マラキ1:1-7 『 マラキ1 あの愛をもう一度 』 2014/11/16 松田健太郎牧師

マラキ1:1~7
1:1 宣告。マラキを通してイスラエルにあった主のことば。
1:2 「わたしはあなたがたを愛している」と主は仰せられる。あなたがたは言う。「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」と。「エサウはヤコブの兄ではなかったのか。―主の御告げ―わたしはヤコブを愛した。
1:3 わたしはエサウを憎み、彼の山を荒れ果てた地とし、彼の継いだ地を荒野のジャッカルのものとした。」
1:4 たといエドムが、「私たちは打ち砕かれた。だが、廃墟を建て直そう」と言っても、万軍の主はこう仰せられる。「彼らは建てるが、わたしは打ちこわす。彼らは、悪の国と言われ、主のとこしえにのろう民と呼ばれる。」
1:5 あなたがたの目はこれを見て言おう。「主はイスラエルの地境を越えて偉大な方だ」と。1:6 「子は父を敬い、しもべはその主人を敬う。もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。―万軍の主は、あなたがたに仰せられる―わたしの名をさげすむ祭司たち。あなたがたは言う。『どのようにして、私たちがあなたをあなたの名をさげすみましたか』と。
1:7 あなたがたは、わたしの祭壇の上に汚れたパンをささげて、『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか』と言う。『主の食卓はさげすまれてもよい』とあなたがたは思っている。

今日から新しいシリーズに入りました。
旧約聖書の最後の書、マラキ書ですね。
このマラキ書を、今週と来週の2回で学んでいきたいと思います。

旧約聖書の一番最後に掲載されているというだけでなく、旧約聖書の一番最後に書かれた聖書でもあります。
ユダの人々が捕囚から帰還して、神殿も城壁も再建され、国として再興していくかと思われていたそんな時代です。
傷が癒やされ、いよいよ新しいユダ王国として再スタートするわけですから、さぞかし希望に満ち溢れていたのではないかと思うのですが、残念ながらそのようには事は進んでいきません。
ユダの人々は、町が再建されて国が安定してくると、またすぐに神様から離れ始めたのです。

マラキ書は、ネヘミヤが総督として働いていた時代に書かれたと言われていますから、ユダの人々はあっという間に堕落してしまったことになります。
捕囚という熱いものも、喉元を過ぎればすぐに忘れてしまうものなのかもしれません。
そんなユダ王国に起こった出来事を、共に学んでいきましょう。

① 小さくなる愛の心
ユダヤ人たちの第一の問題は、神様の愛が分からなくなってしまったという事でした。

マラキ 1:2a 「わたしはあなたがたを愛している」と主は仰せられる。あなたがたは言う。「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」と。

「神様は、あなたを愛されています。」と聞いた時、皆さんはどう感じますか?
「あぁ! 私は愛されているんだ!」という喜びがあふれてきて、居ても立ってもいられなくなってくるでしょうか?
そうだと良いですね。
でも、そうでない方もいらっしゃるかもしれません。
「あ~、知ってる。」「何を今さら・・・」
そう感じる私たちも、神様の愛を知り、信仰を持つようになった頃は情熱にあふれていたのではないでしょうか。
熱心に教会に通い、少しでも多く聖書の学びに参加し、誰かに会えばなぜクリスチャンになったかを話し、その人にもこの喜びを分かち合いたいと思うような時代が私たちにもありました(笑)。

でもその思いはいつの間にか萎んで小さくなり、愛されている事なんて当たり前の事になり、聖書を読むのも教会に行くのも面倒くさくなってきたりします。

② ごみのような捧げもの
私たちの想いがそうなってくると、礼拝もまた変わってきてしまいます。
神様への愛が小さくなって来る事によって、私たちはいい加減なものを捧げるようになってくるのです。
マラキ書には、このように書かれていました。

マラキ 1:7 あなたがたは、わたしの祭壇の上に汚れたパンをささげて、『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか』と言う。『主の食卓はさげすまれてもよい』とあなたがたは思っている。

一か月くらい前ですが、礼拝とは何かという話をしたことを覚えているでしょうか?
「毎週日曜日に集会に参加する事」が礼拝なのではなく、礼拝の本質は捧げる事でした。
何を捧げるのでしょうか? お金でしょうか? 賛美でしょうか?
確かにそういうものも含まれるでしょう。
マラキ書の中には、収入の10分の一を献金として捧げる事も書かれています。
私たちが生きるために最も大切だと感じるお金を捧げる事は大切な事だし、私たちの心を捧げる賛美もまた、素晴らしい捧げものです。
でも、私たちが何よりも捧げる必要があるのは、私たち自身なんです。

ローマ12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

私たちが神様の声に耳を澄ませ、その導きに従って歩む中に霊と真の礼拝があります。
その時私たちは、神様の手となり足となり、この地上に神の国が広がっていくのです。
私たちが創られた目的のひとつはそこにあり、そこに私たちの本当の喜びがあります。

しかし愛が覚めてくると、私たち捧げ物はだんだんおざなりになってきてしまいます。
まずは自分が楽しみ、好きな事をし、余ったら神様のために何かする。
あとは「日曜日に教会に行っていればいいや。」という事になっていってしまうのです。

③ 契約を破る
マラキ書は、愛を失った私たちが進むもう一つの段階についても書いています。
愛を失い、ごみのような物を捧げるようになった私たちは、最後には神様との約束も蔑ろにするようになっていくのです。

マラキ2:5 わたしの彼との契約は、いのちと平和であって、わたしは、それらを彼に与えた。それは恐れであったので、彼は、わたしを恐れ、わたしの名の前におののいた。
2:6 彼の口には真理の教えがあり、彼のくちびるには不正がなかった。平和と公正のうちに、彼はわたしとともに歩み、多くの者を罪から立ち返らせた。
2:7 祭司のくちびるは知識を守り、人々は彼の口から教えを求める。彼は万軍の主の使いであるからだ。
2:8 しかし、あなたがたは道からはずれ、多くの者を教えによってつまずかせ、レビとの契約をそこなった。―万軍の主は仰せられる―

この時、ユダヤの人々が蔑ろにし、破っていたのは、神様に生涯仕えるという、契約の民としての約束です。
それは、他の何物を出もなく、創造主である神様を神様として崇めるという契約でした。
しかしユダの人々は、神様への愛を失い、周りの人々に流されて偶像を崇拝するようになっていってしまいました。
彼らはその罪のために捕囚を招き、やっと故郷に帰ってくることができたばかりだというのに、落ち着いたらすぐに偶像崇拝へと戻ってしまったのです。

私たちクリスチャンも、イエス様を救い主とした時に同じ約束をしました。
でも私たちもまた、その約束を忘れ、神様以外のものを神様以上に大事にしてしまう偶像崇拝の罪を犯しています。
聖書の中で神様は私たちの花婿として描かれ、私たちは花嫁とされています。
そんな私たちが神様以外のものを愛するのは、不倫と同じですよね。
私たちがお金や、人や、物を神様以上に求めてしまう時、神様は妻が浮気をしたのと同じような心の痛みと苦しみを味わっているのです。

④ あの素晴らしい愛をもう一度
僕がメッセージの準備をするために、マラキ書を読み始めた時から、頭の中では一つの歌がずっと繰り返し流れていました。
メッセージのタイトルを見てピンときた方もいるかもしれませんが、『あのすばらしい愛をもう一度』という歌です。
こんな歌詞の歌です。

『命かけてと 誓った日から すてきな想い出 残してきたのに
あの時 同じ花を見て 美しいと言ったふたりの 心と心が 今はもう通わない
あのすばらしい愛をもう一度 あのすばらしい愛をもう一度』c加藤和彦と北山修

結婚して何年もともに過ごしてきたのに、愛を誓って結婚したふたりの心が、いつの間にか通わなくなってしまった。あのすばらしい愛をもう一度取り戻したいという歌ですね。
私たちも、人生のある時にイエス様と出会い、そこにある愛を知ってキリストの花嫁となりました。
でも何人も共に過ごしてきたはずなのに、神様への私たちの愛は枯れ始め、少しずつ萎んでいってしまいます。
その愛を、どうしたら回復する事ができるのでしょうか?
私たちは、どうしたらあの素晴らしい愛をもう一度取り戻す事ができるのでしょうか?

実はこれ、それほど難しい事ではありません。
答えとしては明らかですね。
必要なのは、私たちが神様から離れていた今までの道から方向転換して、神様の元に立ち返る事です。
聖書はそれを、悔い改めと呼んでいます。

もう少し具体的な話をするなら、私達はもっと神様との時間を過ごす必要があるのです。
祈り、み言葉に耳をすませ、全ての事を神様と一緒にする時、神様との関係は手がかりを受けて回復巣ていきます。
勉強ではないですよ。
私たちが神様の事をどれだけ勉強しても、どれだけ荒行をつんで自分自身を清めても、神様との関係は深まったりしません。
問題を一緒に乗り越えていったり、感動を共有する事によって、関係というものは深まっていくものなのです。

これは、夫婦の関係にも同じ事が癒えますね。
実を言うと、夫婦の関係を深めていく事よりも、神様との関係を深める事の方がずっと簡単だったりします。
私たちが愛を回復したいと思っても、その思いが一致しなければ回復することは難しいですが、私たちに対する神様の想いは、いつでも愛に満ちているからです。

ユダの人々の心は頑なで、神様との関係を回復するという事がありませんでした。
それが、この後のユダ王国の運命を決定していく事になります。
私たちの神様との関係は、どうでしょうか?
私たちは、本来あるべき神様との愛を取り戻し、喜びの中で神様と共に歩んでいきたいものです。

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