囚
まず今日はイスラエルのアッシリア捕囚の話ですので、まずは皆さんにこの“捕囚”という言葉を覚えていただく必要があると思います。
捕囚というのは、この当時アッシリア帝国が行っていた占領政策です。
ひとつの国を占領した時、その民族をそのままにしておけばやがて力をつけて反乱を起こすかもしれません。
現代でも様々な民族紛争や革命が起っています。
それはすべて、民族が結託して自分自身の土地や文化や誇りを取り戻そうとする事によって起ります。

捕囚というのは、占領した国の住民を強制的に別の土地に住まわせる事です。
それも分散させて、他の民族と一緒に生活させるのです。
それによって何が起るかというと、だんだんそれぞれの民族が混ざり合っていくんですね。
文化も混ざり合い、民族間での結婚も始まり、やがて自分達が元々何人かというアイデンティティも失っていきます。
そしてその上に、「自分達はアッシリア人である。」という新しいアイデンティティが築き上げられていくのです。
そうなれば、占領した国はもう反乱を起こす心配もなく、純粋な国力となっていくわけです。

民族的な意識がとても強かったユダヤ人にも、これはかなり有効な手段だったようです。
これによって多くのユダヤ人は自分達のアイデンティティを失っていきました。
DNAの検査によって、この頃に離散したユダヤ人の子孫がタイ人の中で発見されたり、中国で見つけられたりしているという話も聞いた事があります。
また、この時に失われたユダヤ人は長い時間をかけて日本にまで来て影響を与えたという話もあるのです。

このアッシリア捕囚から150年後、ユダ王国もバビロニア帝国によって占領され、同じように捕囚されてしまいますが、これは少し話が違うのです。
というのは、ユダが捕囚されてから70年くらいの間に、バビロニア帝国はペルシャ帝国によって滅ぼされ、この時に捕囚された人達は解放されたからです。
この人達は、自分達のアイデンティティを失ってしまう前に戻ってくる事ができたんですね。

ちなみにこれ以降、もともとイスラエル王国だったサマリアと、捕囚から帰還できたユダヤとの間には大きな確執が起ります。
なぜなら、サマリアに住んでいる人達はアッシリア捕囚の時に他の民族と混ざり合い、アイデンティティを失ってしまった人々だったからです。
純潔を守ったユダヤ人達は、他の民族と混ざってしまったサマリア人たちを、穢れたイスラエル人と見なして嫌ったのです。その辺りの歴史が分ってくると、イエス様がした“良きサマリア人”の話や、“サマリアの女”との話などで起っていた事の意味がより深くわかるようになるのです。
まぁ何にしろ、このような悲劇がイスラエル王国には起ったのだという事をまずは覚えていただきたいのです。

② イスラエルが裁きを受けたわけ
さて、前回見たヨナの話は、大体BC790年から780年くらいの間の事だと思います。
実はそれからそれほど経たない内に、アッシリア帝国はどんどんイスラエルに侵略をし、BC732年からBC720年の間、にイスラエル王国はアッシリアに滅ぼされてしまうのです。

そう考えると、ヨナ書の話が単に“神様は優しい”と簡単に言える話ではないという事が分ってくるのです。
あの時、アッシリア帝国がそのまま神様の裁きによって滅ぼされていたら、イスラエル王国が滅ぼされる事はなかったのではないか?
そう考えると、アッシリア帝国が救われる事をヨナが恐れていたという意味もよくわかってきますよね。
これだけを見れば、神様は神様から離れたイスラエルを捨て、信仰を持ったアッシリア帝国を選んだようにさえ思えてきます。
でも、もちろんそういうわけではありません。

実際には、アッシリア帝国のリバイバルはほんの一時的なもので、その後の歴史を見ても決して神様への信仰を持ち続けたとは思えません。
イスラエルが滅ぼされてしまったのは、必ずしも“アッシリアが裁かれなかったから”ではなく、イスラエルが神様に背き続けた結果であると聖書には書かれています。

17:7 こうなったのは、イスラエルの人々が、彼らをエジプトの地から連れ上り、エジプトの王パロの支配下から解放した彼らの神、主に対して罪を犯し、ほかの神々を恐れ、
17:8 主がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人の風習、イスラエルの王たちが取り入れた風習に従って歩んだからである。

イスラエルの人々は神様から離れ、偶像を拝み、偶像に生贄を捧げ、律法を蔑み、神様ではなく占いやまじないを信じ続けました。
その結果イスラエルは、神様の怒りと裁きを受け、アッシリア帝国に滅ぼされてしまったのです。
アッシリア帝国自体も、ヨナの時には裁きをまぬがれましたが、ここから100年の後にバビロニア帝国によって滅ぼされてしまいます。

“神の裁き”。
これは、恐ろしい響きを持った言葉ですね。
わたし達は夏頃から、いよいよ黙示録の話を読んでいく事になるわけですが、それもまさに“神様の裁き”である終末について書かれているものです。

ある人達にとっては、神様の裁きがつまずきの種となっています。
「神様が愛の方だと言うのなら、裁きなんておかしい。」と思われる方もいます。
しかし本当にそうでしょうか?
すべての犯罪が許され、どんな悪い事をしても罰を受けない世界を考えてみてください。
それこそ、正しく地獄ではないでしょうか?

「いいよ、いいよ、何でも赦すよ。」というのは、一見優しい事のように聞こえますが、実はどうでもいいという事ですよね。
それは愛ではなく、無関心なのです。
愛しているからこそ間違いは正し、時には厳しくする必要もあるのです。

世界には法律がありますが、人間が執り行うものである以上、完璧なものではありません。
取りこぼされる犯罪もあれば、納得のいかない判決もたくさんあります。
「大きな罪こそ合法的である。 」と言った人がいました。
「ひとり殺せば殺人犯だが、百万人殺せば英雄だ。」と言った人もいます。
結果的には力のあるものが罰を免れ、弱いものが虐げられていく事は、この日本でも見る事ができます。
しかし神様は、わたし達人間よりもずっと公正なお方です。
弱者ではどうする事もできなくても、神様がちゃんと裁いて下さいます。
わたし達には犯人がわからなくても、神様の裁きがあるからこそ、わたし達は安心する事ができるのです。

③ 大切なのは神との関係
ヨナ書の中でアッシリア帝国に起った事、その後のアッシリアによるイスラエルの捕囚を通して、わたし達に教えられている事があります。
それは第一に、どのような罪を犯しても、神様に立ち返るなら必ず赦しもチャンスも与えられるという事。
神様は、全ての人が悔い改める事を望んでいます。

しかし第二に、自分は神様に選ばれたつもりでいても、わたし達が神様から離れてしまうなら、わたし達はやはり神様の裁きを受けるのだという事でもあるのです。
イスラエルに起った事は、まさにそれです。
イスラエルは元々、神様と人の間に祭司として仕えるために選ばれた民族でした。
しかしイスラエルは、やがてその事に慣れ、おごり、慢心し、神様に仕えるという自覚を失って他の神々を崇めたり、拝むようになっていったのです。

ユダヤ人はみんな、幼い時から律法を覚え、聖書の言葉を暗誦します。
しかし、だからそれで十分なのではなくて、神様との関係、信仰がなければ何の意味もない事なのです。
わたし達クリスチャンにとっても、“わたし達が何を信じているか”という教理や教義も必要ないわけではありませんが、信仰にはもっと大切な事があります。
それは、わたし達と神様との関係がどうなっているかという事です。
わたし達がどれだけ聖書の勉強をして、教理や教義としては正しい信仰の知識を持っていたとしても、生きた神様との関係がなければ意味がありません。
そして生きた神様との関係があるならば、わたし達は自然に正しい信仰のあり方を求めるようになるでしょう。
ましてや、他の神々を求めたり、偶像に生贄を捧げるなどという事は起らないはずです。

わたし達は、神様との関係をしっかり築き上げる事ができているでしょうか?
わたし達の罪によってできていた、神様とわたし達との間にあった壁は、イエス様が打ち砕いて下さいました。
わたし達は、旧約時代のイスラエルの人々よりも、ずっと深い関係を、神様と築く事ができます。
聖霊の助けによって、聖書の言葉と、祈る事がその関係をさらに強固なものにしてくれます。

裁かれなければならないような罪は、わたし達の中にもあります。
神様は、ヨナが言うように怒るのに遅く、忍耐強い方ですが、それでもやがて裁かれる時はきます。
その時が来る前に、悔い改めて、神様との関係を回復する時を持っていただきたいのです。
わたし達のために十字架にかかって下さった、イエス様の命を無駄にしないためにも・・・。

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