創世記11:27-12:9 『信仰の出発』 2006/05/14 松田健太郎牧師
創世記 11:27~12:9
11:27 これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。
11:28 ハランはその父テラの存命中、彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。
11:29 アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の名はミルカといって、ハランの娘であった。ハランはミルカの父で、またイスカの父であった。
11:30 サライは不妊の女で、子どもがなかった。
11:31 テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはカランまで来て、そこに住みついた。
11:32 テラの一生は二百五年であった。テラはカランで死んだ。
12:1 その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。 12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。 12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
12:4 アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがカランを出たときは、七十五歳であった。
12:5 アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、カランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地にはいった。
12:6 アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。
12:7 そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。
12:8 彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。
創世記の物語も、今日から新しいシリーズに入ってきます。
今日から始まるのは信仰の父、アブラハムの生涯です。
何しろ、神様とイスラエルとの関係はここから始まり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の全てが信仰の父として尊敬する偉大な人物ですから、じっくりと時間をかけてお話していかなければなりません。
おそらくこれから3ヶ月くらいかけてアブラハムの生涯からお話していくことになるだろうと思います。
ということは、このペースで行くと何とか年内に創世記が終われるかなということになりますね。
元々の予定では1年で旧約聖書全体のお話をしていくのが僕の計画だったのですが、神様の計画はまったく別の所にあるようですね。
いずれにしろ、僕は自分自身でたてた計画の通り歩むのではなく、神様の示されるとおりに語っていく事を通して、信仰というものをお伝えしていきたいと思っています。
これからも、突然予定が変更する事もあると思いますし、「何だよ、前に言ってた事と違うじゃないか。」と思われる事もあるでしょうが、その時には「ああ、神様に示されたんだな。」と思っておいて下さい。
(本当は、ただ単に僕がいい加減なだけなんですけどね・・・(笑)。)
① 偶像礼拝の町、カルデヤのウル
11:27 これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。
11:28 ハランはその父テラの存命中、彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。
11:29 アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の名はミルカといって、ハランの娘であった。ハランはミルカの父で、またイスカの父であった。
11:30 サライは不妊の女で、子どもがなかった。
11:31 テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはカランまで来て、そこに住みついた。
11:32 テラの一生は二百五年であった。テラはカランで死んだ。
物語は、アブラハムの父であるテラがカルデヤ人の地であるウルを旅立つ所から始まっています。
この時、アブラハムはアブラムという名で、妻のサラはサライという名前でした。
彼らが後にしたカルデヤのウルは、多神教による偶像礼拝の盛んな町でした。
でもそれはウルに限った事ではなく、古代の町はすべて偶像礼拝を中心として営まれていました。
そういう意味では、アブラムが生まれ育った宗教的環境は日本とそれ程変わらなかったということができるでしょう。
日本という国は、もともと八百万の神を始めとする多神教の文化です。
だから「日本人は多神教で、一神教の神とは相容れないのだ、そして自分は絶対に一神教の神を受け入れない」という話をよく聞きます。
しかしイスラエルの始まりとなったアブラムもまた、元から一神教の神様を信じてきた土台からひとりの神を信じて今に至るのではないのです。
私達の持つ聖書には書かれていませんが、ユダヤ教の伝承の中では、アブラムの父であるテラは、偶像を売買する商人だったといわれているそうです。
世界を創造した神様はどこに行ってしまったのでしょうか?
アダムから始まりノアにいたるまで、人類は曲がりなりにも唯一なる神様との交わりを持ってきていたのではなかったでしょうか?
しかしこの頃には、人類は世界を創造した神様をすっかり忘れてしまい、自分たちで作り上げた神々を崇めるようになってしまいました。
これは、私達人間が罪によって霊的に死んでしまい、神様との関係を持てなくなってしまったことの結果です。
しかし、霊的に死んでしまってからも失ってしまった神様との交わりを人間は求め続けていますから、結果として自分たちで偶像や宗教を作り、それを神として礼拝するのです。
世界的に、あるいは歴史的に見て、人類が文化的に持っていた宗教は一神教より多神教の方が圧倒的に多いはずです。
それは、罪に犯された人間にとって、目に見える物を神とすることがわかりやすく、そこから多神教の文化が生まれてくるからです。
ですから、日本が多神教の文化だというのは当たり前の事です。
でもそれは日本に限った事ではなく、罪の中にある人間が多神教の神々が生みだしていくのは、当たり前のことだということなのです。
② 旅立ち
さて、アブラムの父テラはカナンに行くためにウルを出ました。
アブラムと、その妻のサライ、そしてロトも一緒でした。
自分が生まれ育ってきた土地を離れるということは、大変な事です。
そこに少なからぬ決意が必要なのは、自分が所有してきた土地や財産をある程度手放す苦しさもありますが、なによりも自分が生きてくる中で育んできたアイデンティティがその土地にはあるからです。
私達もクリスチャンになった時には同じ決意が必要だったのではないでしょうか?
私達は今までの罪の人生に別れを告げ、イエス様と共に歩む新たな道を歩み始めました。
今まで満足させてきた欲望を切り離さなければならなかった場合もあるでしょうし、時にはそのことがきっかけとなって家族との間に少なからぬ衝突があったかもしれません。
あるいはこのような問題を避けたいために、中々クリスチャンになる決心がつかない方もいらっしゃるでしょう。
人生に新たなスタートを設けるのは、決して簡単な事ではないのです。
しかし、カナンという地を目指して旅を始めたテラは、途中のハランで停まり、そこでそのまま人生の幕を閉じてしまいます。
言ってみれば、目指していた土地にたどり着くことなく挫折してしまったわけです。
決心の元に旅立ったはずのテラに何が起こったのでしょうか?
その答えは聖書の中には書かれていませんから、実際に何が起こったかを知る術は私達にはありませんが、ある程度推測する事ができます。
使徒の働きの中で、ステパノという使徒が、説教の中でこの様に語っています。
使徒 7:2 そこでステパノは言った。「兄弟たち、父たちよ。聞いてください。私たちの父祖アブラハムが、カランに住む以前まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現われて、 7:3 『あなたの土地とあなたの親族を離れ、わたしがあなたに示す地に行け。』と言われました。
7:4 そこで、アブラハムはカルデヤ人の地を出て、カランに住みました。そして、父の死後、神は彼をそこから今あなたがたの住んでいるこの地にお移しになりましたが、
創世記を読んでいると、テラの歴史として書かれていますからテラの意思によって彼らはウルを後にし、神様からアブラムへの語りかけはテラが死ぬまではなかったように見えますが、ウルにいたときに神様はアブラムの前に現れ旅立つように告げ、テラを説得してカナンへの旅を始めたのかもしれません。
いずれにしても、目的地にたどり着けたアブラムと、途中で挫折したテラとの差は、そこに神様の召命があったかどうかです。
神様からの明確な声を聞き、それに従ったアブラムと違い、テラはアブラムの説得に従ったか、あるいは神様の摂理によってアブラムが導かれたカナンに向かったに過ぎなかったのです。
神様の声を聞かなくても、神様は私達の上に力を及ぼし、時には神様の導きによって知らない間に人生を変えられる事があるでしょう。
しかし、私達が求められているのは神様に対する直接的、積極的応答です。
神様の声に耳を傾け、聞き、受け入れ、従い、行動をもって応答する時、神様の祝福が確かな手ごたえをもって私達に与えられます。
多くの方々にとって、神様は私達の人生にいつも勝手に介入し、私たちをロボットのように操り、私達は何もしないで幸せが与えられるというイメージのようですが、そうではありません。
私達は人格を持った存在として創造され、神様は私達との人格的な交わりを通して、私達に祝福を与えたいと思っているのです。
③ 信仰をもって
12:1 その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
神様の声に耳を傾け従う時、そこに信仰が生まれます。
ロマ 10:17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。
ヘブル 11:8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。
アブラムは、生まれ故郷を去り、家族と別れ、神様が示した地に行きなさいという御声に従って旅立ちました。
見知らぬ土地へと向かう旅は冒険に他なりませんが、アブラムにとってそれは、信仰の冒険を表していたでしょう。
私達の人生も、同じように信仰の冒険です。
私達の人生の中で神様が示される道は、今までの私達が選択しなかったような道であったり、まったく道の世界だったりします。
自分自身の力や努力、すなわち肉の力ではなく、神様に委ねて御霊によって生きるという生き方は、信仰なしには絶対にありえない生き方だからです。
そして私達が信仰によって歩む時、神様は私達に大きな祝福を与えて下さいます。
アブラムには、このような祝福の約束が与えられました。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
アブラムの妻は不妊であるにもかかわらず、神様によって多くの子孫が与えられ、それは国となり、大いなる国民として祝福される。
そして「地上の全ての民族は、あなたによって祝福される」という言葉は、アブラム自身が神様の祝福を取り次ぐ器とされ、子孫であるイスラエルは神様と世界中の人々を結ぶ祭司としての役割を持ち、最後にはアブラムの子孫からキリストが世界に与えられ、イエス・キリストを通して全世界が福音という祝福を受け、救われるということを意味しています。
これと同じ内容の言葉はこれから何度もアブラムに与えられ、子孫であるイスラエルは同じ祝福を持ち、今もユダヤ人たちに同じ祝福が与えられていて、信仰によってイスラエルとされた私達クリスチャンも同じ祝福に預かっています。
アブラムにはカナンという約束の地が用意され、与えられました。
私達には、天の御国という新しい地が用意されていて、必ず与えられます。
今、私達は信仰の旅路の中にいるのかもしれません。
その旅路は決して楽ではなく、時には天幕での暮らしも余儀なくされ、時には餓えや渇きに悩まされ、強盗に襲われる事もあるでしょう。
しかし、私達にはイエス様という道案内人がいます。
私達がイエス様に信頼し、その後に従っていくならば、私達は迷子になることなく、喜びの中で約束の地へとたどり着く事ができるのです。
最後に、ダビデ王が残した有名な詩篇を共に読んで終わりたいと思います。
詩篇23 ダビデの賛歌
23:1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。