出エジプト4:1-16 『私にはできません』 2007/05/13 松田健太郎牧師
出エジプト 4:1~16
4:1 モーセは答えて申し上げた。「ですが、彼らは私を信ぜず、また私の声に耳を傾けないでしょう。『主はあなたに現われなかった。』と言うでしょうから。」
4:2 主は彼に仰せられた。「あなたの手にあるそれは何か。」彼は答えた。「杖です。」
4:3 すると仰せられた。「それを地に投げよ。」彼がそれを地に投げると、杖は蛇になった。モーセはそれから身を引いた。
4:4 主はまた、モーセに仰せられた。「手を伸ばして、その尾をつかめ。」彼が手を伸ばしてそれを握ったとき、それは手の中で杖になった。
4:5 「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現われたことを、彼らが信じるためである。」
4:6 主はなおまた、彼に仰せられた。「手をふところに入れよ。」彼は手をふところに入れた。そして、出した。なんと、彼の手は、らいに冒されて雪のようであった。
4:7 また、主は仰せられた。「あなたの手をもう一度ふところに入れよ。」そこで彼はもう一度手をふところに入れた。そして、ふところから出した。なんと、それは再び彼の肉のようになっていた。
4:8 「たとい彼らがあなたを信ぜず、また初めのしるしの声に聞き従わなくても、後のしるしの声は信じるであろう。
4:9 もしも彼らがこの二つのしるしをも信ぜず、あなたの声にも聞き従わないなら、ナイルから水を汲んで、それをかわいた土に注がなければならない。あなたがナイルから汲んだその水は、かわいた土の上で血となる。」
4:10 モーセは主に申し上げた。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」
4:11 主は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、耳しいにしたり、あるいは、目をあけたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。
4:12 さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」
4:13 すると申し上げた。「ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください。」
4:14 すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう仰せられた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼がよく話すことを知っている。今、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぼう。
4:15 あなたが彼に語り、その口にことばを置くなら、わたしはあなたの口とともにあり、彼の口とともにあって、あなたがたのなすべきことを教えよう。
4:16 彼があなたに代わって民に語るなら、彼はあなたの口の代わりとなり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。
ニューヨークのブロード・ウェイでは、多くの役者達が主役の座を狙って待ち構えています。
彼らにとってチャンスは何の前触れもなく、突然きます。
主役の役者が体調を崩して出演できなくなると、同じ役を演じる事ができる人から代役を立てるんですね。
それが滅多にない、自分を見せるチャンスなのです。
そのチャンスをモノにできなければ、その役者はそれだけの役者だったということになります。
ましてや、その話を断ったりしようものなら、その役者に2度と声はかかりません。
だからいつでも、主役の代役ができるように彼らは必死に練習するのです。
私達の環境には、なかなかそういう場面はありませんね。
むしろ、頼まれた事を何でもかんでも引き受けてしまって自分の首を絞めるようなことは避けるべきですし、できもしない事を引き受けるのは、相手にとっても迷惑になります。
「私にはできません。」と応える事も必要ですね。
では、神様との関係においてはどうでしょうか?
神様がしなさいと言う事に対して、私たちはどの様な態度で応えるでしょう?
これこそチャンスだと捉えて、飛びつくでしょうか?
それとも、「いえいえ、私なんてダメです。私には無理です。私にはできません。」と、逃げ出してしまうでしょうか。
今日は、もっとも謙遜な人と呼ばれたモーセの生涯を通して、私達の神様との関係を考えていきたいと思います。
① 奇跡と励まし
少し先週の復習をしておきたいのですが、神様は自信をなくしたモーセに5つの特徴をお見せになったのでしたね。
① 神聖なる神
② 憐れみ深い神
③ 遣わす神
④ 臨在の神
⑤ 永遠の神 の5つです。
この世界を創造した神聖なる神様は、憐れみをもって私たちに臨み、その永遠なる神様が私たちを人々に遣わしているのだということでした。
僕なんかは、神様が私たちと共に永遠にいてくださるのだと言う事にとても励まされたのですが、皆さんはどうだったでしょうか?
モーセはというと、神様がこれほどの約束を示してくださり、励ましてくださっているにも関わらず、彼の神様に対する反応はまだまだ否定的なものでした。
まぁ、ある程度無理もない部分もあったのも確かです。
モーセがかつてエジプトを去った時には、いつか神様が用いてくださるという確信をもってミデヤンの地に逃れたはずでしたが、それから40年もの月日が経っていました。
40年間もその情熱を維持できる人などそうそういるはずもありません。
そして彼には、昔のトラウマがありました。
同胞イスラエルのためを思ってやった事を誰一人理解してくれず、「誰があなたに頼んだのか」と言われて孤立してしまったのです。
だから今回も、同じ事が起こるのではないか、そんな不安が彼をネガティブにしていたのかもしれません。
4:1 モーセは答えて申し上げた。「ですが、彼らは私を信ぜず、また私の声に耳を傾けないでしょう。『主はあなたに現われなかった。』と言うでしょうから。」
今のモーセには、40年前にあったような若さも、体力も、自信も情熱もありません。
そこで神様は、神様が共にいる事を表わす奇跡的なしるしを、モーセに与えました。
4:2 主は彼に仰せられた。「あなたの手にあるそれは何か。」彼は答えた。「杖です。」
4:3 すると仰せられた。「それを地に投げよ。」彼がそれを地に投げると、杖は蛇になった。モーセはそれから身を引いた。
4:4 主はまた、モーセに仰せられた。「手を伸ばして、その尾をつかめ。」彼が手を伸ばしてそれを握ったとき、それは手の中で杖になった。
4:5 「これは、彼らの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現われたことを、彼らが信じるためである。」
4:6 主はなおまた、彼に仰せられた。「手をふところに入れよ。」彼は手をふところに入れた。そして、出した。なんと、彼の手は、らいに冒されて雪のようであった。
4:7 また、主は仰せられた。「あなたの手をもう一度ふところに入れよ。」そこで彼はもう一度手をふところに入れた。そして、ふところから出した。なんと、それは再び彼の肉のようになっていた。
最初のしるしに出てくる蛇は、エジプトを現していました。
つまり、敵エジプトは神様の思いのままだということを象徴した奇跡だったのです。
そしてもうひとつの、手が皮膚病に侵されて元に戻るというしるしは、奴隷状態にあるイスラエルが開放される事が象徴されていました。
そしてこのふたつのしるしを見ても人々が信じないなら、エジプトの土壌を育み、すべての生命を生かしている、ナイル河の水を血に変えると神様は約束されました。
この3つの奇跡は、私たちにとっては何だか奇妙な、手品や魔術のような出来事に感じますが、すべてエジプトに住むものにとって大きな意味を持つ、文化的、象徴的な奇跡でした。
この様な数々の奇跡を通して、神様はモーセを後押しし、恐れを拭い去ろうとしてくださったのです。
② モーセの不信
しかしそれでも、モーセの思いは変わりませんでした。
4:10 モーセは主に申し上げた。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」
何だか色々な言い訳をするわけをして、「自分には無理です。できません。」と、モーセは言い張るわけですね。
実は、私たちも、この様な事をしてはいないでしょうか?
神様に何かをするように示されていたり、導かれているのに、「私には無理です。できません。」と決め付けて逃げてしまっている事があるのではないかと思うのです。
それは、誰かに福音を伝えるという事かもしれません。
あるいは、誰か愛しにくい人を愛するという事だったり、赦すという事かもしれません。
何かの罪から離れる事や、何かを手放して神様に捧げるという事なのかもしれません。
そんな時に私たちは、何かと理由をつけて言い訳をし、自分にはそれができないと決め付けてしまうのです。
神様は、モーセにこの様に言っています。
4:11 主は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、耳しいにしたり、あるいは、目をあけたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。
4:12 さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」
私たちを創ったのは、神様です。
私達が持っている全てのものは神様によって与えられているのです。
他の誰かの言う事であれば、私達の能力がどの程度なのかとか、限界がどこにあるのかなんてわからないわけですから、私達が自分自身で境界線を引き、できるかできないかを決めて相手に伝えなければなりません。
しかし、それが神様の言う事なのであれば、神様は私たちに耐えられない試練を与えられるような方ではありませんから、私たちは神様を信頼して、従えば良いのです。
また、どう考えても不可能だというような時であっても、神様が力を貸してくださると保障しているのですから、私たちはやはり安心して従えばいいのです。
しかし私たちは、今の自分の力だけを見て、全てを決め付けてしまおうとします。
「私は口下手で、うまくお話なんてできませんから、人前で話すなんて無理です。」
それがモーセのいい訳だったわけですね。
私達の言い訳はなんでしょうか?
「こんな仕事しかできない私には、無理です。」
「こんな性格の私には、できません。」
「こんな年齢ですから、もうだめです。」
私達がどういう人間なのかという事も、私達が過去に受けた心の傷も、神様はすべてご存知です。
それがわかった上で、私たちができないと思うようなことを神様が命じたとしても、それは私たちを苦しめるためではありません。
私たちに祝福を与えるためなのです。
天使ガブリエルが、処女マリヤのもとに現れて、キリストの母となる事が伝えられた時、マリヤがどの様に応えたか、皆さんは覚えているでしょうか?
「私がキリストの母になるなんて、無理です。」と、マリアは応えたでしょうか。
ルカ 1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。
「私は、ダメな人間ですからキリストの母になんてなれません。」ではなく、
「私にはできません。でも、神様がそうおっしゃるのなら、そのようにして下さい。」それがマリヤの信仰であり、聖書の言う本当の意味での謙遜というものなのです。
そしてマリヤは、その謙遜さゆえに、キリストの母となる祝福を与えられたのです。
③ 本当の謙遜
皆さんは、そのようなへりくだった、謙遜な心と、信仰をもっているでしょうか?
神様の命じた事に対して、「私にはできません。他の人を探してください。」ではなく、「私にはできません。しかし、神様によってそれが私の上に可能となります。」と答えられているでしょうか?
今の私達には、なかなかそうは答えられないというのが現実かもしれません。
でも、安心してください。
モーセは生けるものの中でもっとも謙遜だったと聖書の中で言われていますが、最初からそうだったわけではありません。
この時モーセは、最後まで神様に逆らい続けたのです。
4:13 すると申し上げた。「ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください。」
4:14 すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう仰せられた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼がよく話すことを知っている。今、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぼう。
モーセも、最初は私たちと大して変わりませんでした。
主の怒りを燃え上がらせてしまうほど、モーセの信仰は弱く、傲慢でもありました。
しかしだからと言って、神様はモーセを見捨ててしまうのではなく、モーセに機会を与え続けました。
また、モーセの人生の中で神様はモーセを訓練し続け、その深い関係と、交わりを通して、モーセは変えられていきました。
出エジプト 33:11a 主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。
そしてモーセは、神様に問いかける時にはこのような言い方をしています。
33:12 さて、モーセは主に申し上げた。「ご覧ください。あなたは私に、『この民を連れて上れ。』と仰せになります。しかし、だれを私といっしょに遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身で、『わたしは、あなたを名ざして選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている。』と仰せになりました。
33:13 今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう。この国民があなたの民であることをお心に留めてください。」
昔のモーセであれば、「神様はこの民を連れて上れとおっしゃいましたけれど、どこに行けとも教えてくれないじゃありませんか。」と、文句を言っていたかもしれません。
しかし最後には、神様の御心を第一に求める事ができるほどに、モーセの信仰は成長していったのです。
私達が神様を知り、本当の交わりを持っていく時、私たちは必ず、神様に信頼を置くことができるように成長させられていくはずです。
そして、そのように私達の信仰が成長させられていくなら、神様から与えられる全ての事を、苦しみとしてではなく、祝福として受け取る事ができるようになるのです。
皆さんが、その様な喜びにあずかることができますように。