ルツ記2:8-16 『ボアズの7つの祝福』 2009/08/23 松田健太郎牧師
ルツ記 2:8~16
2:8 ボアズはルツに言った。「娘さん。よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ったり、ここから出て行ったりしてはいけません。私のところの若い女たちのそばを離れないで、ここにいなさい。
2:9 刈り取っている畑を見つけて、あとについて行きなさい。私は若者たちに、あなたのじゃまをしてはならないと、きつく命じておきました。のどが渇いたら、水がめのところへ行って、若者たちの汲んだのを飲みなさい。」
2:10 彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。「私が外国人であるのを知りながら、どうして親切にしてくださるのですか。」
2:11 ボアズは答えて言った。「あなたの夫がなくなってから、あなたがしゅうとめにしたこと、それにあなたの父母や生まれた国を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私はすっかり話を聞いています。
2:12 主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」
2:13 彼女は言った。「ご主人さま。私はあなたのご好意にあずかりとう存じます。私はあなたのはしためのひとりでもありませんのに、あなたは私を慰め、このはしためにねんごろに話しかけてくださったからです。」
2:14 食事のとき、ボアズは彼女に言った。「ここに来て、このパンを食べ、あなたのパン切れを酢に浸しなさい。」彼女が刈る者たちのそばにすわったので、彼は炒り麦を彼女に取ってやった。彼女はそれを食べ、十分食べて、余りを残しておいた。
2:15 彼女が落ち穂を拾い集めようとして立ち上がると、ボアズは若者たちに命じて言った。「あの女には束の間でも穂を拾い集めさせなさい。あの女に恥ずかしい思いをさせてはならない。
2:16 それだけでなく、あの女のために、束からわざと穂を抜き落としておいて、拾い集めさせなさい。あの女をしかってはいけない。」
先週から、わたし達はルツ記の学びに入っています。
先週は、異邦人に影響を与えたナオミ(Naomi)の信仰と、幼子のように素直なルツ(Ruth)の信仰について学びました。
共に夫を失い、失意の中でのイスラエルに戻ってきたナオミとルツはナオミの親戚であるボアズ(Boaz)という男性と出会います。
イスラエルでは、没落した家族を助けるために、親戚がその地所(財産)を買い取って、残された家族を引き取り、養う責任がありました。
ボアズはその責任を引き受けて、ルツと結婚し、彼ら地所を買い取る決断をします。
これが、ルツ記の中心となる物語ですね。
ここで出てくる“買い取る”という言葉は、別の言い方で“贖う(redeem)”という言葉にする事ができます。
わたし達は教会に来ていると、この“贖う”という言葉を何度も聞きますね。
「イエス様は、わたし達の罪を“贖って”下さった。」と言います。
このボアズという人は、ナオミとルツにとって、法律上の“贖い主(redeemer)”であると言う事ができるのです。
さて、先週のメッセージで、ルツ記という小さな物語が聖書の中に載せられているのは、このルツの家系からメシヤが生まれる事になったからだというお話をしました。
しかし、ルツ記が聖書に載せられているもうひとつの理由は、このボアズを通して、メシヤがどのような方なのかという事を、わたし達が知ることができるからでもあるのです。
そこで今日は、このボアズの人格を通して、メシヤ=キリストがわたし達に与えてくださる7つの祝福を見て行きたいと思います。
① 居場所を与えてくださる方
ルツとボアズが初めて出会ったとき、ボアズはルツにこの様に言いました。
2:8 ボアズはルツに言った。「娘さん。よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ったり、ここから出て行ったりしてはいけません。私のところの若い女たちのそばを離れないで、ここにいなさい。
現代社会の中で、多くの人たちが自分の居場所を見つけられず、絶望の中で生きています。
その様な人たちは、自分は何者なのかというアイデンティティを失い、孤独で、生きていても何の役にも立たないのではないかと感じています。
その様な人たちの多くが、自らの命を絶ってしまうのです。
しかしイエス様は、わたし達に生きる喜びを教えてくださり、わたし達の命には目的がある事を教えてくださいます。
そしてわたし達をその身元に引き寄せ、「ここにいなさい。」と言って下さるのです。
② 渇きを満たしてくださる方
続いてボアズは、ルツにこの様に言いました。
2:9 刈り取っている畑を見つけて、あとについて行きなさい。私は若者たちに、あなたのじゃまをしてはならないと、きつく命じておきました。のどが渇いたら、水がめのところへ行って、若者たちの汲んだのを飲みなさい。」
第2に、わたし達の救い主は、わたし達の渇きを満たしてくださるお方だという事です。
わたし達は魂に渇きを覚え、お金や、物や、自分を磨く事や、恋人や子供など様々なものでその渇きを満たそうとしますが、わたし達は決して満足をする事ができません。
少しの間はよくても、やがてまた自分を満たすものを求めてさ迷う事になるのです。
イエス様がサマリヤを通りかかった時、井戸で出会った女性にこのように言いました。
ヨハネ 4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
わたし達の心にある魂の渇きを満たすことができるのは、イエス様だけです。
イエス様という生ける水とわたし達が出会うなら、その水はわたし達を満たし、あふれ出て、周りの人々まで潤す事ができるのです。
③ わたし達のことを知って下さる方
2:11 ボアズは答えて言った。「あなたの夫がなくなってから、あなたがしゅうとめにしたこと、それにあなたの父母や生まれた国を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私はすっかり話を聞いています。
鬱になる人の多くが抱えている、共通の苦しみがあります。
それは、自分が誰にも理解されないという思いです。
わたし達はどんなに苦しい経験をしている時でも、その辛さや苦しみを理解し、共感してくれる人がいれば、その経験を乗り越える事ができるものです。
しかし、わたしの事を全て理解してくれる人なんて、どこにいるでしょうか?
わたし達はみんな別の人格を持ち、別の経験をして生きてきたのですから、実を言えば何かに関してわかってもらえるという事自体が滅多にない事なのです。
わたし達を創造した神様だけが、わたし達の全てを理解してくださる事ができます。
Iコリント 2:11 いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。
と、聖書には書かれています。
主は、わたし達以上に、わたし達の事を知って下さるお方なのです。
そして、わたし達の事を知っているだけではなく、わたし達の事をしっかりと理解し、共感して下さいます。
全知全能の神様に、惨めなわたし達の気持ちがどれだけわかるというのか?
しかし、人としてこの世に来て、わたし達と同じ目線に立ち、わたし達と同じ命を経験して下さった神様は、わたし達の気持ちをちゃんと理解してくださる事ができるのです。
そしてわたし達が助けを求める時、主はわたし達の立場に立ちながら、わたし達が想像できる以上の答えを示し、わたし達を導いてくださる事が可能なのです。
④ 避けどころとなって下さる方
2:12 主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」
親鳥は、わが子を護るために雛鳥をその翼の下に入れます。
雛鳥は凍えるような寒さからも、あるいは敵の攻撃からも、文字通り身を盾にして愛するわが子を護るのです。
イエス様もまた、わたし達を護り、救い出すためにその身を犠牲にして下さいました。
その事によって、わたし達は主に信頼して、いつでもその身を完全に預けていいのだという確信を得る事ができるのです。
わたし達は信仰をもってクリスチャンになったからと言って、いつも良い事だけが起こり、何の苦労のない素晴らしい人生が待っているわけではありません。
わたし達は、罪の溢れたこの世界に生きる中で、時には傷つき、たくさんの苦難も経験するのではないでしょうか。
ある人は、お金を貯めることによって自分の身を守ろうとします。
ある人は、権力を手に入れる事によって、自分の安全を図ろうとします。
しかし、この世のどのようなものを使って自分を守ろうとしても、わたし達は完全に安心する事はできません。
それどころか、わたし達が身を守るために得た財産や権力も、いつ失ってしまうかわからないという新たな不安を生み出すものになってしまいます。
しかし、わたし達が神様を信頼してその身を寄せる時、わたし達は主の前に平安を得る事ができます。
主への信頼がわたし達の内に確かなものとなるなら、わたし達は御翼の下で不動の平安を手にする事ができるのです。
⑤ 汚れたわたし達に話しかけてくださる方
2:13 彼女は言った。「ご主人さま。私はあなたのご好意にあずかりとう存じます。私はあなたのはしためのひとりでもありませんのに、あなたは私を慰め、このはしためにねんごろに話しかけてくださったからです。」
わたし達は罪びとであり、本来は神様から離れてしまった、汚れた存在でした。
しかし、そんなわたし達であるにも関わらず、聖なるお方であるイエス様は、わたし達に親しく語りかけて下さいます。
ボアズははしためルツに対して、“ねんごろに話しかけてくださった”と書かれています。
この“ねんごろ”という言葉は、“心に語りかけてくださった”とも訳すことができる言葉です。
それは、わたし達の主が、心に語りかけてくださるお方だという事を意味しています。
主イエス様の御言葉はわたし達の心に届き、その傷を癒し、包み込んで下さるのです。
ルツはボアズの前にあって、自分をはしため以下の存在として実感しました。
わたし達もまた、自分の低さ、自分の罪深さに気づく時、主が語りかけてくださる事の恵みの大きさが、どれほど大きなものなのかを知ることができるのです。
⑥ 必要を満たしてくださる方
2:14 食事のとき、ボアズは彼女に言った。「ここに来て、このパンを食べ、あなたのパン切れを酢に浸しなさい。」彼女が刈る者たちのそばにすわったので、彼は炒り麦を彼女に取ってやった。彼女はそれを食べ、十分食べて、余りを残しておいた。
さらにボアズは、ルツにパンを与えました。
彼女はそれを、余すほどに与えられたと書かれています。
6番目に、主はわたし達の必要を満たしてくださるお方です。
イエス様は、わたし達のこの様に教えています。
マタイ 6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
必要なものは主が与えてくださいます。
だからわたし達は、主に信頼して、安心して、いつまでも主に従っていくことができるのです。
⑦ 豊かに恵みを注いでくださる方
2:15 彼女が落ち穂を拾い集めようとして立ち上がると、ボアズは若者たちに命じて言った。「あの女には束の間でも穂を拾い集めさせなさい。あの女に恥ずかしい思いをさせてはならない。
2:16 それだけでなく、あの女のために、束からわざと穂を抜き落としておいて、拾い集めさせなさい。あの女をしかってはいけない。
律法では、貧しい人々のために収穫の際に落ちた穂を拾ってはならないと書かれています。
ルツはその恵みに預かって、自分が食べる分の麦の穂を、ボアズの畑からいただこうとしました。
しかし、ボアズはルツのために、麦の束からわざと穂を抜き落として、ルツが本来受けられる以上の収穫を得させたのです。
神様が創造したこの世界を汚してしまったわたし達が、神様に求める事ができる権利なんてどれ程のものでしょうか。
わたし達が主の前に自分自身を省みるなら、わたし達は主から愛される理由なんて、何もないようにさえ思えます。
しかし主は、わたし達を愛し、支え、立ち上がらせ、力を与えてくださいます。
わたし達が得てしかるべき以上の恵みを、わたし達の上に注いで下さっているのです。
主が、わたし達の贖い主であるというのはそういう事です。
わたし達は本来、神様から得るべき祝福なんて何もないような存在になってしまっているのにも関わらず、イエス様はわたし達の負の遺産である罪をも全て買い取って、神のひとり子である主が得るはずだった祝福をわたし達に与えてくださったのです。
わたし達は、主がその身を捧げて救ってくださったわたし達の命を、喜びを持って生き、主のために捧げて生きたいものです。