ヨシュア記1:1-9 『新しい指導者ヨシュア』 2009/07/05 松田健太郎牧師
ヨシュア記 1:1~9
1:1 さて、主のしもべモーセが死んで後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。
1:2 「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。
1:3 あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。
1:4 あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。
1:5 あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
1:6 強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。
1:7 ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。
1:8 この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。
1:9 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」
100年に一度という世界的な大恐慌の最中でも、勢いが衰える事のない日本企業がいくつもあります。
その中で有名な企業のひとつは、ユニクロではないでしょうか。
大胆な商品展開で、アパレルの常識を何度も覆してきたその業績は、本当に驚くべきものがあります。
そのユニクロの社長である柳井正さんは、2002年に社長のポストを離れた事がありました。
しかし、次期社長として就任した玉塚元一さんをわずか3年で解任し、2005年からはまた社長として復帰して今に至っています。
玉塚さんも、今はロッテリアのCEOをしていますから、とても実力のある方なのですが、あの柳井社長を納得させながら、後を継いで会社を経営していくのは、本当に大変な事なんだろうと思いますね。
日本には、偉大な政治的指導者というのはなかなか現れないのですが、偉大な経営者はたくさんいますね。
本田宗一郎、松下幸之助・・・、しかしそういった偉大な経営者の後で会社のトップになる人たちは、その責任の重さも、かつてはカリスマとなる社長に従ってきた社員たちを納得させる事に関しても、本当に大変な苦労をしたのではないかなぁと思うんです。
今日から数回に掛けて語られるヨシュアという人は、あのモーセの後継者となった人です。
そこにかかってくる責任の重さといったら、大変なものだったのではないでしょうか。
僕自身もまた、モーセとまではいかないですが、偉大な宣教師と言える、パイク先生やヤング先生の後で牧師をする事になったわけです。
そこにかかって来るプレッシャーのようなものは、ひしひしと感じられます。
皆さんは、何か大きな責任を負うような体験をされた事があるでしょうか?
この教会には大きな責任を負うような仕事をしてきた方が何人もいますが、それだけではなく、町内会の役員だって重い責任になりえるでしょうし、家を護り、子供たちを育てる事の責任の大きさと言ったら大変なプレッシャーです。
わたし達は多かれ少なかれ、何か責任を負い、その重さに苦しむ事を経験しているのではないでしょうか?
そのような大きな責任と重圧の中で、ヨシュアはどのようにして次の指導者となっていったのかという事を、今日は共に学んで行きたいと思います。
① 後継者ヨシュア
さてモーセの後継者は、ヨシュアが立候補したのでも、イスラエルの人々が投票して決められたのでもありません。
イスラエルの新しい指導者は、神様によって命じられたんですね。
わたし達は、今している仕事が神様の選びによって与えられたものだという確信を持つ事ができたら素晴らしいですね。
わたし達はどのような事をする時でも、それが神様の御心であると言う確信をもってその事に挑みたいものです。
しかし、例え自分の仕事が神様から与えられたものだという確信を持つ事ができたとしても、そこに不安や心配事がなくなるわけではありません。
僕自身、この教会の牧師となった事に神様の導きを確信していますが、だからといって僕がその役割をパーフェクトにこなす事ができているとは思っていません。
いつでも神様の導きに従っていたいと願っていても、僕もひとりの人である以上失敗もするし、行くべき道を見失ってしまう事もあるわけです。
でも、僕は人の魂に関わる仕事をしているのですから、「僕だって人間なんだから仕方がない。」ではすまない事も、時と場合によってはあるだろうと思うのです。
ヨシュアの後からついて来るのは、何百万というイスラエルの人々です。
神様がさせてくださる事だとは言っても、ただその事実を考えただけで不安になってくるのではないでしょうか。
そんなヨシュアに、神様は言い聞かせるように、この様に語ってくださったのでした。
1:5 あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
1:6 強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。
1:7 ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。
最後に神様は、律法から離れて、右にも左にも反れてはならないと言われました。
わたし達に必要なのは、ただ主に従い続けるという事です。
神様がわたし達に与えてくださる役割は、時として自分の身にはあまるような大きな責任が伴う事かもしれません。
その道は時として険しく、問題もたくさん起こるかもしれません。
しかし、神様がそれを与えて下さり、わたし達が従っているならば、神様は決して私たちを見捨てる事はありません。
ヨシュアにとって何よりの励ましだったのは、指導者としての責任がモーセからヨシュアに移されても、その後ろにいて下さる神様は決して変わることがないという事です。
そしてモーセやヨシュアと共にいてくださった神様は、わたし達と共にもいて下さいます。
主は、従うわたし達と必ず共にいて下さると約束してくださっているのです。
不安になったり心配になる事もありますが、恐れず、雄々しく、主を信じて進んでいきましょう。
② ヨシュアのリーダーシップ
さて、モーセからヨシュアに指導者としての責任が移っても、その後ろにいる神様が変わる事はないというお話しをしました。
そのためにヨシュアは、神様に徹底的に従い、神様からのみ言葉や導きを、可能な限り忠実に、人々に伝える必要があったんです。
神様に忠実であるという事に関して、ヨシュアはとても有能な指導者でした。
彼は早速、人々に具体的な指示を与え、これからの戦いに備え始めたのです。
1:10 そこで、ヨシュアは民のつかさたちに命じて言った。
1:11 「宿営の中を巡って、民に命じて、『糧食の準備をしなさい。三日のうちに、あなたがたはこのヨルダン川を渡って、あなたがたの神、主があなたがたに与えて所有させようとしておられる地を占領するために、進んで行こうとしているのだから。』と言いなさい。」
神様の約束を手にするためには、時として戦いが必要です。
この時には、文字通り血肉を賭けた戦いが待っていましたが、そこに何よりも求められていたのは、主に従い続けるという信仰です。
わたし達が主の約束を手にするために必要なものも、本質的にはこの時代と変わりません。
それは、例えば教会の牧師や世話人の人たちだけが従って、信仰の道を歩めばいいというのではなくて、教会に集うおひとりおひとりの中に、その決意が求められているのです。
イスラエルの人々は、この時ヨシュアに逆らうのではなく、神様の言葉としてどこまでも従うと、その決意をヨシュアに伝えました。
1:16 彼らはヨシュアに答えて言った。「あなたが私たちに命じたことは、何でも行ないます。また、あなたが遣わす所、どこへでもまいります。
1:17 私たちは、モーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。ただ、あなたの神、主が、モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように。
1:18 あなたの命令に逆らい、あなたが私たちに命じるどんなことばにも聞き従わない者があれば、その者は殺されなければなりません。ただ強く、雄々しくあってください。」
僕は、牧師として皆さんに、「僕の言う事に従いなさい。」という事を求めたりはしません。
今の時代を生きるわたし達には聖霊が与えられているのですから、皆さんおひとりおひとりも主の導きを受け、それに従う事ができるはずだからです。
僕は神様からの言葉を可能な限り忠実にお話しするつもりですが、皆さんもそれをしっかり見極めながら、主に従っていく必要があると思います。
もしも僕が、僕の言葉だけが神様の言葉だと言い始めたら、それは明らかにどこかおかしいわけですよね。
しかし、この教会の牧師として仕事をする人間として、皆さんにお願いしたい事があるのです。
それは、この時民が、『あなたの神、主が、モーセとともにおられたように、あなたと共におられますように。』と祈ったように、牧師のために祈ってくださる事です。
牧師は、常に霊的な戦いの真っ只中にいます。
その戦いの中で時には疲れ、意気消沈し、力を失ってしまう事も少なくはないからです。
実を言えばここしばらくの間、僕は結構辛い霊的な状態、精神状態の中にあります。
いろいろな所での人間関係だったり、教会が寂しくなっている状況もあるのですが、具体的なひとつひとつの事よりも、霊的な戦いの中で苦しんでいるのが現状だと思うのです。
もちろん僕も皆さんのための祈りますが、どうか皆さん、僕がいつでも主から目を離すことなく、この戦いを乗り越えていく事ができるように祈っていただければ幸いです。
③ ヨルダン川を渡る
さて、これからいよいよカナンの地へと足を踏み入れようとしていた時、彼らの前にはヨルダン川という大きな障害が横たわっていました。
ヨルダン川は雪解け水で増水し、橋もなければ、川を渡るための舟もありませんでした。
わたし達もまた、時としてこのような絶望的な状況に足を踏み入れてしまう事もあるかもしれません。
主の導きに従う道は、決して楽で平坦な道なのではなく、たくさんの困難が伴うのはわたし達も見てきた通りですね。
そんな危機を、神様はどのようにして乗り越えさせてくださったでしょうか?
3:5 ヨシュアは民に言った。「あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから。」
3:6 ヨシュアは祭司たちに命じて言った。「契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って渡りなさい。」そこで、彼らは契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って行った。
そうして契約の箱をかついだレビ人たちが、増水して勢いよく流れるヨルダン川の中に足を踏み入れると、ヨルダン川は彼らの足のところでせき止められ、人々は乾いたところを渡ってヨルダン川を越えることができたのです。
これは、契約の箱が何か特別な力をもって奇跡が起こったという事ではありません。
契約の箱というのは、神様が共にいて下さる事を象徴する、イスラエルの人々にとっての視覚教材のひとつなのです。
幕屋や契約の箱を初めとして、旧約聖書に書かれているさまざまな出来事や物を通して、イスラエルの人々は神様のご計画を知り、主に従う事を学んできたわけです。
ここでは、契約の箱そのものがイエス様を表しています。
つまりここで表されているのは、イエス様を先頭にしてわたし達が後に従うとき、どんなに困難な状況が進む道を閉ざしていたとしても、必ずそこに開けるという事を意味しているのです。
皆さんは何かに行き詰まりを感じたり、先に進む事に希望が感じられなくなったりしてはいないでしょうか。
皆さんがそのような絶望に打ちのめされる時、主こそがその道を開いてくださるのだという事を思い出していただきたいのです。
僕自身も、前に進む事が辛く苦しいこの時、主の励ましを受けて前進していきたいと思います。
イザヤ 43:19 見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。