マラキ2:1-17-3:6 『 マラキ2 滅ぼし尽くされない 』 2014/11/23 松田健太郎牧師

マラキ2:17~3:6
2:17 あなたがたは、あなたがたのことばで主を煩わした。しかし、あなたがたは言う。「どのようにして、私たちは煩わしたのか。」「悪を行う者もみな主の心にかなっている。主は彼らを喜ばれる。さばきの神はどこにいるのか」とあなたがたは言っているのだ。

3:1 「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている」と万軍の主は仰せられる。
3:2 だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現れるとき立っていられよう。まことに、この方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。
3:3 この方は、銀を精錬し、これをきよめる者として座に着き、レビの子らをきよめ、彼らを金のように、銀のように純粋にする。彼らは、主に、義のささげ物をささげる者となり、
3:4 ユダとエルサレムのささげ物は、昔の日のように、ずっと前の年のように、主を喜ばせる。
3:5 「わたしは、さばくため、あなたがたのところに近づく。わたしは、ためらうことなく証人となり、呪術者、姦淫を行う者、偽って誓う者、不正な賃金で雇い人をしいたげ、やもめやみなしごを苦しめる者、在留異国人を押しのけて、わたしを恐れない者たちに向かう。―万軍の主は仰せられる―
3:6 主であるわたしは変わることがない。ヤコブの子らよ。あなたがたは、滅ぼし尽くされない。

マラキ書から2回目のメッセージです。
マラキ書は、旧約聖書最後の書であり、最後の預言でしたね。
捕囚から帰還したユダの人々は、神殿を建て直し、城壁を建て直し、律法を学ぶ事によって新しいスタートを迎えたはずでした。
でも、最初に持っていた神様への愛は冷めてしまい、次第に神様から離れていくようになってしまったのです。

愛が冷めた人々は、余り物やごみのような物を神様に捧げるようになり、次第に神様との約束も見失っていってしまいました。
私たちも神様への愛を見失ってしまう事がありますが、神様の元に戻るなら、神様はいつでもそこで待っていますよというのが、先週のお話しです。

皆さんはどのように応答しましたか?
皆さんが、神様に立ち返ることができたらいいなぁと心から思います。
マラキ書から、私たちはそのようなメッセージを受ける事ができましたが、これは元々ユダの人々に向けられた預言の言葉です。
それでは、ユダの人々はどのように応答したでしょうか。

① 罪を否定し、神を否定する
あなた達はなぜ神様から離れたのか、神様に立ち返りなさいという言葉に対して、ユダの人々はこのように応答しました。

2:17 あなたがたは、あなたがたのことばで主を煩わした。しかし、あなたがたは言う。「どのようにして、私たちは煩わしたのか。」「悪を行う者もみな主の心にかなっている。主は彼らを喜ばれる。さばきの神はどこにいるのか」とあなたがたは言っているのだ。

「私たちは何も悪いことしていませんけど?」
「神様は愛の方ではありませんか。私たちがどんなことをしたとしても、神様は喜ばれるに決まってますよ?」という事ですね。
ユダヤ人でなくても、多くの人がこのような考えの中にあるように思います。

道行く人たちに聞いてみれば、ほとんどの人たちが自分は天国に行けると思っているでしょうし、自分には良い事が起こって当たり前だと思っているでしょう。
大体ちょっと大人になれば、世の中悪い事をしている人たちが得をして、良い人たちは虐げられている事がわかってきます。
こういう現実を見ていると、裁きの神様なんてどこにもいないような気がしてきても、おかしくないのかもしれません。

② 義の捧げもの
しかし、裁きの時が必ず来るとマラキは預言します。

マラキ 3:1 「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている」と万軍の主は仰せられる。

まず使者が来て、道を整えると言います。
そしてその後に、「どこにいるのか」とイスラエルの人々が言っていた裁きの主が突然来ると預言しました。
最初に遣わされる使者とは誰の事か、やがて来る“わたし”とは誰の事かわかりますか?
後の時代の事を知っている私たちには、簡単にわかりますね。
最初に洗礼者ヨハネが道を整え、そのあとイエス様が来るのです。

マラキはイエス様を、“契約の使者”として預言しました。
人間が罪人となった時、人類を救うために送ると約束した救い主。
その血によって罪を贖うと約束した、神の小羊。
その救い主は、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫として、そしてダビデの子孫として生まれる事が約束されていた契約の使者、イエス様です。

メシヤの描写は、このように続きます。

3:2 だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現れるとき立っていられよう。まことに、この方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。

ユダヤ人たちはイエス様が来るまで、自分達が神の御心に適い、正しい事をしていると信じていました。
律法を守り、生贄を捧げる事で、彼らは天の御国に入れると信じていました。
しかし、イエス様は彼らの解釈よりもずっと厳しい神の基準で彼らを見ました。

「あなたがたは人を殺してはいけないと聞いているが、兄弟に向かって腹を立てるものは誰でも裁きを受けなければならない。」
「姦淫してはいけないとあなた方は聞いている、しかし情欲を抱いて女を見るものはすでに心の中で姦淫を犯したのだ。」
「目には目で、歯には歯で報いよとあなた方は聞いている、しかし右の頬を打つものには左の頬を向けなさい。上着を盗る者には下着も与えなさい。1ミリオン行けという者には2ミリオン共に行きなさい。」
「隣り人を愛し、敵を憎めとあなた方は聞いている、しかし自分の敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい。」
このような厳しい律法を、誰が守ることができるでしょうか?
これが神様の基準であるなら、誰が天の御国に行く事が出来るというのでしょうか?
それはまるで金や銀を鍛える炎、布を真白にする漂白剤の様だと、マラキは言ったのです。

3:2 だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現れるとき立っていられよう。まことに、この方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。
3:3 この方は銀を精錬し、これをきよめる者として座に着き、レビの子らをきよめ、彼らを金のように、銀のように純粋にする。彼らは、主に、義のささげ物をささげる者となり、
3:4 ユダとエルサレムのささげ物は、昔の日のように、ずっと前の年のように、主を喜ばせる。

主は銀を精錬し、これを清めるものとして座に着く、と預言されました。
イエス様が着かれた座とは、十字架のことです。
それでは、レビの子らとは誰の事でしょうか? レビとは祭司の事です。
祭司とは、わたし達の代表として神様の前に出、贖いのための生贄を捧げる人々でした。
私達はイエス様を救い主として信じるとき、私たち全員が神様との個人的関係を結ぶ事の出来る祭司となりました。
レビの子らとは、わたし達クリスチャンの事です。

イエス様は十字架という王座に着いて、わたし達の罪を贖い、罪という混ざり物の多かったわたし達を純金のように、純銀のように純粋に清めてくださいます。
そして、私達は義の捧げ者を捧げるものとなるのだとマラキは預言しました。
わたし達の捧げ者はかつて神様が全焼の生贄や和解の生贄を喜ばれたように、主を喜ばせるようになりました。
私達は祭壇に牛や羊を捧げるわけではありません。
わたし達の捧げ物は神様への賛美です。感謝です。信仰です。
そして何よりも、私たち自身を生きた供え物として捧げる時、神様はその事を心から喜ぶのです。

③ 滅ぼしつくされない

3:5 「わたしは、さばくため、あなたがたのところに近づく。わたしは、ためらうことなく証人となり、呪術者、姦淫を行う者、偽って誓う者、不正な賃金で雇い人をしいたげ、やもめやみなしごを苦しめる者、在留異国人を押しのけて、わたしを恐れない者たちに向かう。―万軍の主は仰せられる―
3:6 主であるわたしは変わることがない。ヤコブの子らよ。あなたがたは、滅ぼし尽くされない。

主は宣言します。
主であるわたしは変わることが無い。
主は永遠の光。絶対に正しい義なる方です。
その主が、私たちの中の悪を見過ごし、裁かないことがあるでしょうか。
いや、無い。
私たちも裁きの炎をくぐらなければならないはずです。

にもかかわらず、「ヤコブの子ら、イスラエルの民よ、あなた方は滅ぼされない」と、神様はおっしゃるのです。
何故でしょうか? なぜ、主は私たちを滅ぼし尽くされないと言ったのでしょうか?
当時の人々には検討もつかなかったでしょう。
でも、私たちはその答えを知っています。

それは、イエス様の十字架のゆえなんです。
神様のひとり子、イエス・キリストが十字架にかかり死んでくださった時、私たちの罪は贖われ、それを信じる者は裁かれることがないからです。
私達は罪と死の力から解放され、新しい命の御霊を与えられたのです。

マラキによる預言を聞いたユダの人々が、この預言の成就を経験するのは、この時から400年後の事です。
それまでの400年間、神様はユダの人々に対して沈黙を守ります。
それは、ユダの人々が神様の声を聞こうとしなかった事の結果だったかもしれません。
いずれにしてもこの400年の間にも、ユダはたくさんの危機を経験しながら、救い主を待ち望む心が募っていく事になりました。

今を生きる私たちもまた、ユダの人々と同じ間違いを犯してしまう事があります。
私達の罪は赦されているのだから、何をしてもいいじゃないかという考え、自分の願望を神様に優先させてしまうのです。
でもこれこそ、ユダの人々の論理であり、いい訳と同じではないでしょうか。
私たちはすぐにでも自分の罪を認め、神様に立ち返り、神様の御心に従って歩んでいきたいですね。
その生き方にこそ、私たちの本当の幸福があり、この世界に神の国をもたらす生き方だからです。
祈りましょう。

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