出エジプト記20:12 『自分を愛し、他人を愛するために』 2007/09/23 松田健太郎牧師
出エジプト 20:12
20:12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。
今日でいよいよ、十戒の学びも折り返し地点となりました。
こうして見てみると、十戒の最初の4つに関しては、私達と神様との関係における戒めだったことがわかります。
そして第5戒から先の6つは、人との関係における戒めですね。
十戒は、それ自体が律法を十の項目にまとめたものとなっていますが、イエス様はさらにこれをふたつの戒めとしてまとめました。
マタイ 22:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
22:38 これがたいせつな第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
22:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
そう考えてみると、十戒というのはただ単に戒律として、私達が絶対的に守らなければならないものとして見るのではなく、愛に基づいた行動の規範としてみる事ができるかもしれませんね。
私達が、心を尽くし、思いを尽くし、知力を好くし、力を尽くして神である主を愛するなら、私達は「主のほかに神を持とうとしない。」「偶像を拝まない。」「主の名をみだりにとなえない。」そして、「安息日を聖なるものとしてまもる。」のです。
そして私達が隣人を自分自身のように愛するなら、私達は「父と母を敬い」、「人を不用意に傷つけず」、「姦淫を犯さず」、「人から盗む事をせず」、「嘘をつかず」、「妬まない」のです。
人との関係において、真っ先に取り上げられたのが、今日学ぶ事になる「あなたの父と母を敬え。」という戒めです。
これが人との関係においての土台となり、天のお父様である神様との関係とも繋がる架け橋的な戒めですね。
この戒めを通して神様が伝えようとしている恵を、今日は一緒に味わっていきましょう。
① 両親を敬う事の難しさ
さて、この戒めを耳にしたときに、非常な難しさを感じる方もいれば、そんな事は当たり前の事だと思う人もいると思うのです。
何の抵抗もなく、「自分が一番尊敬しているのは両親です。」と言える方は幸せですね。
しかしこれは、誰にとっても当たり前にできることではないのです。
何度もお話しするように、これが誰にとっても自然にできる、当たり前の事なのであれば、神様がわざわざ戒めとして表す必要はなかったはずですね。
時として、想像以上に深刻で、難しいのが親子の関係でもあると、私達は言う事ができるのかもしれません。
皆さんには、友達から同じ事を言われても赦せるのに、肉親だからこそ赦す事ができないというような経験はないでしょうか?
身近な人だから愛する事が難しい。いつも一緒にいるからこそ、なかなか敬う事もできないという事があるのです。
また、この世の心理学という学問が、親の責任と言うものを必要以上に取り上げ、訴えているという事もあります。
心に悩みを抱えている方々とカウンセリングをしていると、その様な話をよく耳にします。
聞いてみると、ほとんどの問題が両親との関係に起因していることになります。
ありのままの自分を愛する事ができないのは、両親の愛が足りなかったからだ。
自分が子供を虐待してしまうのは、自分が親からの虐待を受けていたからだ。
暴力的な父親のもとで育った女性は、受ける事ができなかった父からの愛情を求めて暴力的な男性を好きになるという話もあります。
また法律を故意に破ったり、権威に対して必要以上に逆らう若者たちの多くは厳格な両親に育てられていて、その両親に対する嫌悪を持っているのだともいいます。
そこには、ある程度の真実性があるのかもしれません。
親が子供に与える影響の大きさはバカにできない。
それはきっとその通りでしょう。
僕自身にも、両親から受けた傷によって生じた問題はいくつもあるでしょうし、それによって何かと弊害がある事も確かです。
だから気持ちはわからなくはないけれど、ではそれは全て親の責任なのでしょうか。
私達のお父さんやお母さんが、私達を完璧に育てる事ができなかったのはなぜでしょう。
それは、私達の両親が完璧な両親ではなく、完璧な人間でもないからですね。
私達の両親もまた、その両親から完璧な育てられ方をしていないからかもしれません。
私達はみな罪人です。
私達の両親もまた、罪人のひとりなのであって、間違えた事もすれば失敗もします。
私達の両親の内にある罪の影響によって彼らは私達の心に傷を残すような事をしてしまったのであり、私達がそれに反応して傷を受け、その心の傷によって変に両親を恨んでしまったりするのも、やはり罪の影響です。
それは両親だけの問題なのではなくて、私達の内側にも問題があるのだという事です。
② 自分と他人を敬うために
いつも自信がなく、自分を愛する事ができず、どんな時も幸せを感じることができない事で悩んでいる一人の青年がいました。
彼は、慢性的な鬱に悩まされていたのです。
ある日、彼は人生の多くが両親からの影響によるのだという事を本で読みました。
そしてこの本を通して、支配的に自分を育ててきた両親こそが、自分が苦しんでいる原因だと思い立ったのです。
彼はそれまでも両親に対する潜在的な嫌悪を持っていたのですが、両親が自分に与えてきた影響の大きさを知ったとき、両親への憎しみが爆発しました。
彼は「あんたたちがこんな風に育てたから、俺はこんな風になったんだ!」と言って、両親を責め、怒りをあらわにし、憎しみのすべてをぶつけました。
両親にしてみれば、これ程苦しい事はなかったでしょう。
後悔の念は募っても、過去に戻る事はできないし、今更どうする事もできない。
あやまっても聞き入れてはもらえず、言い訳なんてできるはずもありませんでした。
それを見る彼の方は気持ちよかったでしょうね。
今まで自分に対して支配的だった両親が、今度は自分の言葉に恐れをなしているのですから。
ではその結果、この青年は幸せになれたのでしょうか?
いいえ、彼の人生は変わりませんでした。
確かに、一瞬何かが改善したようにも見えた事もありました。
それまで内側に押し込めていたものが外に出る事ができたからですね。
両親が責められて苦しむ姿を見て、恨みを晴らす事ができたようにも感じたかもしれません。
しかし、どれ程怒りをぶつけてみても過去に戻ることができるわけでもありませんし、恨みを通して心の傷が癒される事はありません。
やがてこの青年は、ネガティブな感情が強くなりすぎてますます不幸感がつのり、ついには体を壊してしまいました。
彼が苦しむ事になったのは、両親が原因だった事は事実かもしれません。
しかし、両親にはそれを癒す力はないのです。
彼がネガティブな部分にフォーカスを当てて憎しみを募らせればつのらせるほど、彼は自分自身の傷を自分でほじくり返すことになってしまいました。
結局のところ、この青年が本当に開放されるために必要だったのは、両親が自分を苦しめる原因となっているという事を自覚しながらも、この両親を赦し、和解し、敬う事だったのです。
親を恨んだり、憎んだりし続ける事は、つまり今の自分自身を否定するという事です。
私達が今の自分を認めることができないからこそ、自分をこの様にした両親を恨んでしまうわけですね。
それはつまり、両親を敬うことが、今の自分をそのままで受容する事にも繋がっていくのです。
この様に、私達が父と母を敬う事ができない時、私達は自分自身に対して否定的になってしまう事にもなります。
また、親に対する潜在的な恨みが他の人の行動に触発されて転移してしまい、理由もなく他の人への怒りが抑えられなくなったり、憎しみが起こる事もあります。
聖書の律法は、あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。と教えています。
それは、私達が心から父と母を敬えるようになったとき、私達は自分自身を敬い、他の人たちとの関係がずっと改善されるからなのではないでしょうか。
③ 父と母を敬うために
私達が両親に対して不満を持つのは、多くの場合、私達がムリな事を両親に対して求めているからです。
私達は、親なら子供である自分を愛するのは当然だと考えていますね。
いや、私達のお父さんやお母さんは、もちろん私達を愛してくれていたのです。
でも私達は、そこで完全な愛を求めてしまってはいないでしょうか?
私達はここでもまた、神様から受け取る必要があるものを他の存在から受け取ろうとしているのかもしれません。
完全な愛によって、私達を満たす事ができるのは、ただひとり世界の創造者である神様だけなのです。
イザヤ書の49章15,16節にこの様な言葉があります。
「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。
私達は、自分の母親には自分の事を忘れて欲しくないと思います。
まだおっぱいを上げている子供を忘れたり、見捨ててしまうような母親はそうはいないでしょう。
でも罪人のひとりである母親は、もしかしたら私達を見捨ててしまう事があるかもしれない。
しかし、例え母親が私達のことを見捨ててしまうような事があったとしても、神様は絶対に私達を忘れ、見捨てるような事はありません。
捨てる神があれば、拾う神もあるというような八百万の神観とは根本的に違うのです。
イエス様は創造主である神様を、“アッバ”と呼びました。
アッバというのは日本語にしにくい言葉ですが、親しみを込めた“お父さん”という意味の言葉です。
私達の肉体的な両親は、もしかしたら私達を批判し、否定したかもしれません。
でも、私達の天のお父さんはそうではありません。
私達のお父さんは、私達が高価で尊いと言ってくれます。
私達を宝として見、私達を離れず、決して見捨てる事がない天のお父さんです。
私達の代わりにキリストを身代わりにするくらい、私達を愛し、価値を認めてくれているお方なのです。
私達がいつでも天のお父さんの声に耳を傾け、愛の言葉を受け続けていると、やがて生みの親が発した私達を否定する言葉も覆されていきます。
私達が必要としていた愛が満たされていけばいくほど、私達の心には余裕が生じてきます。
私達は、不完全な存在である両親からその愛を受ける必要がなくなるので、私達は両親を恨んだり憎んだりする必要がなくなります。
そして私達は、私達の父と母を赦し、和解し、敬う事ができるようになるのです。
私達は先祖から繰り返してきた罪の連鎖から開放され、自分を愛し、人を敬い、両親が生んでくれたことを感謝する事ができるようになります。
私達の齢がながくなると言われた主の約束を信じましょう。
まずは私達が神様の愛と出会い、自分を尊敬できるようになることが奇跡の始まりなのです。