エレミヤ12:1-4 『 エレミヤ5 なぜ、悪の道は栄えるのですか 』 2014/02/09 松田健太郎牧師

エレミヤ12:1~4
12:1 主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、さばきについて、一つのことを私はあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道は栄え、裏切りを働く者が、みな安らかなのですか。
12:2 あなたは彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて、実を結びました。あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの思いからは遠く離れておられます。
12:3 主よ。あなたは私を知り、私を見ておられ、あなたへの私の心をためされます。どうか彼らを、ほふられる羊のように引きずり出して、虐殺の日ために取り分けてください。
12:4 いつまで、この地は喪に服し、すべての畑の青草は枯れているのでしょうか。そこに住む者たちの悪のために、家畜も鳥も取り去られています。人々は、「彼は私たちの最期を見ない」と言っているのです。

一生懸命、まじめに暮らしていても報われない人生があります。
一方で、ずるくて悪いことをしている人たちが成功し、豊かな生活をしていたりします。
時代が変わり、政治的な体制や経済のシステムが変わっても、その不公平も形を変えて存在しています。

良い人は幸せになって、悪い奴には酷いことが起こる。
そうあるべきだと、私たちは思うのです。
しかし実際には、良い人が必ずしも報われず、悪い人たちがのうのうと暮らし、自分は悪いとさえ思わず、成功している姿が現実としてある。
そのような状況を目の当たりにした時、私たちは不条理を感じます。
そして、神様は本当にいるのか?
神様がいるなら、どうしてこんな状況が許されているのか?
と、感じるのです。

神様に選ばれた預言者である、エレミヤも同じ事を感じていました。

12:1 主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、さばきについて、一つのことを私はあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道は栄え、裏切りを働く者が、みな安らかなのですか。

エレミヤは、神様からの怒りの言葉をユダ王国の人々に伝えたために、自分たちは正しいと信じている人々から迫害を受けていました。
神様からの言葉を伝えようとする自分が迫害を受け、悪の道を進みながら何の反省もない人々が栄えていく事が、エレミヤにはがまんならなかったのです。
『悪の道は、なぜ栄えるのでしょうか?』
今日は、多くの人たちを悩ませるこの問いに、エレミヤとともに向き合っていきたいとお思います。

① ユダへの裁き
さて、エレミヤの問いに対する神様の答えはこれでした。

12:5 あなたは徒歩の人たちと走っても疲れるのに、どうして騎馬の人と競争できよう。あなたは平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせよう。

このまま読んでも、あまり何のことかわかりませんね。
これまでエレミヤが受けていた迫害は、これから彼が経験することに比べれば平穏な地にいるようなものだと神様は言っているのです。
これから迫害は、さらに厳しいものとなっていくでしょう。
しかし、それだけではありません。
神様の中には、もちろんユダ王国に対する怒りもありました。

12:7 私は、私の家を捨て、私の相続地を見放し、私の心の愛するものを、敵の手中に渡した。
12:8 私の相続地は、私にとって、林の中の獅子のようだ。これは私に向かって、うなり声をあげる。それで、私はこの地を憎む。

そして、それに伴う裁きをユダ王国に下すことも、神様は予告しました。

12:14 「主はこう仰せられる。わたしが、わたしの民イスラエルに継がせた相続地を侵す悪い隣国の民について。見よ。わたしは彼らをその土地から引き抜き、ユダの家も彼らの中から引き抜く。

神様は、エレミヤ以外にも、たくさんの預言者や出来事を通して、ご自身の御心をユダ王国に示してきました。
「自分たちの歩んでいる道は、滅びに向かっているんだ」という事。
「滅びの道から逃れるために、私の元に帰ってきなさい」と言う言葉を、神様は幾度となくユダの人々に投げかけてきました。
しかし、ユダの人々は耳を傾けようとはしませんでした。
自分たちは正しいと思い込み、神様に背いていても祝福はあると神様を侮って、神様に立ち返ろうとはしませんでした。
神様は、ただ黙殺していたのではありません。
神様は人に自由意志を与えているので、何でも直接手出しすることはありませんが、人々に働きかけつづけていたのです。
でも神様は、いつまでも待っておられるわけではありません。
神様は、悪をそのままにして、良いものが破壊されていくことを、いつまでも見てはいられないのです。

ユダ王国の悪が裁かれるために、近隣で力を付けていたバビロン帝国が用いられることになります。
言葉によっては、自らの悪を認めようとしないユダの人々は、引き抜かれる痛みによって、自分が間違った道を歩んでいたことを知らなければならない時が迫っていました。

② 苦しみは一緒に
でも私たちは、この出来事を通して考えなければならないことがあります。
それは、バビロンによって攻め滅ぼされ、捕囚を経験したのは、ユダ王国にいる悪い人たちだけではなかったという事です。

ユダ王国に住んでいた人たちの、100%全員が神様に背いていたわけではないでしょう。
大多数が神様から離れ、偶像崇拝に向かう中にも、神様への信仰を大切にしていた人たちもユダ王国にはいたはずです。
何より、エレミヤがその代表でした。
しかしバビロン帝国による侵略は、良い人悪い人に関わらず、信仰のあるなしに関わらず、全てのユダ王国の人々に訪れたのです。
エレミヤもまた、バビロン帝国による捕囚を体験したひとりです。

「え、ダメじゃん。」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
悪い人たちだけが裁きを受けるのではなく、良い人たちも同じ目に合ってしまっているからです。
でも、ユダ王国が悪い状況になったなら、その結果はユダ王国全体に及ぶのです。
教会がカルト化し、神様から離れるなら、牧師だけが神様からの裁きを受けて苦しむのではなく、教会全体が苦しむことになります。
会社が目先の利益だけを求めて不正を行うなら、不正を行った社長だけが苦しむのではなく、会社全体が苦しむことになります。
国が方向性を見失い、間違った方向に進むなら、総理大臣や政治家だけが苦しむのではなく、国民全体が苦しむことになるのです。

私たちは、自分が属するコミュニティの中で、環境を整えていく責任があることも忘れてはいけないと思います。
もちろん、全てをコントロールする事なんてできるはずがありませんが、「神様が裁いてくださるから」という事だけで済ませていると、自分自身も苦しむことになるんです。
だから私たちは、政治に関わっていくという責任もあるわけですよね。
そして、私たちが人々に福音を伝えて行く事もまた、私たちに与えられている責任なのです。

③ 悔い改めのチャンス
しかし、そこで終わらないのが神様の優しさであり、愛なのです。

12:15 しかし、彼らを引き抜いて後、わたしは再び彼らをあわれみ、彼らをそれぞれ、彼らの相続地、彼らの国に帰らせよう。
12:16 彼らが、かつて、わたしの民にバアルによって誓うことを教えたように、もし彼らがわたしの民の道をよく学び、わたしの名によって、『主は生きておられる』と誓うなら、彼らは、わたしの民のうちに建てられよう。

バビロン帝国に侵略され、捕虜として外国に連れていかれるという体験を、多くのユダヤ人が経験することになります。
その苦しみと困難の中で、悔い改めて神様に立ち返るなら、神様はもう一度ユダの人々をもとの国に戻すチャンスを与えて下さるのです。

私たちも、人生の中で、神様からの裁きとしての困難を経験することがあります。
その経験の中で、私たちが神様に立ち返るなら、神様は私たちを暖かく迎え入れて下さるでしょう。
しかし、その中でも私たちが神様を拒み続けるなら・・・

12:17 しかし、彼らが聞かなければ、わたしはその国を根こぎにして滅ぼしてしまう。―主の御告げ―」

私たちが経験する困難は、もしかしたら神様から与えられている、悔い改めるためのチャンスなのかもしれません。
実に多くの人たちが、困難の中にいたからこそ神様に出合う事ができ、自らの罪を悔い改めて神様に立ち返りました。
刑務所の中でクリスチャンになった人、自殺しようとしていた時に神様と出会った人、最悪の状況に陥ってしまった中で信仰を持った人たちの証は、枚挙にいとまがありません。
神様は、このような状況にさえ、救いの道を備えて下さっているのです。
しかし、そのチャンスはいつまでも続くものではありません。

へブル人への手紙の中に、このように書かれています。

へブル10:26 もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。
10:27 ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。

もし私たちが、イエス様と出会ってもそれを拒むなら、聖霊を侮って耳を背けるなら、私たちに残されている救いの道はもう、ありません。
イエス様の福音こそ、私たちに与えられた最後通達なのです。

神様は、憐れみ深い方です。
どんな悪人に対してさえ、チャンスを与えて下さる方です。
そのチャンスを、ひとりでも多くの人たちが受け取り、神様に立ち返ることができますように。
心から祈ります。

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