出エジプト 20:15 『主のものは主に』 2007/10/21 松田健太郎牧師
出エジプト 20:15
20:15 盗んではならない。
① 人の所有権を侵害する事
神様が「盗んではならない。」という律法を私達に与えたという事を通して知る事ができる、ひとつの真理があります。
それは、神様が私達に“所有すること”を認めてくださっているという事です。
私の物もあなたの物もなく、すべての人々がすべてのものを共有するというのが根底にあるのではなく、私たちひとりひとりにそれぞれの所有と言うものをお与えになっているという事ができます。
この所有権を不法に侵害する事を、聖書は禁じているのです。
“盗む”という行為は、社会的に見ても犯罪であり、罰せられる行いですね。
万引き、窃盗、恐喝、強盗、電車などの無賃乗車、脱税、詐欺、そういったものは全て法律で罰せられる犯罪行為です。
法律的には裁きを得る事が難しいかもしれないけれど、盗みに当たるような事は他にもあります。
例えば、長期借用。
これは“借りているだけ”という言葉を使ってごまかしている盗みであるという事ができるかもしれません。
また、テストのカンニングは、他人の努力や知識を盗む事だと言うことができるのではないでしょうか。
また、経営者が労働者に対して正当な賃金を払わない事も盗む事ですが、労働者が賃金に見合った仕事をしないで怠けるという事も罪になるでしょう。
もっともっと厳密に考えるなら、私達は知らないうちに罪を犯していることに気がつかされる事になるでしょう。
私達は、他の人たちの時間を盗んではいないでしょうか?
私達は、他の人たちのプライバシーを盗んでいないでしょうか?
私達はさまざまな形で、無意識のうちにも他人の所有権を侵害し、盗みの罪を働いているかもしれません。
そしてどんな形であっても私達が罪を犯すなら、その罪のための報いを受けなければならないのです。
ガラテヤ 6:7 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。
6:8 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。
6:9 善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。
でも、ここまでは法律や常識の範囲内のお話しです。
わざわざ日曜日に教会でお話ししなくても、普通に考えればわかることでしょう。
なのでここは、もう少し掘り下げて、教会でなくては話す事のできない部分を一緒に考えていきましょう。
② 神様の所有物を盗む事
私達が盗むのは、他の人たちからだけではありません。
むしろもっと深刻なのは、私達が神様から盗むという罪です。
マラキ 3:8 人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。
3:9 あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。
さて、ここは解説が必要なところでしょう。
皆さんは、十分の一献金と言う言葉を聞いた事があるでしょうか?
これは、収入の十分の一を献金として捧げるという事を意味しています。
この教会では特に声を大にして言う事はありませんが、教会によってはかなり厳しくこれを守るようにいう教会もありますね。
マラキ書では、この十分の一献金を捧げないことが、神様からものを盗む行為だと言っているのです。
しかし、ただ文字通り収入の十分の一を献金として捧げて自分は神様から盗んでいないと考えるのであれば、私達がやっている事はパリサイ派のユダヤ人たちとそれほど代わりはありませんね。
私達は、十分の一の奉納物を捧げる事の真意をよく考え、理解する必要があります。
まずは皆さん考えてみてください。
私達の神様は、私達がお金を差し上げたり、お供え物によって食べさせていかなければならないようなお方でしょうか?
神様は、この世界を創造した唯一絶対の神様です。
私達の側から何かをしてあげられる事なんて何もありません。
それどころか、私達が献金を捧げるという事を通して、神様にとって得になるような事なんて何ひとつないのです。
そう考えれば、十分の一献金というのは神様のために何かするという事なのではなくて、私達の側の問題なのだという事がわかるのではないでしょうか。
十分の一の奉納物が意味しているのはこれです。
私達が収入の十分の一献金をするという事は、私達が得た収入は全て神様によって与えられたものであり、神様から与えられる全てのものによって私達は生かされ、収入を得る事ができたという信仰告白であり、感謝を捧げるという事を意味しているのです。
私達は自分が努力し、自分の努力によって、自分が汗水を流して全てのものを手に入れてきたのだと考えてしまいます。
確かに、私達が働いた報酬として給料を得たという事はできるでしょう。
しかし、そのために必要な健康、仕事、仕事をするための才能や能力、働きたいという意欲は、自分だけで勝ち取る事ができるものではありません。
神様が与え、支え、導くことなしには手に入れる事ができないものなのではないでしょうか。
詩篇 50:7 「聞け。わが民よ。わたしは語ろう。
イスラエルよ。わたしはあなたを戒めよう。わたしは神、あなたの神である。
50:8 いけにえのことで、あなたを責めるのではない。
あなたの全焼のいけにえは、いつも、わたしの前にある。
50:9 わたしは、あなたの家から、若い雄牛を取り上げはしない。
あなたの囲いから、雄やぎをも。
50:10 森のすべての獣は、わたしのもの、千の丘の家畜らも。
50:11 わたしは、山の鳥も残らず知っている。野に群がるものもわたしのものだ。
50:12 わたしはたとい飢えても、あなたに告げない。
世界とそれに満ちるものはわたしのものだから。
50:13 わたしが雄牛の肉を食べ、雄やぎの血を飲むだろうか。
50:14 感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。
世界と、それに満ちるすべてのものは神様のものです。
私達は所有を許されているだけに過ぎません。
それは、むしろ神様からお借りしているという事です。
もし私達が所有を許されているものを、自分の力で勝ち取った自分のものだとしか考えないのなら、私達は神様から盗んでいるのです。
私達が自分のものと思っているものはすべて、神様のものです。
私の時間、私の財産、私の才能、私の人生、私のいのちと思っているものは、全て神様が私達に与えてくださった時間であり、財産であり、才能であり、人生であり、いのちです。
それだけでなく、私達自身が本来神様のものなのだという事なのです。
人々がイエス様に、税金を払うか否かと問いかけたとき、イエスさまは言いました。
「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして、神のものは神に返しなさい。」と言われました。
私達は神様から与えられたものを、神様に返しているでしょうか?
自分の所有物として自分勝手に使うのではなく、神様の目的、神様の計画を第一として考えているでしょうか?
私達が神様を第一に求め続けるなら、必ず他のものは神様によって与えられ、満たされるのです。
聖書にこの様に書かれている通りです。
マタイ 6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
③ 人を盗む
聖書にはもうひとつ、大きさの違う量りで商売する不正を盗みであると定義し、厳しく罰しています。
レビ記の中で、十戒ととてもよく似た形で律法を紹介している箇所がありますので少しみてみましょう。
そこではこの様に戒められています。
レビ 19:35 あなたがたはさばきにおいても、ものさしにおいても、はかりにおいても、分量においても、不正をしてはならない。
19:36 正しいてんびん、正しい重り石、正しいエパ、正しいヒンを使わなければならない。わたしは、あなたがたをエジプトの地から連れ出した、あなたがたの神、主である。
私達は、自分や人を、間違ったものさしで量ってはいないでしょうか?
私達が用いるべきは、他人と比較する事によって判断する相対的なものさしではありません。
私達が用いるべきは、自分勝手に作った自分中心の価値基準の秤ではありません。
神様が定め、神様が用いる物差しと秤によって、私達はお互いを量るべきではないでしょうか。
マルコ 4:24 また彼らに言われた。「聞いていることによく注意しなさい。あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。
私達はひとり残らず罪人であって、神様の創造を汚した無価値な存在です。
しかし神様の秤によって私達が量られるとき、私達はみんな「高価で尊い」存在となるのです。
私達はひとりひとりがあまりにも高価で尊いので、神様がひとり子と引き換えにしても私達の魂を救いたいと思うほど、私達を愛してくださっているのです。
私達は自分自身を、高価で尊い存在とする物差しを用いて量っているでしょうか?
自分の家族を、友達を、そして私達の敵を、神様の物差しによって量っているでしょうか?
もしそうでないなら、私達は人の価値を間違った物差しで量っているのです。
そしてそれは、神様の前に不正を犯し、人の価値を盗む行為に他なりません。
最後に、何度も読んでいる箇所ですが、いつでも胸に刻みつけておくことができるようにイザヤ書の43章をもう一度読んで今日のメッセージを終わりたいと思います。
イザヤ 43:1 だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。
43:2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。
43:3 わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。
43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。