創世記12:10-13:1 『信仰者の失敗』 2006/05/21 松田健太郎牧師

創世記 12:10~13:1
12:10 さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。
12:11 彼はエジプトに近づき、そこにはいろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。
12:12 エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。
12:13 どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」
12:14 アブラムがエジプトにはいって行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。
12:15 パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。
12:16 パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。
12:17 しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。
12:18 そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。
12:19 なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。」
12:20 パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。

13:1 それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。

今日いらっしゃってる中でクリスチャンではない、信仰を持っていないという皆さんは、この教会のクリスチャンの皆さんをどのように思われていますか?
また、クリスチャンの皆さんは、皆さんの周りにいる方々にどの様に思われていると思うでしょうか?
「さすがあの方はクリスチャンだけあって、大した人格者でいらっしゃる・・・。」とか、
「クリスチャンになる事であんなに素晴らしい生き方ができるなら、わたしもぜひクリスチャンになりたい。」と思われていると思いますか?
一般的なクリスチャンの周りにいる方々の反応は、実際には、
「あの人はあれでもクリスチャンなのか?」とか、
「うちの妻よりは俺の方が余程クリスチャンらしいですよ。」とか、
「父のようにはなりたくないから、私はクリスチャンにはならないんです。」とかいう反応がかなり多いそうです。
もちろんこの教会に来ていらっしゃる皆さんは、素晴らしいクリスチャンばかりですから、そのような事はないでしょうが・・・(笑)。

クリスチャンという人たちは控えめで、おとなしくて、心が広くて、優しくて、間違った事はしない、人格的に優れた人だというのが、多くの人々が思い描くクリスチャンのイメージのようです。
しかし私達が信仰を持って、神様との関係を再び築くことができるようになった時に思い知らされるのは、自分がクリスチャンになっても、いかに思い描いていたイメージから程遠い人間なのかという事ではないでしょうか?

先週から私達が学んでいるのは、今も信仰の父と呼ばれ続けている偉大なる信仰者、アブラハムの生涯です。
人格的にも優れ、人望もあり、何よりも驚くほどに信仰の人であったアブラハムですが、その生涯には何度も失敗がありました。
今日は、信仰の父アブラハムがしてしまった失敗がどの様なものだったかを共に学んでいきたいと思います。

① グッド・アイデアとゴッド・アイデア
今日の箇所の少し前の部分から読んで見ましょう。

12:5 アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、カランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地にはいった。12:6 アブラムはその地を通って行き、シェケムの場、モレの樫の木のところまで来た。当時、その地にはカナン人がいた。
12:7 そのころ、主がアブラムに現われ、そして「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。
12:8 彼はそこからベテルの東にある山のほうに移動して天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。彼は主のため、そこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。12:9 それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへと旅を続けた。
12:10 さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。

先週の復習になりますが、カルデヤのウルという町に住んでいたアブラムは、ある日それがどの様な場所なのかも判らないまま、神様に示された地へと旅を始めました。
やがてカナンという地にたどり着くと、そここそが神様の約束の地であり、神様はこの地を与えると約束したのでした。
私達にとっては天の御国が神様に与えられた約束の地ですよというのが、先週のお話でしたね。
アブラムは神様の導きと祝福に感謝して、この地に祭壇を築き、神様の御名によって祈り、賛美し、礼拝したのでした。

ところが、「この地にききんがあったので、アブラムはエジプトの方にしばらく滞在するために下って行」ってしまいました。
神様に示され、与えると約束された土地からさっさと離れていってしまったのです。
これが、一つ目の失敗でした。

そうは言っても、ききんがあって、まだよく知らない土地で食べるものが無いというのだから、食べ物がありそうな所に移っていくのは常識的に考えて当然のことですよね。
特にアブラムはひとりでカナンの地に来たのではありません。
妻のサライや甥のロトを初めとする家族や、たくさんの僕たちを従えていて、彼らを食べさせなければなりませんでした。
神様が与えて下さった土地とは言え、アブラムが頑固にこの地に留まり続けていたら、仲間がどんどん餓えて死んでいってしまうだけだったかもしれません。
しかしこの理屈こそが失敗であり、この様な失敗を、私達もよくしてしまうのです。

私達は私達の目の前にある状況に対して判断し、答えを出してしまいます。
時には、「こんな事が起こったのだから、神様の御心はこれに違いない。」と勝手に神様の御心まで決め付けてしまったりします。
自分で勝手に決め付けた“神様の御心”を頑固に信じこんで、結果的に「神様はどうしてこんなに酷い事を私の人生にもたらすのだろうか」と、神様を非難するのです。

何か起こった時に、自分はどうするべきかと判断できるのは素晴らしい事です。
しかし、それが本当に神様の御心なのかどうか、確認することを覚えて下さい。

イスラエルの偉大な王様であったダビデ王は、たくさんの罪も犯しましたが神様にもっとも愛された王様でした。
彼が神様から愛されたのは、彼が正しい人間だったからではなく、いつも主と共に歩んでいた王様だったからです。
サムエル記を読んでいると、「ダビデは主に伺って」という言葉が事あるごとに出てくるのを目にします。
それこそが神様に愛される秘訣なのです。

以前智子さんのお母さんである岡崎さんが教会にいらっしゃった時に、このようなお話をして下さいました。
「わたしは教会が成長していくためにたくさんの案を出すのですが、いつも牧師先生に聞かれるのです。『それは、グッド・アイデア(Good idea)ですか? それともゴッド・アイデア(God’s idea)ですか?』って。」
どのようなグッド・アイデアも、神様の御心に適っていなければ決して最善とはなりえません。
私達は物事を決断する前にワンテンポ置いて、自分の判断が正しいのかどうかを神様に祈り、伺う習慣をつけていく必要があります。

アブラムがこの時、「この地に居続けることは出来ない。早く別の地に移らなくては。」と判断したのはグッド・アイデアではありましたが、彼はそのまま行動に移してしまいました。
神様の計画は、別のところにあったかもしれません。
もしかしたら、エジプトではない別の土地に行くように示されたかもしれません。
あるいは、それでもその地に留まることが御心だったかもしれないのです。
もし神様がそのようにしようと思えば、砂漠に水を沸かせ、パンを降らせる事もできます。
烏がパンを運び、残り少ない小麦粉や油が、決して尽きないということもあります。
2匹の魚と5つのパンで、5000人の空腹が満たされるのです。
私達は自分の判断よりも、神様の御心を信じ、それに従う時に初めてその様な神様の御業を目にすることができるのです。

いずれにしろ、アブラムが常識や自分の判断を信じて行動した結果が、神様の計画からのずれを生じさせ、災いとなってアブラムの上に降りかかってくるのです。

② 掛け違えたボタン

12:11 彼はエジプトに近づき、そこにはいろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。
12:12 エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。
12:13 どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」
12:14 アブラムがエジプトにはいって行くと、エジプト人は、その女が非常に美しいのを見た。12:15 パロの高官たちが彼女を見て、パロに彼女を推賞したので、彼女はパロの宮廷に召し入れられた。
12:16 パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。

肉から出たものは御霊に反するというパウロの言葉を裏付けるように、アブラムの策略の結果が、どれだけ間違った方向に向かっていくのがわかるでしょうか?

アブラムが神様の導きを確信してエジプトに行ったのだとしたら、アブラムは何も心配する必要なく、全てを神様に委ねていればよかったでしょう。
しかし、自分の判断だけに従って来たアブラムは、エジプト人たちが恐くて仕方が無かったのです。
そしてその恐怖心から、アブラムは妻のサライに、自分の妻ではなく、妹だと名乗るように頼みます。
アブラムがこう言ったのは嘘ではありません。確かにアブラムとサライは異母兄妹だからです。(創世記20:12)
しかし、アブラムが自分の身の安全を守るために考え出したこの策略がもたらした結果、サライはエジプトの王様(パロ)に召しいれられてしまいました。

本当の事を言わなかったために、アブラムはふたつの霊的な危機に直面します。
第一に、妻サライの貞操の危機。このままでは自分の妻に姦淫の罪を犯させる事になります。
第二に、神様がアブラムに言った「子孫に土地を与える」という約束、そして「あなたを大いなる国民とする」という約束の危機です。
それと引き換えにアブラムが得たのは、羊や牛や、ロバ、らくだや男女の奴隷を得るという金銭的な成功と、表面的な繁栄でした。
アブラムが神様を忘れ、肉的な思いからたてた身を守るための策略は、皮肉にも肉的な成功をもたらしたのです。
アブラムは自分の失敗によって得た報酬を手にしながら、嘆いても嘆ききれない悲しみの涙を流した事でしょう。

私達は服を着るときにひとつボタンを掛け違えると、最後まで間違えたままです。
皆さんの中で、今ボタンを掛け違えている事はないでしょうか?
罪人である、私達の力から出たものは、結局間違えた結果しかもたらしません。
だからこそ、私達はいつも神様の声に耳を傾け、神様の御心と共に歩み、そこに与えられる確信と平安を手にしなければならないのです。

③ 神様の介入

12:17 しかし、主はアブラムの妻サライのことで、パロと、その家をひどい災害で痛めつけた。12:18 そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。
12:19 なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。」
12:20 パロはアブラムについて部下に命じた。彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。
13:1 それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。

罪の中にある私達は、みんな不真実です。
しかし、神様はなんと真実なるお方なのでしょうか。
アブラムの肉的な判断によって招かれた危機は、神様の直接的な介入によって回避されました。
これはアブラムの行いや、正しさから起こった事ではありません。
神様の約束が成就するために、一方的に起こったことなのです。
その神様の一方的な介入を通して、アブラムは神様の愛をより深く知り、信仰を回復させていきました。

13:2 アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。13:3 彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、以前天幕を張った所まで来た。
13:4 そこは彼が最初に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。

私達はみんな、必ず失敗をします。しかし、まだ手遅れではありません。
思えば罪の中から生まれてきた私達は、産まれたときからボタンを掛け違え続けて来たということができるかもしれません。
しかし、掛け違えたボタンは、また掛け直せばいいのです。

アブラムは、神様の直接的な介入によって立ち直り、再び神様の元に戻る事ができました。
私達の人生にも今、神様が直接私たちに語りかける事によって、私たちを神様の元へと引き戻し、関係を回復させようとしてくださっています。

ボタンを掛け直す時は今です。
今こそ神様に立ち返り、信仰を持って主の道を歩み始めようではありませんか。

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