レビ記11:45 『神の民として生きる~隔離と埋没』 2007/11/25 松田健太郎牧師

レビ記 11:45
11:45 わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」

たまに他の教会を見てみたり、他の教会の牧師と話をしていると、この西葛西国際キリスト教会という教会は、めずらしいタイプの教会なんだと思わされる事があります。
正直に言いますと、牧師になってからしばらくの間は、もしかしたら教会のあり方として何かがおかしいのではないかとか、どこか間違えているのかもしれないと思ったものですが、今ではこの特異性は教会の長所でもあると思っています。

さて、私達の教会の中では少ない悩みだと思いますが、多くの教会が直面している問題のひとつとして、信徒がクリスチャンの人としか接しなくなるという状況があるのだそうです。
その様な事が起こってしまう原因というのは、わからなくはないんですね。
クリスチャンとして、慎み深く、信仰深い生活を送るためには、クリスチャン同士で交わっていた方が楽なのです。

普通の会社で働いていれば、どうしても付き合いで飲みに行かされる状況が起こってくる。
近所の人と話し込めば、どうしても誰かの悪口や噂話になってしまう。
また、「毎週日曜日は必ず教会に行く」というだけでも、信仰を持たない多くの人とは付き合い辛くなってしまいますね。
自分自身の清さを保つという事に関して考えてみても、クリスチャンはクリスチャンとだけ交わりを持った方が、圧倒的に信仰生活を維持できるのではないでしょうか。

ここしばらく律法に関するお話を続けていますが、今日のお話は律法を学んでいく上で避けることのできない部分のひとつではないかと思います。
それは、私達が普通に生活を送っていれば、律法に従おうとする生き方をするのはとてつもなく難しい事となってしまうからです。
では、神様は私達にどうする事を望んでいるのでしょうか、聖書を通して、一緒に学んでいきたいと思います。

① 聖徒として生きるということ
これまで十戒を中心としたメッセージをしてきましたが、聖書に書かれている律法はもちろん十戒だけではありません。
イスラエルの民が守らなければならない戒めの数々を、神様はモーセに延々と語り続けています。

十戒に示されている律法のほとんどは、道徳的な部分に対する戒めでしたから、私達にも比較的わかりやすい部分だったと思います。
しかし実際には、聖書に記されている律法の多くは、道徳的な部分を示す戒めではなく、祭儀的なあるいは宗教的な部分での戒めが数多く示されているのです。

私達にとってわかりにくい律法というのは、大体この祭儀的な律法に当てはまります。
どのようにして生贄を捧げるかということ、あるいは食べていいもの悪いもののリスト、さらにある種の病人に対するふるまいなどは、私達の常識からは大きく外れ、理解できないようなものなのではないでしょうか。

例えば、理解しがたい律法の例として、この様なことが聖書には記されています。

レビ 13:45 患部のあるらい病人は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている。』と叫ばなければならない。

僕のもっている聖書は古い版なのですが、新しい版の新改訳聖書には、“らい病”ではなく“ツァラァト”という言葉が使われていますね。
いずれにしても、この皮膚病にかかってしまった人に触れると、それだけでその人は汚れた者となってしまうのです。
だから誰も間違って触ってしまわないように、病にかかった人は「汚れている、汚れている」と叫ばなければならないというんですね。
他にも、動物や人間の死体、月のさわりある女性、漏出のある男性など、不用意に触れると汚れてしまうとされているものはたくさんありますが、私達には理解しがたいものです。

どうしてそれらが祭儀的に汚れているのかというのは私達には理解しがたいものがあるのですが、実はここにはひとつの真理が隠されています。
“朱に交われば赤くなる”ということわざがありますが、汚れているものに交われば、汚れてしまうというのが人間の性質であるという事を示唆しているのです。

新鮮なリンゴも腐ったリンゴと同じ箱の中にいれられれば、その接している部分から腐っていってしまうように、罪に触れれば罪は人の間で広がっていく。
それはつまり、罪の影響を受けている私達には、堕落する傾向があるということです。

そこで神様はイスラエルに命じたのです。

レビ 11:45 わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」

イスラエルの人々は、神の聖なる民として生きるために、自分たちを聖く保たなければなりませんでした。
そしてそのために必要なのは、自分たちを汚れたものから完全に切り離し、隔離する事。
そのための訓練を、彼らは色々な形でしていかなければならなかったのです。

さて、私達クリスチャンも、霊的なイスラエル、主の民です。
私達もまた主の民の一員として、聖くあらなければならない。
コリント人への手紙の中では、パウロもこの様に言っていますね。

Ⅱコリント 6:14 不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。
6:15 キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。
6:16 神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
6:17 それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、6:18 わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」
7:1 愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。

では、やはり私達クリスチャンは、自らを聖く保つためにこの世のことから離れ、回りの人たちから「あの人たちはなんだかちょっと変わっているわねぇ。やっぱりクリスチャンというのは浮世から離れた人たちなのかしら。」と言われるようになる事こそが求められているのでしょうか?

② 汚れた人たちとの交わり
ところがパウロは、同じコリントの人たちに向けた別の手紙でこの様にも語っています。

Ⅰ コリント 5:9 私は前にあなたがたに送った手紙で、不品行な者たちと交際しないようにと書きました。
5:10 それは、世の中の不品行な者、貪欲な者、略奪する者、偶像を礼拝する者と全然交際しないようにという意味ではありません。もしそうだとしたら、この世界から出て行かなければならないでしょう。

私達はクリスチャンではない人たちと完全に交流を断ってしまい、“聖い”人たちとだけ過ごせばいいという事ではまったくないのです。
そしてパウロは、信仰を持たない人たちと交わってはならないという事ではなく、信じているにも関わらず、あえて神様のいう事に逆らい、不品行な道を選ぶ人とは離れるべきなのだと説明しています。

それでは、私達の完全なお手本であるイエス様はどうしたでしょうか?
祭儀的には汚れているツァラアトに犯された人々を、イエス様は避けたでしょうか?
死んだ人をイエス様は忌み嫌ったでしょうか?
異邦人に対して、イエス様はいっさいの交流を断っていたでしょうか?
答えは否です。
イエス様はその様な汚れた人々とも交わりを持ち、彼らの病を癒し、死から蘇らせる事によって、すべての汚れを取り去ってしまったのです。

福音書の中にある、長血をわずらった女性の話を覚えているでしょうか?
彼女は医者からも見離され、癒されることなく、人々から忌み嫌われたまま12年の間寂しい日々を過ごしてきました。
律法の教える所に従うなら、彼女が触れた者はすべて汚れてしまう。
その女が、最後の望みを賭けてイエス様の衣の裾に触れました。
その瞬間、この女は尊いイエス様に触れて、汚してしまったはずだったのです。
しかしそうではありませんでした。
信仰を持ってイエス様に触れたとき、彼女の汚れがイエス様に伝染してしまうのではなく、触れた途端に12年間流れ続けたその血が止まり、彼女の方が完全に癒され、聖められてしまったのです。
その時の彼女の喜びは、どれほど大きなものだったことでしょうか。

このエピソードの中で表されているのは、単に病が癒されたという事なのではありません。
汚れたものに触れてしまったら全てが汚れてしまうはずなのに、それが私達の性質であり、法則であるはずなのに、イエス様の前にすべてが覆されてしまったという事なのです。
それは何者も神様を汚す事はできず、神様だけが罪を赦し、汚れを聖め、新しい力を授ける力をもっているということなのです。

③ 地の塩、世の光
もうひとつの事実を、私達は思い出さなければなりません。
それは、信仰を持つ私達には聖霊が与えられているという事、私達の内に神様ご自身が宿り、共にいて下さっているという事実です。

イエス様はこの様に言いました。

マタイ 5:13 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

本来の私達は、汚れに触れてしまったら簡単に汚染されて同じように汚されてしまうような存在でしかありません。
その様な肉の性質は、もちろん今でも私達の中に変わらず残っています。
しかし、私達の内にいて下さる聖霊は決してその汚れに汚染されることがありません。
だから肉としての私達が罪の影響を受けて汚され、堕落し始めても、私達はただ主の元に立ち返ればいいのです。

そして私達が主の愛に留まり続け、力を受けるとき、神様は私達を地の塩、世の光として用いてくださいます。
私達がその場にいる事によって、職場が変わる、学校が変わる、PTAが変わるという事が起こっていきます。
そして私達がいる所にこそ福音が伝えられ、人々が救いに導かれていくのです。

私達は自分自身が汚れることを恐れすぎて、ひきこもってしまってはいないでしょうか。
塩が必要なのは、塩がすでに十分にあるところのためではなく、塩気が足りないもののためのはずです。
光が必要なのは、すでに明かりがある場所にではなく、暗闇にこそ必要とされているはずです。
塩が塩としての役目を果たすために、光が光としての役割を果たすために、私達は人々の中に入っていこうではありませんか。
主は、私達を世の人々のために送り出しているのですから。

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