出エジプト25:8-22 『主がともにいるところ』 2007/12/02 松田健太郎牧師
出エジプト記 25:8~22
25:8 彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。
25:9 幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたしがあなたに示すのと全く同じように作らなければならない。
25:10 アカシヤ材の箱を作らなければならない。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半、高さは一キュビト半。
25:11 これに純金をかぶせる。それは、その内側と外側とにかぶせなければならない。その回りには金の飾り縁を作る。
25:12 箱のために、四つの金の環を鋳造し、それをその四隅の基部に取りつける。一方の側に二つの環を、他の側にほかの二つの環を取りつける。
25:13 アカシヤ材で棒を作り、それを金でかぶせる。
25:14 その棒は、箱をかつぐために、箱の両側にある環に通す。
25:15 棒は箱の環に差し込んだままにしなければならない。抜いてはならない。
25:16 わたしが与えるさとしをその箱に納める。
25:17 また、純金の『贖いのふた』を作る。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半。
25:18 槌で打って作った二つの金のケルビムを『贖いのふた』の両端に作る。
25:19 一つのケルブは一方の端に、他のケルブは他方の端に作る。ケルビムを『贖いのふた』の一部としてそれの両端に作らなければならない。
25:20 ケルビムは翼を上のほうに伸べ広げ、その翼で『贖いのふた』をおおうようにする。互いに向かい合って、ケルビムの顔が『贖いのふた』に向かうようにしなければならない。
25:21 その『贖いのふた』を箱の上に載せる。箱の中には、わたしが与えるさとしを納めなければならない。
25:22 わたしはそこであなたと会見し、その『贖いのふた』の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう。
今日は、いきなりインディー・ジョーンズという26年前に公開された映画のシーンからメッセージを始めさせていただきました。
これは第一作目、『レイダース~失われた聖櫃(アーク)』からのシーンですね。
実はこの映画に出ていた、最後にナチスの兵士達を殺してしまう恐ろしい箱こそ、今日読んでいただいた聖書箇所に書かれている、あかしの箱なのです。
この箱は色々な名前で訳されたり呼ばれたりしていますね。
この聖書箇所では“あかしの箱”と呼ばれていますが、他の訳では“掟の箱”また他の箇所では“契約の箱”とも呼ばれています。
また、映画の中ではアークという言葉が使われ、“聖櫃”と訳されていましたが、このアークという言葉は単に“箱”を意味しています。
ノアの箱舟も、英語では“Noah’s Ark”と呼ぶという話を、創世記の学びの中ではしましたね。
さて、この“契約の箱”と呼ばれる聖櫃は、映画の中では恐ろしい殺傷力を持った兵器のような存在として描かれていました。
聖書の中にもこの契約の箱によって人が死んでしまう事件が何度か起こっています。
サムエル記の中では、イスラエルがペリシテ人との戦いの中で、契約の箱を兵器のようにして使おうとしていますし、ダビデの時代にも、不用意に契約の箱に触れてしまった人々が死んでしまっています。
この箱は神様の命じるままにモーセが作った(正確にはベツァルエルに作らせた)ものでしたが、どうしてこの様な恐ろしいものを神様は作らせたのでしょうか?
そもそも、この契約の箱とは、一体なんなのでしょうか?
今日はこの契約の箱に焦点を当てて、神様の恵みを共に味わっていきたいと思います。
① 人を殺す力
さて、この契約の箱を開けると人が死んでしまうのはどうしてでしょうか?
皆さんは、何の力によって人が死んでしまうと思いますか?
映画の中で描かれているのを見ていると、まるで契約の箱が絶対に開けてはならないというパンドラの箱と同じように、開けてしまうや否や中から悪霊と言うか、魑魅魍魎のようなものが次から次へと出てきて人を殺してしまいますが、そういうものではありません。
これは、映画ならではの描写ですね。
この契約の箱の中に入っているのは、人を殺す悪しき存在などではありません。
そうではなく、契約の箱の中には、3つのものが入れられました。
ひとつは、これまでメッセージの中で学んできた、十戒が刻んである2枚の石の板です。
そして、マナという天からのパンが入った金の壷。
それともうひとつは、モーセの兄アロンが持っていたアーモンドの木で作った杖です。
この中のいったい何があれほどの殺傷力を持っていたのだと、皆さんは思いますか?
実は、十戒を刻んだ石の板、つまり律法がその力の源となっているのです。
私達は、罪によって死が人の中に入ったということを創世記の中で学びました。
だとすれば、律法というのは私達を罪から引き離すものなのではないかと、私達は考えるのではないでしょうか。
ところが、誰も完全に実行する事ができないのが律法というものなのです。
律法によってむしろ明らかにされるのは、神様の基準の高さ、そして私達の罪の深さです。
そして、神様の顔を見たものがその聖なる存在の前に生きていることができないのと同じように、律法に触れた者も、その聖さの前に誰も生きていることができないのです。
新約聖書の手紙の中で、パウロがこの様に書いています。
ガラテヤ 3:10 律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」
私達は律法を守りきる事ができないのですから、私たちすべてが呪われた者ということになります。
結局のところ、律法の役目とは私達を罪から引き離して救うことにあるのではなく、罪の所在を明らかにするためにこそあるという事なのです。
② 神様の贖い
さて神様は、十戒を記した2枚の石板を契約の箱の中に入れさせました。
そして、その箱のための蓋を作らせたのです。
この、蓋の名前に注目してください。
契約の箱にかぶせられる蓋を、神様は“贖いの蓋”と呼びました。
“贖う”という言葉は、借金の返済を肩代わりするという意味ですね。
そして、「イエス様が私達の罪を贖った。」というのと同じ言葉なのです。
それでは、いったい何を贖うのですか?
もちろん、私達が律法を守り切ることができないという罪を贖うのです。
それではどういうことになりますか?
もう一度最初から考えて見ましょう。
すべての人に罪があり、その罪の結果、私達は死すべき存在となりました。
そして神様に与えられた律法によって、その罪が明らかにされます。
誰にもまっとうする事ができない律法は、神様の義、正しさと聖さを表しています。
罪によって汚れてしまった私たちは、神様の正しさと聖さの前に存在することができないので、律法によって明らかにされた神様の義は、私たちに死を与えることになります。
しかし神様は、私達が律法を完全に守ることなどできないことをちゃんと知っていました。
だから私たちに死と呪いをもたらす律法を与えるのと同時に、その死の力を“贖いのふた”によって覆ってしまったのです。
そして、律法が贖いによって覆われている限りは、私達は律法によって罪が明らかにされて死ぬということはないというのです。
何だか意味がわかりにくいかもしれませんが、ここに象徴されている事を、パウロは短く一言でまとめています。
ローマ 3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
よく耳にするのは、「旧約聖書は何だか“ああしなさい”とか“こうしなさい”とか決まり事ばかりで厳しい。新約聖書ではそこに赦しがあるので、新約聖書を読むと安心する。」というような話しを聞くんです。
でも、当たり前のことですが、旧約聖書の神様も、新約聖書の神様も同じ神様ですよね。
実は神様が言っていることは、最初から何も変わっていません。
確かに旧約聖書では、神様の正しさ、聖さ、義というものに多く焦点が当てられていますが、そこにはちゃんと神様の愛、罪の贖い、赦し、恵み、福音というものが描かれているのです。
神様は確かに厳しい律法を私たちに与えましたが、それは私たちを型にはめて矯正するためではありません。
律法を通して、私たちが自分の不完全さと罪に気づき、神様の御前に出て赦しを受け取り、神様との愛の関係を築くことができるように与えられたものなのです。
だから私たちは、神様から値なしに与えられる愛と恵みを、心から感謝して受け取ろうではありませんか。
③ 主の臨在
さて、この契約の箱の中ではいろいろな事が表されていて、その全てを一度に取り上げると本当に大変です。
なので幕屋や神殿に関する事や儀式的な事は、別の機会にとっておきたいと思います。
今はもうひとつの事だけをお話して、今日のメッセージを終わりましょう。
先ほどお話しした贖いの蓋の上には、図で見るように黄 金で造られたふたつのケルビムが向き合う形で置かれていました。
ケルビムというのは、いわゆる天使の事ですね。
ちなみにケルビムというのは複数形の呼び方で、ひとつだけを指す時はケルブと言います。
さて、神様はモーセにこの様に語っています。
25:22 わたしはそこであなたと会見し、その『贖いのふた』の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう。
贖いのふたの上に置かれたふたつのケルビムの間に、神様はいると言うのです。
この契約の箱は作られた後、幕屋や神殿の中の、至聖所と呼ばれるもっとも神聖な場所に置かれる事になります。
そして、神様がそこにいるとおっしゃられた事を証明するように、このふたつのケルビムの翼の間には、いつでも煙のような、不思議な輝きが覆っていたと聖書には描かれています。
イスラエルの人々がエジプトを脱出した後、雲の柱と炎の柱がイスラエルの民を導いたという話しを覚えているでしょうか?
このケルビムの輝きは、雲の柱、炎の柱と同じように、神様の臨在を表す光です。
これを専門的な用語で、シェキーナとか、シャカイナグローリーという呼び方をします。
近々、幕屋の事をお話している中川健一先生のビデオを、礼拝の中で見る機会を持ちますが、その時にも出てくる言葉なので、覚えておくといいでしょう。
ただですね、この部分でひとつの疑問が湧いてはこないでしょうか?
神様は遍在、つまりどこにでもおられるのが神様の特長だったのではないでしょうか?
その神様が、ケルビムの翼の間という限定された場所に“いる”というのは、何だか大きな矛盾があるような気がしませんか。
それともそんな疑問を持つのは、僕がひねくれているからでしょうか?
神様が遍在のお方であるという事と、神様がひとつの場所に臨在されるという事が同時に起こりうるという不思議な状況は、限られた存在である私たちの理解の範囲を超えています。
ただひとつ、それが私たちにとってどういう事を意味しているのかは、私たちには理解できる部分なのではないでしょうか?
私たちは誰かに、「みんな、大好きだよ~。」と言われるよりも、「あなたの事が大好きです。」と言われた方がずっと嬉しいのです。
全ての場所に存在することができる神様が、いま私たちと共に、ここにいてくださっているという事、それを目の当たりにする機会が与えられている事、イスラエルの人々にとってそれほど心強く、嬉しいことはなかったのではないでしょうか?
それはもちろん、私たちにとっても無関係な事ではありません。
今日からアドヴェントですが、クリスマスは、主が私たちと共におられるという事をもっとも分かりやすい形で表してくださった事を祝うお祭りです。
神様の臨在の究極の形、それがイエス様ですね。
そして更に、聖霊という形を取って、神様は私たちの内に来てくださったのです。
私達ひとりひとりという神殿として、そのもっとも中心に、主が臨在の光を伴っていてくださいます。
それは、どこにでもおられる神様が、いま私たちを選び、私たちの内にいて下さるという事を意味しているのです。
契約の箱の中に律法が収められ、贖いのふたで覆われたように、私たちの内にも律法と罪の力がイエス・キリストの贖いによって覆われています。
神殿の中心が、いつも主の臨在の輝きで溢れていたように、私たちの内にも主の輝きが満ち満ちています。
イスラエルの民を、主の無条件の愛が包んだように、私たちの心を神様の愛が包んでくださいます。
主が共にいるところ、そこにはいつも希望があり、喜びがあり、幸いがあります。
皆さんの内に、主の臨在を感じる事はできるでしょうか?
今日は聖餐式の日ですが、聖餐式に入る前に心の内の主の臨在を感じながら、心休まる時間をもちたいと思います。