出エジプト20:4-6 『神様のかたち』 2007/09/02 松田健太郎牧師

出エジプト 20:4~6
20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

今日は、先週に引き続き十戒ですね。
今日は第2戒となる“偶像を造ってはならない。”という戒めです。

私達の生きる日本と言う国は、偶像に溢れた国ですね。
少し下町に入れば、お地蔵さんやお稲荷さんがあります。
お寺や神社もものすごく多いですね。
日本の多くの家には、仏壇や神棚があります。
皆さんの家にも、あるかもしれません。
そんな環境で生き、育ってきた私たちですから、偶像に囲まれて生活する事も当たり前のことだと思います。
だからこそ、この第2戒の内容が不可解だったり、その厳しさに驚いたりするのではないでしょうか。

あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。(20:5~6)
とまで言うのですから、神様もそうとうな嫌い様です。

偶像に適用されるものを並べ上げ、これらのものは全て捨て去るべきですと言うのが教会の常套手段だったりしますが、ただ禁止されても意味がわからないし納得のいくものではありません。
今日はこの箇所を通して、どうして神様が偶像というものを忌み嫌っているのかという事をともに学んでいきましょう。

① 人の尊厳の損失(木石を拝む)
まず第一に、偶像を崇拝することは、人間の尊厳を汚す事なのだと言ったら、皆さんは首を傾げるかもしれません。

日本という国は自然を崇拝するアミニズム的信仰をもった国民性ですから、私たちを取り囲む自然をカミとして崇める事も当然の事としてきました。
現代でも本やテレビを観ていれば、自然崇拝がもたらした日本文化の素晴らしさ、そしてそれを失った事が日本にとって大きな損失だったと語られています。

創造主である神様を知らない方たちにとっては、神様が創った自然を見て心を打たれ、そこに畏敬の念を見出したり、自然を神様として崇拝するのも当然なのかもしれません。
でも、創造主がいない世界は別の問題を生み出します。
もし私たちを創造した神様がいないのであれば、私達の人生は自然の中から偶然発生したというだけのものであって、私達の命には大した意味もないかもしれません。
神様がいたとしても、私達が自然の一部として創造されたのなら同じ事でしょう。
しかし、神様は人間を自然の一部として創造したのではなく、人間が生きる環境として自然を創ったのです。

聖書は木や石を崇める人々の愚かさをこの様に描写しています。

イザヤ 44:14 彼は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。また、月桂樹を植えると、大雨が育てる。
44:15 それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。
44:16 その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった。』と言う。
44:17 その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから。』と言う。
44:18 彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない。

神様の似姿として創られ、自然を支配し守るために創られた私達が木や石に頭を下げる。
まるで私達が木や石以下の存在であるかのようにです。
しかし私達は、木や石よりもずっと高いものとして創られたと聖書には書かれています。

詩篇 8:5 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
8:6 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。
8:7 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、
8:8 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。
8:9 私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。

私達は、神様に似せて、全ての被造物の頂点に立つ存在として創造されました。
人が自然を支配する存在だからといって好き勝手にして良いという事ではもちろんありません。
自然に対して尊敬を払い、私達が責任を持って守っていくという事は大切な事ですが、それを神として拝むという事はまったく別の事ですね。

神様が偶像崇拝を悲しむのは、偶像を拝むという事が私達の尊厳を蝕む行為だからです。
また、私達が全ての責任を放棄する事でもあるからです。
私達は、造られた物に自分の人生を預けるような事をしてはなりません。
私達は物ではなく、もっと素晴らしく、価値あるものとして造られたのだからです。

② 神様への侮辱
少し別の話をしましょう。
海外に行くと、自分が日本人だという事を思い出させられる機会がたくさんありますね。
日本人である事を誇りに思える事もありますが、必ずしもよい印象でない時もあります。
国によって日本人に対する評価は様々でしょうが、日本人だからと言うだけでお金を巻き上げられそうになったり、少女売春を喜ぶと思われるのはとても不愉快です。

私達は、何でも型にはめて決め付けるという傾向があります。
日本人ならこういう人たちに違いない。
アメリカン人なら、韓国人なら、台湾人なら、ニュージーランド人なら、ボリビア人なら、というステレオタイプで人を見てしまう。
国籍だけでなく、宗教や、性別、世代、人種、あらゆる分別方法が偏見を生み出し、本当のその人を見る事ができなくしてしまいます。

私達は、神様に対しても同じ事をしてしまうのです。
『神様はこのような存在である』という事を決め付けてしまえば、何だか安心できるような気がしてしまう。
そしてその型は、自分にとって都合のいい形だけになってしまっていて、本当の神様を見失わせてしまうのです。

これが、偶像崇拝のもうひとつの面です。
私達は神様をひとりの人格的存在として認識できているでしょうか?
自分たちの勝手な解釈で、神様を決め付けてしまってはいないでしょうか?

神様には、優しさもあれば厳しさもあります。
愛情にあふれていると同時に、怒りや悲しみも持っている方です。
全知全能でありながら、私達のために限界のある私達と同じ目線にも立ってくださった方です。

私達が神様によって形を与えられたのであり、私達が神様に形を与える事などできません。
偶像は、私達が神様に対するイメージをその像の中に閉じ込めてしまう事になります。
しかし、人知を越えた神様の深さ、広さ、長さを、どうして形として表す事ができるでしょうか。
それは神様を侮辱する事にしかならなりません。
私達は、神様が時には私達の認識の限界を超えた存在でもあるという事を忘れてはならないのです。

Ⅰコリント 2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

ヨハネ 4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

神様は形によってではなく、御霊によってしかわきまえることができず、霊とまことによって礼拝されなければならないのです。

③ 神様のかたちを知る
それでは、神様とは結局私たちには捕らえがたく、理解する事が出来ないほどに遠い存在なのだということでしょうか?
確かに、神様の本質は私達の理解を超えているということはできるかもしれません。
しかし、そのままで終わらないのが神様でもあるのです。

私達に形を与えたのが神様なのであって、私達が神様に形を与える事ができないのは先ほど言った通りですが、神様にはご自身に形を与える事ができるのです。
もちろん、神様の側にそんな事をする必要はまったくありません。
形あるものは壊れるといわれるように、形があるということは限界をもつという事でもあります。
それは、永遠の存在である神様に似つかわしいものではありません。

しかし神様は、私達のために限界のある存在となり、私達に神様を知る事ができるようにして下さったのです。
見えない神様の形、それこそがイエス・キリストです。

コロサイ 1:15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。

ヨハネ 14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
14:7 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」

私達は、イエス様の生涯を通して、神様が私達をどの様に想い、愛し、何を好まれ、何を忌み嫌われるのかを知る事ができます。
神様はご自身の存在を、私達が理解できるように私達の目線に立って教えてくれたのです。

それだけではありません。
主は自らの命を用いて、私達の罪を買い取るために、十字架にかかってくださったのです。
そこに、神様の愛の深さがあります。
神様がこの様にして、その全存在をかけて私達への愛を表してくださっているのに、私達がどうしてそれを無視して、自分たちの勝手なイメージで神様を作る必要があるでしょうか?

その愛が深すぎて、私達がなかなか神様の意図を理解できないという事もあるかもしれません。
全知の賢さを持った方がこの様な愚かとも思える事をするのは私達の理解を超えていますし、全能の力を持った方がわざわざ弱さを持つなどという事は考えにくい事だからです。

それを皆さんに理解させてあげる事は、僕がどれだけ努力してもムリな事です。
自分自身の知恵や知識によっては、神様を理解する事ができないのですから。

皆さんが聖霊によって全ての事をただ受け入れ、神様から与えられた知恵によって神様の愛を知る事ができますように、心からお祈りします。

最後に、パウロが手紙の中で人々に伝えた事、そして何よりも神様ご自身が私達全ての人に願っているだろう箇所をお読みして今日のメッセージを終わりたいと思います。

エペソ 3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

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