II列王記5:1-14 『⑬奇跡のための備え』 2011/04/17 松田健太郎牧師
II列王記5:1~14
5:1 アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士ではあったが、らい病にかかっていた。
5:2 アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から、ひとりの若い娘を捕えて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていたが、
5:3 その女主人に言った。「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのらい病を直してくださるでしょうに。」
5:4 それで、ナアマンはその主君のところに行き、イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、と告げた。
5:5 アラムの王は言った。「行って来なさい。私がイスラエルの王にあてて手紙を送ろう。」そこで、ナアマンは銀十タラントと、金六千シェケルと、晴れ着十着とを持って出かけた。
5:6 彼はイスラエルの王あての次のような手紙を持って行った。「さて、この手紙があなたに届きましたら、実は家臣ナアマンをあなたのところに送りましたので、彼のらい病から彼をいやしてくださいますように。」
5:7 イスラエルの王はこの手紙を読むと、自分の服を引き裂いて言った。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、らい病を直せと言う。しかし、考えてみなさい。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」
5:8 神の人エリシャは、イスラエルの王が服を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人をやって言った。「あなたはどうして服を引き裂いたりなさるのですか。彼を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」
5:9 こうして、ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立った。
5:10 エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」
5:11 しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このらい病を直してくれると思っていたのに。
5:12 ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。」こうして、彼は怒って帰途についた。
5:13 そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい。』と言っただけではありませんか。」
5:14 そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。
聖書にはたくさんの奇跡が出てきます。
しかし、多くの人がこの奇跡につまずいてしまいます。
ある人は、「奇跡が出てこなければ、聖書をもっと信じる事ができるのに。」と言いました。
まぁ、奇跡というものが信じにくいものだという事はわかります。
普通では起りえない事だからこそ、わたし達はそれを奇跡と呼ぶのですから。
皆さんは奇跡を経験したことがあるでしょうか?
たくさんの奇跡を経験する人もいれば、そういう人達の証を聞きながらどうして自分には起らないのだろうと思う方もいます。
大きな奇跡を誰もが体験できるわけではないでしょう。
しかし、神様が起こす奇跡の多くは、わたし達が誰でも経験できるものであるはずです。
ただ、それを経験するためにはちょっとしたコツがあって、奇跡を体験する機会を逃してしまう事があるのです。
今日のお話しは、ナアマンというアラムの将軍が預言者エリシャを通して神様の奇跡を体験する話です。
ナアマンが、ツァラアトという重い皮膚病にかかってしまった時、妻のメイドをしていたイスラエルの娘の進言によって、イスラエルの預言者エリシャの元を訪れるのです。
しかし、エリシャが言う事をナアマンはなかなか理解する事ができません。
それは、ナアマンが聖書の神様を知らない異邦人だったからです。
わたし達も、もともと聖書の神様の事なんて全く知らなかった異邦人です。
このナアマンの発見を通して、わたし達もたくさんの事を学ぶ事ができるはずです。
ナアマンはどのような事を経験したのでしょうか?
① 預言者が全ての事をしてくれると思っていた
エリシャに癒してもらうため、アラムから遥々やってきたナアマン将軍でしたが、その入口まで来るとこの様な事がありました。
5:9 こうして、ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立った。
5:10 エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」
ナアマン将軍はエリシャの家の入口の所まで来たのです。
でも、エリシャは出てくる様子もなく、家の中から使いを外に出して、「ヨルダン川へ行って、体を7回洗いなさい。」とだけナアマン将軍に伝えさせました。
それを聞いて、ナアマン将軍は怒り出したんです。
5:11 しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このらい病を直してくれると思っていたのに。
5:12 ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。」こうして、彼は怒って帰途についた。
「将軍である自分がここまで出向いてきたのに顔一つ見せない、何と無礼な事だ。」というものも怒りの理由になるでしょう。
しかしまぁ、失礼なのはお互い様です。
それ以上に、ナアマンが神様を知らないからこそ持っている誤解が、この怒りを引き起こす原因となりました。
そしてこのような誤解のために、わたし達も奇跡を経験する機会を逃してしまったりするのです。
一つ一つそれを見て行きましょう。
第一にナアマンは、治療は預言者が全部やってくれると思っていたという事です。
ナアマンは、自分がそこに行きさえすれば、預言者が出てきて、呪文を唱えたり、まじないをしたりして治してくれるのだろうと思っていたのです。
ところが、エリシャは何もしないで、川で洗ってきなさいというのです。
エリシャは、自分のためには小指ひとつ動かさず、姿も見せないという事で、ナアマン将軍は怒ったのです。
預言者の役割は神様の言葉を伝える事ですから、預言者が何かをしなければ奇跡は起こらないという事ではありませんね。
牧師も同じ事です。
牧師が祈らなければ奇跡が起らないのではありませんし、牧師が奇跡を起こすのでもありません。
また、奇跡とは神様が全部の事をやってくれる事なのでもありません。
カナの婚礼で、イエス様が奇跡を起こし、水がワインに変わった時、イエス様はそこにいた人達にかめに水を汲んでくるように命じました。
荒野で5000人の人達がお腹をすかせていた時、イエス様は弟子たちに食べ物を持ってくるように言いました。
5つのパンと2匹のさなかが用意されたからこそ、そこに奇跡は起ったのです。
受験勉強を一切していないのに、有名大学に合格するという奇跡は起りません。
経済的な必要の中で奇跡を求める時、財布を開いたら100万円入っていたという奇跡は起りません。
アルコール中毒の人が、一升瓶を片手に「誘惑を取り除いて下さい。」と祈っても、中毒を克服する事はできないでしょう。
奇跡とは自分にできる最善をしている時に起るものなのです。
わたし達が奇跡を必要としている事柄の中で、今のわたし達にできる事は何でしょうか?
わたし達ができる事をする時、神様はわたし達にできない事をして下さるのです。
② 自分の価値観を捨てて、神様の方法に従う
さて、ナアマン将軍は、「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラアトを直してくれると思っていたのに。・・・」と思っていました。
“立って”“主の名を呼び”“患部の上で彼の手を動か”さなければ、ツァラアトは癒されないという誤解をしていたのです。
またナアマンはこの様にも言っています。
5:12 ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。」
ナアマン将軍がいたアラムには、ヨルダン川よりも立派できれいな川が流れていました。
病気を清めるというのであれば、ダマスコにあるアマナ川やパルパル川の方がふさわしいように思えたのです。
そのようなわけで、ナアマンは何かすごい儀式か何かをして癒しが起ると思っていましたから、エリシャの言ったようにヨルダン川で洗うなんていうバカバカしい事を受け入れる気持にはなりませんでした。
だから、このまま怒って帰ろうとしたのです。
しかし、ナアマンのしもべたちは、彼を説得しました。
5:13 そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい。』と言っただけではありませんか。」
「どんな難しい注文でも聞いて、癒してもらうためにここに来たのではないですか。
ましてやあの預言者の言っている事は簡単で、これからすぐにでもできる事です。せっかくここまで来たのですから、一応やってみましょうよ。」という訳です。
そう言って、彼をヨルダン川に連れて行き、エリシャに言われたように7回洗いました。
すると、ウソのように皮膚病は治ってしまったのです。
奇跡を体験するために立ちはだかる最大の壁は、わたし達のプライドかもしれません。
神様の方法と、わたし達の方法にはいつも大きな差があるものです。
わたし達は誰でも、神様の方法を学ぶ必要があります。
自分のやり方にこだわって神様の方法を拒否してしまったのでは、わたし達は神様の御業を見る事はないのです。
それは、異邦人に限った事ではないでしょう。
わたし達に必要なのは、自分のやり方を捨てて、神様の方法を学び、それに従うという事なのです。
③ どんな小さな者にさえ
わたし達が本当に奇跡を必要とする場面というのは、もうなすすべがないような危機的な場面だと思います。
自分たちで何とかなるような時には、わたし達は奇跡を必要としませんよね。
しかしだからこそ、奇跡と聞くと、わたし達はしり込みしてしまう事もあります。
「自分のような人間に、奇跡なんて起るのだろうか? 起るはずがないじゃないか。」と思ったりもします。
でも、思いだしていただきたいのです。
ナアマン将軍が預言者エリシャと出会うきっかけを作ったのは、名前も知られないようなひとりの召使いの娘でした。
神様は、どんな人でも用いる事ができます。
どんな人にも奇跡を起こす事を厭いません。
主の御名で祈る全ての人に、神様は惜しみなくその力を表して下さるのです。
この娘の上に働き、エリシャに働き、ナアマン将軍に働きかけて下さった神様は、今も同じ事をする事ができます。
わたし達の神様は、今も生きておられるお方です。
皆さんは今、奇跡気を必要としているでしょうか?
家庭環境の中で、経済的な必要として、癒しや、回復のために奇跡を必要としているでしょうか?
わたし達の周りに奇跡を必要としている人はいないでしょうか?
少なくとも、日本という国は奇跡を必要としているのではないでしょうか?
今、わたし達が必要としている事のために、祈る時間を持ちたいと思います。
その中で、わたし達が何をする必要があるのか、どのようなプライドを捨て、変わる必要があるのかを示していただきましょう。
そして、わたし達自身が奇跡のための備えをしようではありませんか。