ダニエル9:20-27 『 ダニエル10 七十週の預言 』 2014/07/27 松田健太郎牧師

ダニエル9:20~27
9:20 私がまだ語り、祈り、自分の罪と自分の民イスラエルの罪を告白し、私の神の聖なる山のために、私の神、主の前に伏して願いをささげていたとき、
9:21 すなわち、私がまだ祈って語っているとき、私が初めに幻の中で見たあの人、ガブリエルが、夕方のささげ物をささげるころ、すばやく飛んで来て、私に近づき、
9:22 私に告げて言った。「ダニエルよ。私は今、あなたに悟りを授けるために出て来た。
9:23 あなたが願いの祈りを始めたとき、一つのみことばが述べられたので、私はそれを伝えに来た。あなたは、神に愛されている人だからだ。そのみことばを聞き分け、幻を悟れ。9:24 あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。
9:25 それゆえ、知れ、悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。
9:26 その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と至聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。
9:27 彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげものとをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現れる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」

さて、先週はダニエルの祈りについてお話ししましたが、今日はまたダニエルの黙示の話に戻りたいと思います。
黙示というのは、神様が私たち人類に送ったメッセージですが、映像的に表されている事もあって、その描写がすごく幻想的で、理解しづらい部分があるものです。
でも、ちょっとしたコツをつかめば、そこに語られているメッセージが私たちにも受け取ることができますよというお話をしましたね。

今日の聖書箇所に表わされている、七十週の預言と呼ばれる預言は、ダニエル書の黙示の中では、読み解くことがもっとも困難な預言と呼ばれています。
実際、注解者の中でもいろいろと意見が分かれているところで、そのどれも決定打には欠けてしまいます。
今日は、その中でも一番面白い説を皆さんに紹介しながら、ここに表わされている神様からのメッセージを一緒に受け取っていきたいと思います。

① 七十週の解釈
さてこの黙示は、天使ガブリエルを通して与えられている預言ですね。
これは、ダニエルに与えられている他の黙示と共通しています。
この黙示はこのように始まります。

ダニエル 9:24 あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている。それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。

イスラエルに関して、七十週という不思議な期間が定められている事をガブリエルは告げます。
それは、背きをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。
意味がよくわからないところもありますが、概ねに置いて、これは神様によって与えられる罪の赦しについて、つまり救い主がこの地上でなさる事について書かれているのです。
そこに関係しているのが、この七十週という期間です。
七十週とは、何なのでしょうか?

先週出てきた、エレミヤ書に書かれていた数字は、七十年ですから、
「七十週」と言われると、七十週間の事だと思ってしまいますが、そうとは限りません。
ここで“週”と訳されている言葉は、実は単に“7”という意味の言葉なのです。
これは、七十を7回という意味にも理解できますから、490という数字が出てきます。

そして、聖書の中ではしばしば、「1日」を「1年」として計算します。
例えば、民数記の中にこのような言葉があります。

民数記14:34 あなたがたが、かの地を探った日数は四十日であった。その一日を一年と数えて、四十年の間あなたがたは自分の咎を負わなければならない。こうしてわたしへの反抗が何かを思い知ろう。

この法則に従うなら、ここで言われている七十週という数字は、490年という期間を表している事になります。

さて、この490年の内訳は、さらにこのように説明されています。

ダニエル 9:25 それゆえ、知れ、悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。

そしてこの後に、残りの1週が続くわけです。

“油注がれた者”というのは、王を指す言葉でもありますが、このヘブル語をそのまま発音すれば「メシア」。
つまり、キリストが地上に来られるまでの期間を表している事がわかります。

この期間についても翻訳が微妙なところで、元々の文章では、「君主の来られるまでが七週あり、また六十二週あって」となります。
これは両方とも足して計算すると、(7×7)+(62×7)=483年です。

ダニエルの黙示では、『引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、』483年後に、キリストが生まれてくるという事になります。
エルサレムを再建する命令は、いつ出されたのでしょうか?
これに該当しそうな出来事はいくつかありますが、エズラ記の中にこのような記述があります。

エズラ 7:12 「王の王アルタシャスタ。天の神の律法の学者である祭司エズラへ。この件は完了した。さて、
7:13 私は命令を下す。私の国にいるイスラエルの民、その祭司、レビ人のうち、だれでも自分から進んでエルサレムに上って行きたい者は、あなたといっしょに行ってよい。

これは、アルタシャスタ王の第7年、西暦で換算するとBC457とされています。
さて、BC457から483年後という事になると、それはいつになるでしょうか?
457-483=-26。つまり、AD26年です。
この年は何の年だと思いますか?

ここで、少し補足しておかなければならない事があります。
それは、イエス様がいつ生まれたかという事に関してです。
紀元というのはもともと、イエス様が生まれた年から紀元前と紀元後が分けられていると言われていますよね。
つまり、イエス様はもともと紀元0年に生まれたことになるはずなのです。
ところが昨今、この計算は間違っているのではないかと言われるようになりました。
聖書に描かれているヘロデ王の統治期間や、イエス様の処刑を定めたポンテオ・ピラトの総督就任期間などを計算すると、イエス様が生まれたのは、実際にはBC4年頃だったのではないかと言われているんです。
それを考慮に入れながら、AD26年に何があったかを考えてみると、これはイエス様が、バプテスマのヨハネの元で洗礼を受けた年だという事がわかってきます。
つまり、イエス様がキリストとして活動を始められた年なのです。
どうですか、すごくおもしろいですよね?

② この解釈の問題点
ただし、このような解釈には少し問題も付きまとってきます。
特に、メシアが登場してから後の解釈に無理が出てくるのです。

ダニエル 9:26 その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と至聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。
9:27 彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげものとをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現れる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」

26節の後半からの描写は、エルサレムと神殿が破壊されることを示唆していますが、歴史的にそれが起こるのは、イエス様が十字架に架けられてからさらに40年経った後の、AD70年頃です。
さらに、“荒らす忌むべき者”という反キリストを表す存在が出てくることもあり、ここに書かれている出来事は、終末の事に関して描かれているようにも見えます。
しかし、これまで出てきた数字をこのように計算するのだとすると、イエス様が洗礼を受けてから7年の間に定められた時が起こるはずですから、どちらも計算が合いません。

他にも似たような解釈がたくさんありますが、どれも複雑で、強引な解釈がほとんです。
その中でも、一番シンプルでおもしろいと思ったものを紹介したのですが、総合的に考えて、実際的な解釈としては難しいというのが僕の結論です。

③ 黙示が表している確かな事
こういう具体的な数字が出てくると、私たちはいろいろ計算して、神様の計画を導き出そうとしたり、聖書が正しい事を証明しようと一生懸命になってしまう傾向があります。
それが、イエス様の再臨の時を計算しようとする事に繋がっていくわけですね。

でも、私たちが忘れてはならないのは、へブル人の文化は、私たちが影響を受けているヘレニズム(西洋)的文化に比べて、数字に関しての正確さはあまり問題とはしていないという事です。
聖書に出てくる数字のほとんどは、正確さよりも、象徴とされている意味を重要視しています。
ましてや、これは黙示という幻を通して示されている事ですから、ある程度象徴的なものを表していると考える方が無難だと思います。

いずれにしても、この幻の中で表されているのは、エルサレムにはやがて救い主・メシヤが与えられるという事。
メシヤの役割は、『そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言を確証し、至聖所に油を注ぐ』事にあるという事。
しかしメシヤは殺され、エルサレムは破壊されるという事。
やがて“荒らす忌むべき者”が力を持ち、終わりの時が来るという事です。

ダニエルに、メシヤの事が黙示として表されたことには、ふたつの目的があります。
ひとつは、イエス様が地上に来た時、それがメシヤであるという事を多くの人たちが理解するため。
もうひとつは、人々がこのメシヤを心から求め、救いを手にするためです。

「私はあなたを引き寄せ、罪を赦し、咎を贖い、永遠の義を与える。
私はあなたを愛しているから。
そのためにひとり子であるイエスを十字架に架けても、私はあなたを救う。
私の元に来なさい。
救いを、自らのものとしなさい。
私はそのためにわが子を地上に送り、犠牲とするのだから・・・。」

私たちは、その救いの中に招かれています。
そして、これを信じて自らのものとするなら、私たちの生き方も変わるのです。
この救いを信じて受け取るという事は、やがて終わりの時が来ることも信じるという事だからです。
それが本当なら、私たちは今何をするべきでしょうか?
私たちはどのように生き、何を大切にしていくべきなのでしょうか?

私たちには、その選択が問われているのです。70週の預言の中で語られている、ほとんどの事はすでに整えられました。
あとは、終末の時を待つだけです。
今こそ、神様からの子の約束を自分のものとしませんか?
信じるなら、そこにある救いを自分のものとする事ができるのです。
祈りましょう。

 

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