ネヘミヤ1:1-6 『 ネヘミヤに学ぶ人間性の回復① 』 2014/10/19 松田健太郎牧師
ネヘミヤ1:1~6
1:1 ハカルヤの子ネヘミヤのことば。第二十年のキスレウの月に、私がシュシャンの城にいたとき、
1:2 私の親類のひとりハナニが、ユダから来た数人の者といっしょにやって来た。そこで私は、捕囚から残ってのがれたユダヤ人とエルサレムのことについて、彼らに尋ねた。
1:3 すると、彼らは私に答えた。「あの州の捕囚からのがれて生き残った残りの者たちは、非常な困難の中にあり、またそしりを受けています。そのうえ、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼き払われたままです。」
1:4 私はこのことばを聞いたとき、すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈って、
1:5 言った。「ああ、天の神、主。大いなる、恐るべき神。主を愛し、主の命令を守る者に対しては、契約を守り、いつくしみを賜わる方。
1:6 どうぞ、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、あなたのしもべイスラエル人のために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエル人の罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。
今日からネヘミヤ記のシリーズが始まります。
エズラ記から続いている、バビロン帝国からの帰還の話ですね。
エズラ記では、ゼルバベルとエズラによるふたつの帰還が描かれていました。
ゼルバベルはユダ王国の王族の家系。
エズラは祭司にして律法学者でした。
ネヘミヤはどんな人だったかというと、献酌官という王様にお酒を注ぐ係りの人です。
そんな言い方をするとすごく地味な仕事ですが、要するに毒見係。
それは、王様が最も信頼する人に与えられる働きです。
ネヘミヤは、エズラと同じアルタシャスタ王に仕えていましたが、そう考えてみると、アルタシャスタ王がいかにユダヤ人たちを信頼し、側に置いていたかがわかりますね。
エズラ記の中で話されていたのは、ゼルバベルの帰還によって起こった神殿の回復。
そして、エズラの帰還によって始まった律法、つまり信仰の回復でした。
ネヘミヤ記の中で語られているのはどういう話かというと、城壁の回復なんですね。
これまた、地味な感じがします。
壁の修復なんて、すごくどうでもいい話の様な気がしてしまいます。
でも、エズラ記の中で神殿と律法の回復について10章の間に描かれていたのに対して、壁の回復のためには12章が費やされているのです。
章の長さが直接重要さと比例するとは言えないでしょうが、城壁の回復のために多くの事が書かれなければならなかったことは確かなようです。
わたし達は、エズラ記を学ぶ中では、まじめに、書かれている事をそのままの形で読み解いてきました。
そこでネヘミヤ記に関しては、もう少しわかり易く理解してくために、少し違う側面から見てみたいと思います。
城壁の回復という、一見表面的で重要ではなさそうな出来事の中に、どのような真理が隠されているのでしょうか?
① 私たちの宮の回復
エズラ記からネヘミヤ記にかけての話のテーマは、ユダ王国の回復です。
実は、このユダ王国の回復を、私たち自身に当てはめてみると、私たちがどのようにして回復する事ができるのかという事が分かってくるんです。
エズラ書ではまず、神殿が回復しました。
次に律法が回復することによって、ユダ王国に霊的な回復が起こり始めていたのです。
しかし、そこから10年ほどの間に問題が起こり、ネヘミヤはその報告を聞くことになります。
ネヘミヤ 1:3 すると、彼らは私に答えた。「あの州の捕囚からのがれて生き残った残りの者たちは、非常な困難の中にあり、またそしりを受けています。そのうえ、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼き払われたままです。」
エルサレムの城壁は、もともとバビロン帝国による侵略のため、かなりの部分が破壊されていました。
神殿が回復しても、律法によって人々の中に秩序が戻っても、外敵からの護りはとても弱いものだったのです。
ネヘミヤはこの報告を聞いて嘆き、アルタシャスタ王に願い出て、城壁の再建を始めるのです。
神殿の回復は何を表しているでしょう?
このエルサレムの状況を、私たち自身に置き換えた時、神殿の再建は、私たちの霊的な回復と重なってきます。
以前の私たちの霊は、罪の中に死んだ状態にありました。
神様との関係は断絶し、何が善であり、何が悪であるかを自分自身の基準で計り、神に代わって全てのものをコントロールしようとする生き方をしていたのです。
そんな私たちがイエス・キリストと出会い、自らの救い主として、そして神様として人生の王座にお招きした時、私たちの内には霊的な宮(神殿)が建てられたのです。
こうして、私たちが洗礼を受け、クリスチャンとしての人生を始めた時、そこには神殿が回復した新しい人生も始まったはずなのです。
IIコリント5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
でもどうでしょう?
クリスチャンの皆さんは、クリスチャンになった時、全てが新しく変えられたと実感しましたか?
洗礼を受けてから5年たつけど、結局何かが変わったようには思えないという人もいるかもしれません。
キリストがうちにあるなら、誰でもその人は新しく造られた者だと言われているのに、何も変わったように感じないのはなぜなのでしょうか?
それは、内側が変わっても外側が変わっていないからです。
神殿が建てられて回復しているのに、城壁は壊れたままなのです。
そして城壁が壊れているからこそ、外からの攻撃に弱く、簡単に打ち崩されてしまったりもするのです。
私たちの城壁とは何でしょうか?
そして、どうやって外壁を回復する事ができるのでしょうか。
② 城壁を回復させる
神殿の回復を、私たちの霊的な回復とするならば、城壁の回復とは、私たちの人格の回復にということになるでしょう。
人格とは、知性、感情、意思によって作り上げられる私たちの人間性そのものです。
私たちを見る人たちは、私たちの霊的な状態を見て私たちという人間を判断するのではなく、私たちの人格によって私たちがどのような人間かという事を推し量ります。
そしてこの人間性が、私たちを霊的な攻撃から守る城壁にもなったりするのです。
内なる私たちが新しくなっても、実際には何も変わったような気がしない。
「あなたそれでもクリスチャン?」と言われたりする。
それは、私たちの知性、感情、意思が、実は壊れたままの状態にあるからなのです。
私たちが世の中で直面する問題の多くは、このように人格の一部が壊れてしまっているために起こる事ではないでしょうか?
知性、感情、意思のゆがみのために、自分にとって本当に必要なものが何かを見失ったり、自己否定的な気分に打ちのめされたり、あるいは逆に思うままに生きるために罪の実を刈り取る事になったり、不用意に他の人たちを傷つけてしまう事もあります。
知性や感情、意思のゆがみが、私たちに罪の行動を起こさせてしまうのです。
だから私たちは、互いに傷つけあったり、勝手に傷つき合ったり、どこにいても必ず問題が起こってしまいます。
そこで私たちがどうするかと言うと、ルールを作り、お互いをその枠にはめ込むことによって、何とか秩序を保っていこうとするのです。
そこには模範となるモデルがあり、全ての人がその模範に従って変わっていくように要求されます。
会社や、家庭や、近所づきあいなど、そこに必要となるルールは変わってきます。
ルールに合わせやすい人もいれば、合わせる事が難しい人もいるでしょう。
しかし、全ての人が同じような形になる事を要求され、それにそぐわなければみんなから批判され、叩かれることになってしまいます。
そこでどんなことが起こるかというと、表面的にそのルールに合わせておけばいいやという事になるわけです。
そこで多くの人たちは、正しい人間としての仮面をかぶり、自分を偽って表面だけルールに合わせようとするのです。
そして、表面的に正しい生き方をしているから、中身も正しい状態なのだと思いたがるのです。
教会の中にも、そのような文化ができてしまいがちですね。
教会の外ではそうしているので、教会も同じようにすればいいと思ってしまうのです。
③
でもそれは、聖書的なアプローチの仕方ではありません。
イスラエルの回復は、どこから起こりましたか?
城壁が回復したら、神殿が回復していったでしょうか?
いいえ、イスラエルの回復は、まず神殿から起こりました。
表面の城壁だけ整っていれば良いと言うものではないのです。
③ 神の宮を建てる時
ここで書かれている神殿、神の宮は、私たちクリスチャンにとって何を意味しているでしょうか?
私たちクリスチャンにとっての神の宮とは何ですか?
教会でしょうか?
そう言う事もできなくはないかもしれませんが、聖書にはこのように書かれています。
Iコリント6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
神の宮とは、クリスチャンとなり聖霊が内に住んで下さる、私たち自身なのです。
エズラ記が伝える歴史は、神の宮を建てようとする時、そこには敵からの妨害が起こる事を教えてくれています。
私たち神の宮が建てられて行くというのは、私たちが霊的に成長していくという事です。
私たちクリスチャンの霊的成長とは何ですか?
聖書の知識が増える事でしょうか?
より熱心な信仰を身に着けていく事でしょうか?
それもないとは言いませんが、私たちが霊的に成長した時に起こるのは、私たちがより私たちらしくなって、神様に創られたままの本来の自分に近づいていくという事です。
罪人となって、神様から離れてしまった私たちの回復は、まず霊的な回復から起こらなければならず、その逆はありません。
外側が整えられても、それによって中身が変わることはなく、むしろ体裁が整っていれば、中身はそのまま放置されてしまう事になります。
なぜでしょうか?
それは、私たちが抱えている問題、知性、感情、意思の崩壊は、すべて神様との関係が断絶したことによって起こっているからです。
創世記の三章は、人が神様に背き、霊的に死んだときに何が起こるかが書かれています。
神様に創られた素晴らしい自分を恥ずかしいものと思って隠そうとし、神様から逃れようとし、罪を人のせいにし、祝福だったはずのものは苦しみとなり、生きる事は試練となり、殺人までも起こっていきます。
それはすべて、人が神様に背き、離れた結果起こった事だと、聖書は私たちに教えています。
私たちの抱えている問題の根本的な部分にあるのは、神様との関係なのです。
神様との関係を無視して、体裁だけを整えようとする動きは、残念な事に教会にも蔓延しています。
教会にいる間だけニコニコして、素晴らしいクリスチャンの仮面を被っていても、教会を一歩出れば罪だらけのままの自分なのであれば、あまり意味はありませんね。
がんばって教会の外でも仮面を被っている事ができたとしても、そんな生活は窮屈で、苦しくて、疲れてしまいます。
もちろん私たちは、お互いに傷つけあわないような最低限のマナーは必要ですが、体裁だけを整える事が神様の御心ではありません。
本当の回復のためには、まず宮が建てられ、霊的な回復が必要なのです。
そしてエズラによって律法が教えられたように、聖書を通して神様に創られたままの自分というアイデンティティが回復させられていく必要があります。
そして、城壁を修復し立て直すネヘミヤたちの働きは、私たちの人格を修復してくれる聖霊のようです。
そのようなわけで、私たちはこれから数週間の間、ネヘミヤ記を通して、私たちの人格がどのようにして癒され、修復されていくのか、そのために私たちは何をする必要があり、どのような問題に直面するのかという事を学んでいきたいと思います。