出エジプト 20:14 『主の花嫁として』 2007/10/14 松田健太郎牧師

出エジプト 20:14
20:14 姦淫してはならない。

西葛西国際キリスト教会の今年のテーマは、「クリスチャンとしての価値観を身につける」というテーマとしてお話ししてきています。
そういう事もあって、十戒に関してはザッと流してお話して終わりというのではなく、ひとつひとつの事をじっくりとお話ししてきていますね。
皆さんの心の中に、神様の思いは伝わっているでしょうか?
今日は、いよいよ7つ目の戒めとなります。

先週お話しした、“殺してはならない”という戒めは、なかなか自分の事として受け取る事ができない戒めだというお話をしました。
それに比べると、この“姦淫してはならない”という戒めは誰にとってもドキっとするというか、なかなか自信をもつ事ができない戒めなのではないでしょうか?

だからこそ、私達人間の心理としては、誰でもやっているんだし、それを罪だとは認めたくないと考え始めるのです。
「浮気なんて誰でもしているんだから仕方がない事なんだよ。」とか、「浮気くらい許してやるくらいの広い心を持ちなさい。」なんて言っているのをテレビで聞いた事があります。
「不倫は純愛だ。」なんて言った人もいましたね。

日本だけでなく、世界的に見てもその傾向はあります。
同性愛も、今では認めない人の方が悪者にされてしまいますね。
ある国では、聖書の中から同性愛を悪く言う箇所を削除してしまおうという働きまで起こっているそうです。

これほどまでに倫理が崩れていく事には、ひとつの原因があります。
それは、私達が罪悪感を持ちたくないという心理がここに働いているからです。
だから、罪のあるままでも良いことにして欲しい。

何度もしている話しかもしれませんが、この世の心理学、カウンセリングは、“罪悪感”が人の心を傷つけ、心の問題を引き起こしていると言います。
だから、「あなたがしていることは悪い事ではない。あなたに罪はない。自分が悪い事をしているという価値観自体があなたを苦しめているんだ。」と彼らは言います。
しかしその考え方は、罪そのものが私達を傷つけ、他人を傷つけるものであるという事実を完全に忘れてしまっていますね。

罪の意識が取り除かれれば確かに痛みは感じないかもしれませんが、罪は変わることなく私達を傷つけ続けます。
以前、ハンセン氏病という病気は痛みを感じない病気だと言うお話しをした覚えがありますが、痛みだけが取り除かれてしまったら、私達は際限なく自分を傷つけ続けてしまうものなのです。

聖書は、それが正しいことだとは言っていません。
今日は、姦淫をしてはならないという戒めを通して、本当の愛について共に考えみたいと思います。

① 姦淫とは何か
みなさん、姦淫とは何をさして言うのでしょうか?
どこからが姦淫になって、どこまでなら許されるのでしょう?

マタイによる福音書5:27,28で、イエス様はこのように言っています。

マタイ 5:27 『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:28 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。

あの優しいイエス様が、姦淫の事に関して語るとき、非常に厳しい判断で姦淫を定義しています。
私達が、情欲を抱いて異性を見るなら、それは姦淫を犯したのと同じだと言われたのです。
では、情欲とは一体何でしょうか?

情欲とは、性欲と同じではありません。
性欲は、食欲や睡眠欲と同じように人間にとって必要不可欠なものです。
それを通して、神様はたくさんの祝福を与えてくださいます。
世捨て人のように禁欲的になることが神様の求めている事ではありませんので安心してくださいね。
では情欲とは何なのかと言えば、私達が異性を人格としてではなく、自分の欲求を満たすための道具として見、モノとして扱う事です。

神様が、自らの似姿として創造した最高傑作が私達。
高価で尊い私達が、互いにその価値を下げあうような事をしてはならないのは、先週もお話したとおりです。
そして、自分を満足させるためのモノとして人を見るような価値観を持っていれば、それは相手との関係に直接影響してきてしまうものですね。
私達が、相手を人格としてではなくモノとして見ている時、私達は相手が自分を満たすことができなければ一緒にいる意味を感じる事ができません。
また、今の相手よりももっといい相手を見つけてしまったら、簡単に乗り換える事ができてしまうのです。
その関係の中にあるのは、相対的にしか見出す事のできない価値です。
私達は比較する事によって、その人個人の価値というものを引き下げる事になるのです。

だから姦淫という罪は、ただ単に自分の欲望がどうというだけの話なのではなく、お互いの存在価値を著しく傷つけ、貶める罪です。
それは相手を殺す事とほとんど何も変わらない。
多くの人が思っているよりも、ずっと重い罪なのです。

だからイエス様も、この罪を厳しく受け取っています。

マタイ 5:29 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。
5:30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。

② 姦淫の罪から離れるために
そんな事を言われても、自分にはムリだ。
けんたろさんは、結婚しているからいいだろうけど、あるいは幸せな結婚生活を送れているからそんな厳しい事も言えるだろうけど、自分はどうしてもこの罪を犯してしまう。
自分には我慢する事なんてできない。
と、言う方もおられるかもしれません。
その様な方のために、ふたつの事をお話ししておかなければなりません。

ひとつには、その罪をも、イエス様は十字架によって贖ってくださったという事です。
躓いた私達の右目の代わりに、罪を犯した私の右の手の代わりに、イエス様が十字架にかかって下さったのです。
本来なら、つまりイエス様の言うとおりにつまずいた部分を切り離していくなら、私達は誰も五体満足でいられないばかりでなく、それでもゲヘナに投げ入れられる事を免れないでしょう。
しかし、その罪の報いを、イエス様が引き受けてくださったのです。
私達はその恵を、心から感謝しなければなりません。

そして第二に、自分が罪を犯さないようにコントロールするだけの十分な力は、本当は私達に与えられているはずだという事です。
恋人もいないまま、多感な青年時代を過ごす辛さ、苦しさもイエス様はご存知です。
イエス様は人として生まれたのですから、もちろん性欲も持っていました。
誘惑も受けたでしょう。
しかしそれでもなお、イエス様は姦淫の罪を犯すことがなかったのです。

ではイエス様は、必死にご自分の性欲を押さえつけて、その誘惑に勝ったのでしょうか?
そうではありません。
イエス様がその誘惑に勝つことができたのは、イエス様は決して人の価値を引き下げて、道具やモノとして見ることがなかったからです。
イエス様はひとりの女性と接するとき、絶対的な価値をもつひとりの人格、ひとつの魂として接していたので、性を弄ぶなどという事は決してしなかった、できなかったのです。

殺してはならないという戒めを守るのと同じように、姦淫の罪を犯さないために必要なのは、相手を心から愛するという事です。
このイエス様が今、私達の心の内にも住んで下さっています。
私達が誘惑を感じるとき、私達は「この汚い性欲を取り除いてください。」とお祈りするのではなく、この様に祈ったら良いのではないでしょうか?
「神様、罪を犯す危険性もありますけれど、性の衝動を感じる事ができる素晴らしい心を与えてくださった事をありがとうございます。しかし主よ、この人が、私の欲望のために生きているのではない事をしっかり覚える事ができますように。私にも、この人にもそれぞれに大切な人生があるのですから、それに踏み込む事がありませんように。
私の心をあなたにおゆだねします。私の心を支配してください。」
私達にはできないことも、神様にはできるのです。

③ 私達はキリストの花嫁
さて最後に、肉体としての姦淫だけではなく霊的な姦淫という観点からもお話ししておかなければなりません。
聖書では、私達が神様の花嫁として描かれている所がたくさんあります。
雅歌のような、恋愛小説的なものまで聖書の中に含まれているのも、その様な観点から神様の愛が描かれているからですね。
その私達が、花婿である神様、イエス様の事を忘れて他のものを神としてしまったり、他の神様を崇めるとしたら、それは私達が神様に対して姦淫の罪を犯しているのだと聖書には書かれています。

Ⅱコリント 11:2 というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。
11:3 しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。

旧約聖書では、「わたしはねたむ神である。」という表記がありますね。
それを見て私達は、「神様がねたむなんて・・・。キリスト教の神様はなんて心が狭い神様なんだろう。」と思ったりした事はないでしょうか?

でも考えてみてください。
私達の妻が、夫が、あるいはもっとも愛してやまない人が自分以外の誰かを好きになったと言ったら、私達にとってそれはとても辛くて悲しい、身の裂けるような思いをするのではないでしょうか?

もし私達が、「いや、妻が別の人を愛すると言うなら、私は身を引きますよ。」と簡単にいう事ができるのなら、それは私達が妻を愛しているからではありません。
妻の事に無関心であり、自分を愛してくれなくてもいいとしか思っていないから、そんな事をいう事ができるのです。

アダムはエバを見て言いました。「これこそ、私の骨からの骨、私の肉からの肉」であると。
夫婦の関係とは、離されていたものがひとつに戻るのと同じくらい強いつながりを持つ事なのであって、それを簡単に引き裂く事はできないものであるはずなのです。

「わたしは、妬む神様である。」
それは、神様が私達を愛する愛が、私達の心がそれたときに妬みを持つほどに、本気の間という事を物語っています。

神様は、私達が他のものを神とする時、身を引き裂かれるような苦しみを味わいます。
私達を愛するのでなければ、神様がそんな苦しみを受ける必要などなかったでしょう。
しかし、愛する事とは弱さを持つ事です。
この世界を創造した完全無欠の神様が、私達のために弱さをもたれた。
それこそ、イエス様が十字架で経験された痛みであり、死の苦しみなのです。

旧約聖書に、ホセア書という書があります。
ホセアという人は、神様から姦淫の女をめとる様に言われ、ゴメルという女と結婚します。
このゴメルという人は、病的な浮気性だったようです。
しかし神様は、「夫に愛されていながら姦通している彼女を愛しなさい。」とホセアにいいます。
それは、神様に愛されていながら偶像崇拝を繰り返すイスラエルの人々を、そして現代に生きる私達を、神様が愛しておられるという事を示す、ひとつのしるしでした。

私達は、これまでの人生で創造主である神様を無視し、自分自身であったり、偶像の神であったり、他の価値観を神として崇め、従っていました。
それは、私達が知っていてであっても知らずにしたことだったとしても、私達を創造し、愛してくださった神様に対する裏切りであり、姦淫の罪です。

神様は、それを文字通り身の裂かれるような思いをもって受け止められたのです。
しかし、そんな痛みを与えた私達を、神様はなおも愛されるのです。
私達が主のもとに戻り、その愛を受け止めることを、神様は辛抱強く待っておられます。
今こそ、主のもとに立ち返るときではないでしょうか。
みなさんが、神様の花嫁として、素晴らしい愛を受け取る事ができるように心からお祈りします。

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