エレミヤ15:15-21 『 エレミヤ6 あなたと戦っても、勝てない 』 2014/02/16 松田健太郎牧師
エレミヤ15:15~21
15:15 主よ。あなたはご存じです。私を思い出し、私を顧み、私を追う者たちに復讐してください。あなたの御怒りをおそくして、私を取り去らないでください。私を取り去らないでください。私があなたのためにそしりを受けているのを、知ってください。
15:16 私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。
15:17 私は、戯れる者たちの集まりにすわったことも、こおどりして喜んだこともありません。私はあなたの御手によって、ひとりすわっていました。あなたが憤りで私を満たされたからです。
15:18 なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は直らず、いえようともしないのでしょう。あなたは、私にとって、欺く者、当てにならない小川のようになられるのですか。15:19 それゆえ、主はこう仰せられた。「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせよう。もし、あなたが、卑しいことではなく、尊いことを言うなら、あなたはわたしの口のようになる。彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。
15:20 わたしはあなたを、この民に対し、堅固な青銅の城壁とする。彼らは、あなたと戦っても、勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。―主の御告げ―
15:21 また、わたしは、あなたを悪人どもの手から救い出し、横暴な者たちの手から助け出す。」
エレミヤ書からの6回目のメッセージになりますね。
エレミヤは、イスラエル王国が滅ぼされ、ユダ王国もまた滅ぼされようとしている、その時代に送られた預言者でした。
エレミヤは、10代の頃に預言者として神様に選ばれ、ユダ王国の人々が神様に立ち返るように伝えました。
10代と言う若い年齢であれば、仕方がない事だったのかもしれませんが、エレミヤはその預言書の中で何度もその信仰がゆらぎ、神様に対して嘆きの言葉を叫んでいるのを見ることができます。
先週は、「どうして悪者の道が栄えるのですか?」と言う多くの人々がぶつかる問いを、神様に投げかけました。
今日の箇所は、そこから3章目なのですが、エレミヤはまだ嘆きとつぶやきの中にあるのを見ることができます。
私たちも、それぞれに神様に選ばれ、それぞれのフィールドに遣わされています。
その中で、「どうしてこんな目に合わなければならないのか?」「神様は、どうしてこんな状況を許されるのか?」とつぶやきたくなることも少なくはありません。
今日は、エレミヤのつぶやきに耳を傾けながら、神様の答えに耳を澄ませていきたいと思います。
① 当てにならない小川
エレミヤは、神様にこんな風に訴えかけています。
「神様、あなたはわたしをご存じのはずです。あなたが与えた使命を果たすためにわたし私は人々から迫害を受け、打ちのめされているのです。どうかわたしを見捨てないで、わたしが大変な状況にあることを知ってください。」
皆さんは、こんな風に打ちのめされてしまう時がありませんか?
私たちは、神様の御心の通りに生きていれば、こんな苦しい状況に陥るはずがないんじゃないかと思ったりします。
でも、神様の御心に従って生き、使命を果たそうとしていたエレミヤは、大きな迫害の中で悩み、苦しんでいました。
神様が私たちに歩ませる道は、必ずしも平坦で楽な道ではありません。
そこには苦難もあるし、困難もあるし、たくさんの痛みも伴います。
でも神様は、疲れた私たちを休ませてくださるのではなかったでしょうか?
神様とともに生きることは、ひとりで生きるよりずっと楽で、幸せな事ではなかったのでしょうか?
エレミヤはさらに、このように言います。
15:16 私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。
いいですね。
素晴らしい事です。
「私は、聖書をちゃんと読んで、神様の言葉も受け取っているし、それは私にとって楽しみとなり、喜びとなりました。私には救いがある。それは素晴らしい事です。」
しかし、それが喜びのままとはならないのです。
15:17 私は、戯れる者たちの集まりにすわったことも、こおどりして喜んだこともありません。私はあなたの御手によって、ひとりすわっていました。あなたが憤りで私を満たされたからです。
15:18 なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は直らず、いえようともしないのでしょう。あなたは、私にとって、欺く者、当てにならない小川のようになられるのですか。
「私だって、仲間たちと一緒に騒ぎたいし、楽しみたいです。でも、私はいつでもひとりぼっちでした。あなたが、ユダの民に対する怒りで私を満たしているからです。この心の痛みはいつまで続くのですか? いつになったら癒されるのでしょうか? それとも、あなたは嘘つきで、期待外れなお方なのでしょうか?」
ここに出てくる“当てにならない小川”というのは、中東にはよくあるワジ(wadi)の事です。
これは、雨期にだけ川になる枯れ川の事なのです。
地図には川として乗っているので、旅人がそこまで行けば水があると思って行ってみると、枯れて水なんてなかった。
「神様、あなたは私に期待ばかりさせてがっかりさせるような、そんなお方なんですか?」
エレミヤは、酷いことを言っていますよね。
でも、私たちもこんな風に感じるときがありませんか?
「神様は偉大な方ではないんですか? すごい力があるんじゃないですか? 私たちを愛してくださっているのではないんですか? なら、どうしてこんな状況が許されるのですか? あなたは嘘つきですか? 期待はずれの枯れ川ですか?」
エレミヤのいったい何が問題だったのでしょう?
私たちは、なぜ信じているのに、魂の渇きを覚えることがあるのでしょう?
② 私ではなく
その謎を解く言葉が、エレミヤ自身の言葉の中にあります。
15:15 主よ。あなたはご存じです。私を思い出し、私を顧み、私を追う者たちに復讐してください。あなたの御怒りをおそくして、私を取り去らないでください。私を取り去らないでください。私があなたのためにそしりを受けているのを、知ってください。
15:16 私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。
15:17 私は、戯れる者たちの集まりにすわったことも、こおどりして喜んだこともありません。私はあなたの御手によって、ひとりすわっていました。あなたが憤りで私を満たされたからです。
15:18 なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は直らず、いえようともしないのでしょう。あなたは、私にとって、欺く者、当てにならない小川のようになられるのですか。
この、それほど長くない文章の中に、“私”と言う言葉が15回も出てきます。
神様に対する“あなた”と言う言葉も出てきますが、それは“あなた”が“私”に何をしてくれるかという事の中で出てくるだけです。
エレミヤの思いは、“自分”が中心となってしまっていたのです。
“私”が神様に従って、“私”がこの働きをしているのに、“私”が神様の言葉を受け取って喜びを受ける事もあるけど、“私”はいつまでも傷つき、“私”は渇き続けています。
“あなた”はそんな“私”に何もしてくれない。
私たちにも、するべき事があるのは確かな事です。
しかし、福音の神髄は、“私たちが何をやったか?”ではなく、“神様が何をして下さったか”にあるのです。
私たちが、自分自身の行いや、自分自身の想いに心を傾け続ける限り、私たちが福音に触れることはありません。
だから神様は、エレミヤに「私の元に帰ってきなさい。」と言うのです。
15:19 それゆえ、主はこう仰せられた。「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせよう。もし、あなたが、卑しいことではなく、尊いことを言うなら、あなたはわたしの口のようになる。彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。
私たちは、神様から離れているつもりなんて全くないのです。
信じているはずなのに、神様が大好きなのに、問題が起こる。
辛い、苦しい状況が全くよくならない。
そこで「神様、どういうことですか?」と神様に対するつぶやきが漏れるとき、実は私たちの心は神様から離れているのです。
少し前にも同じような話をしましたが、私たちの神様は神の国とその義とをまず第一に求めるとき、必要なものはすべて備えて下さる神様ですよね?
私たちの目には悪い事として映るような状況も、全てを益として下さるお方ですよね?
『いつも喜んでいなさい。』と言う言葉は、どんなに苦しい時もやせ我慢して喜びなさいと言う意味の言葉ではなく、神様に信頼していれば大丈夫なんだという言葉なわけですよ。
『あなたが、卑しい事ではなく、尊い事を言うなら、あなたは私の口のようになる。』
これは別に、言葉遣いに気を付けなさいと言う話ではありません。
どんなに丁寧で美しい言葉を使っても、神様を信頼することができずに離れてしまっているなら、そこからは卑しい言葉が出てきてしまいます。
でも私たちが主とともにて、心から信頼する事とができるなら、私たちからはいつでも感謝と喜びの言葉が出てくるでしょう。
そのような状態の私たちは、神様の御心と一致しているのです。
私たちの自分の力ではできない事だらけ、失敗だらけ、問題だらけですが、神様の力がそこにあるなら、私たちに敵はありません。
15:20 わたしはあなたを、この民に対し、堅固な青銅の城壁とする。彼らは、あなたと戦っても、勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。―主の御告げ―
15:21 また、わたしは、あなたを悪人どもの手から救い出し、横暴な者たちの手から助け出す。」
“神様が”私たちとともにいて、“神様が”私たちを救い、“神様が”私たちを助け出すのです。
神様は、期待外れの枯れ川ですか?
いいえ、イエス様はこう言っています。
ヨハネ4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
ヨハネ7:37b だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
私たちの力は、すぐに枯れ果てます。
しかし、私たちの主は命の水。
決して枯れることはありません。
どんな時でもそこにあり、私たちを潤すことができます。
“私”を中心とするのをやめて、“神様”に帰りましょう。
希望は、そこにあるのです。祈りましょう。