ヨシュア記7:1-9 『イスラエルのつまずき』 2009/07/19 松田健太郎牧師
ヨシュア記 7:1~9
7:1 しかしイスラエルの子らは、聖絶のもののことで罪を犯し、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取った。そこで、主の怒りはイスラエル人に向かって燃え上がった。
7:2 ヨシュアはエリコから人々をベテルの東、ベテ・アベンの近くにあるアイに遣わすとき、その人々に次のように言った。「上って行って、あの地を偵察して来なさい。」そこで、人々は上って行って、アイを偵察した。
7:3 彼らはヨシュアのもとに帰って来て言った。「民を全部行かせないでください。二、三千人ぐらいを上らせて、アイを打たせるといいでしょう。彼らはわずかなのですから、民を全部やって、骨折らせるようなことはしないでください。」
7:4 そこで、民のうち、およそ三千人がそこに上ったが、彼らはアイの人々の前から逃げた。
7:5 アイの人々は、彼らの中の約三十六人を打ち殺し、彼らを門の前からシェバリムまで追って、下り坂で彼らを打ったので、民の心がしなえ、水のようになった。
7:6 ヨシュアは着物を裂き、イスラエルの長老たちといっしょに、主の箱の前で、夕方まで地にひれ伏し、自分たちの頭にちりをかぶった。
7:7 ヨシュアは言った。「ああ、神、主よ。あなたはどうしてこの民にヨルダン川をあくまでも渡らせて、私たちをエモリ人の手に渡して、滅ぼそうとされるのですか。私たちは心を決めてヨルダン川の向こう側に居残ればよかったのです。
7:8 ああ、主よ。イスラエルが敵の前に背を見せた今となっては、何を申し上げることができましょう。
7:9 カナン人や、この地の住民がみな、これを聞いて、私たちを攻め囲み、私たちの名を地から断ってしまうでしょう。あなたは、あなたの大いなる御名のために何をなさろうとするのですか。」
聖書にはこのような言葉があります。
伝道者 7:14 順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである。
わたし達の人生には、調子のいい時もあれば、悪い時もあるものです。
いい事がある時には主に感謝をし、悪い事がある時にはその事でくよくよしたり、自分の不幸を呪うのではなく、逆境の時にこそ自分自身を省みる機会です。
順境の時にも、逆境の時にも、そこに神様が共にいてくださると言う事は、私たちにとって大きな励ましではないでしょうか。
しかしそこには、もうひとつの見方があります。
わたし達は、悪い事が続く時には、後に訪れる祝福に期待すればいいのですが、良いことが続く時にこそ、わたし達は逆境に備えて気をつけなければならないのです。
ヨシュアたちは首尾よくカナンの地に足を踏み入れ、難関中の難関であったエリコの城壁をあっけないくらいに簡単に打ち破ってしまいました。
そこに油断が生まれたのです。
慢心とは、実にうまくいっている時にこそ訪れるものなのです。
① イスラエルの敗北
さて、難攻不落のエリコを攻略し、次の攻略地はアイです。
アイはエリコから20キロくらい離れた場所にある、やはり大きな城壁をもった町でした。
ヨシュアは斥候に命じて、アイを偵察させます。
そして偵察の結果は、こうでした。
7:3 彼らはヨシュアのもとに帰って来て言った。「民を全部行かせないでください。二、三千人ぐらいを上らせて、アイを打たせるといいでしょう。彼らはわずかなのですから、民を全部やって、骨折らせるようなことはしないでください。」
アイの町はエリコより更に高いところにあり、攻める事も難しい場所です。
しかし、エリコに比べればずっと小さな町でした。
そうは言っても、人口は1万2千人の町です。
その中で戦えるのは3千人くらいでしょうが、2、3千人送ったところで、兵力は互角かそれ以下です。
それで十分と言うのは、彼らがアイを見くびっていたからに他なりませんでした。
エリコの攻略があまりにも楽だったので、人々は今回も楽勝に違いないと思ったのです。
ヨシュアたちは神様に祈り伺う事もせず、勝手な判断によって3千人をアイに送り込んだのでした。
その結果は、惨憺たるものでした。
7:4 そこで、民のうち、およそ三千人がそこに上ったが、彼らはアイの人々の前から逃げた。
7:5 アイの人々は、彼らの中の約三十六人を打ち殺し、彼らを門の前からシェバリムまで追って、下り坂で彼らを打ったので、民の心がしなえ、水のようになった。
「心がしなえ、水のようになった」というのは、立ち上がる事ができないくらい打ちのめされた状態になったという事です。
神様が勝たせて下さるはずではなかったのか。
主が共にいて下さると言ったのではなかったか。
ヨシュアもまた、大敗の事実を知って愕然としました。
7:6 ヨシュアは着物を裂き、イスラエルの長老たちといっしょに、主の箱の前で、夕方まで地にひれ伏し、自分たちの頭にちりをかぶった。
7:7 ヨシュアは言った。「ああ、神、主よ。あなたはどうしてこの民にヨルダン川をあくまでも渡らせて、私たちをエモリ人の手に渡して、滅ぼそうとされるのですか。私たちは心を決めてヨルダン川の向こう側に居残ればよかったのです。
7:8 ああ、主よ。イスラエルが敵の前に背を見せた今となっては、何を申し上げることができましょう。
7:9 カナン人や、この地の住民がみな、これを聞いて、私たちを攻め囲み、私たちの名を地から断ってしまうでしょう。あなたは、あなたの大いなる御名のために何をなさろうとするのですか。」
あのヨシュアが、あの確信にあふれて民を力強く導いてきたヨシュアとは思えないほどに恐れ、不安に駆られていました。
その祈りは力なく、いっそヨルダン川を渡らなければよかったと言うほどです。
わたし達は、この様なヨシュアを見て、弱音を吐くなんて何とだらしない、信仰の弱い事だと思うかもしれません。
しかしわたし達は、神様の前にこの様にして弱さをさらけ出す事も必要なのではないでしょうか。
わたし達は、他の人たちの前では自分の弱さをあまり見せられない部分があります。
特にリーダーとしての立場にあると、人に弱音を吐くことができなくなってしまうのです。
それでもわたし達は、神様の前では本当の自分自身であるべきです。
ありのままの自分として主の前に立って、心からの言葉で祈る事が大切なのです。
② 敗北の原因
主の前にひれ伏すヨシュアに、神様は敗北の原因は罪にあると言われました。
カルミの子アカンが、全てを神様に捧げなければならない聖絶の中から取って、密かに自分のものにしていたのです。
敗北の原因に油断や慢心があったのは確かでしたが、それ以上に主の力注がれなかった事が、敗北の一番の原因でした。
アカンひとりの罪によってイスラエル全体が戦いに負けるのはおかしいと感じるかもしれません。
罪の報いは本人だけのものであって、父親の罪を子供が背負うこともないと言われています。
それなのにアカンの罪によってイスラエルが負けてしまったのは、これが聖絶の戦いだからです。
アカンが犯したのは個人的な罪であるだけでなく、イスラエルに与えられていた神様からの使命に背く罪だったのです。
カナンがイスラエルの人々に約束された地であったという事もありますが、カナンが聖絶されなければならない理由を、神様はこの様に伝えています。
レビ 18:24 あなたがたは、これらのどれによっても、身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている国々は、これらのすべてのことによって汚れており、
18:25 このように、その地も汚れており、それゆえ、わたしはその地の咎を罰するので、その地は、住民を吐き出すことになるからである。
イスラエルは、カナンの罪からは完全に離れていなければなりませんでした。
イスラエルの一部でも、聖絶のものに手を出す事は許されなかったのです。
そうすれば、イスラエルもこの汚れに染められてしまうでしょう。
そのためにもその罪に触れたアカンはすぐに引き離されなければならず、その事をイスラエル全体が知らなければならなかったのです。
わたし達の場合はどうでしょうか。
教会の中の誰かが罪を犯したからといって、教会全体が影響を被るという事はそうそうないように思います。
しかし、教会の中に入った罪が、他の人に伝わっていくという事はあるのではないでしょうか。
また、わたし達の行動を見て、人々はクリスチャン全体を判断し、教会とはどのような場所かを決めてしまうという事も忘れてはなりません。
わたし達の罪も、自分自身の中だけで完結するものではないのです。
わたし達はひとつの体に属する、主の体の一部なのですから、その一部が毒に侵されれば、その毒は体中に及びます。
わたし達ひとりひとりが主から派遣された宣教者だという自覚をもって、罪に対していかなければならないですね。
③ 罪を明らかにする
さて、アカンは自分が犯した罪をこのように白状しています。
7:20 アカンはヨシュアに答えて言った。「ほんとうに、私はイスラエルの神、主に対して罪を犯しました。私は次のようなことをいたしました。
7:21 私は、分捕り物の中に、シヌアルの美しい外套一枚と、銀二百シェケルと、目方五十シェケルの金の延べ棒一本があるのを見て、欲しくなり、それらを取りました。それらは今、私の天幕の中の地に隠してあり、銀はその下にあります。」
分量から言えば、200シェケルの銀や50シェケルの金は大した量ではありません。
「これくらいいいじゃないか。」と、アカンは思っていた事でしょう。
しかし、この罪がもたらした影響は決して小さくはありませんでした。
この罪ゆえにイスラエルはアイの前に敗北し、アカン自身もその罪のために、命を落とす事となってしまったのですから。
わたし達も、「これくらいの罪は誰でもやっている。これくらいいいじゃないか。」と思って罪を犯すことがあるかもしれません。
しかし、その罪は本当に、その報いを受けるに値する価値があるのでしょうか?
大切な家族や、周りの友達を巻き込んでしまってもいい位の価値が、その罪には本当にあるのでしょうか?
それだけの価値がある罪なんて、一体どこにあるでしょう?
わたし達は、そのような悪いものをもたらす罪から、一刻も早く離れるべきではないでしょうか。
聖書は、わたし達にこの様に教えています。
Ⅰヨハネ 1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
もし、密かに握り締めている罪があるなら、それを主の前に明らかにしましょう。
それを神様の前に告白し、その罪から離れるなら、もうその罪によって裁きを受けることはありません。
わたし達にとって救いなのは、わたし達の罪はもう贖われているという事です。
主は罪を憎むだけでなく、罪の中にあったわたし達を愛し、哀れんでくださり、その罪を赦すために救い主イエス様を遣わしてくださいました。
イエス様はわたし達の罪をすべて引き受けて十字架で死に、わたし達が受けるべき罰を代わりに引き受けて下さったのです。
このイエス様を救い主として信じるなら、わたし達は全ての罪が赦されているのです。
また、この様にも言われています。
エペソ 5:11 実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。
5:12 なぜなら、彼らがひそかに行なっていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。
5:13 けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。
5:14 明らかにされたものはみな、光だからです。
罪を赦されたわたし達は、もう罪の中に留まるべきではありません。
アカンがイスラエルから取り除かれなければなかったように、わたし達個人の中からも罪は取り除かれなければなりません。
しかし、わたし達がその罪を自分の中から切り離したとき、わたし達は再び主の光の中にあって、勝利を手にする事ができるのです。