創世記15:1-6, 18:8-15 『神の約束と励まし』 2008/07/20 松田健太郎牧師
創世記 15:1~6、18:8~15
15:1 これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」
15:2 そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」
15:3 さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。
15:4 すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」
15:5 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」
15:6 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
18:8 それからアブラハムは、凝乳と牛乳と、それに、料理した小牛を持って来て、彼らの前に供えた。彼は、木の下で彼らに給仕をしていた。こうして彼らは食べた。
18:9 彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいますか。」それで「天幕の中にいます。」と答えた。
18:10 するとひとりが言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていた。
18:11 アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。
18:12 それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」
18:13 そこで、主がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに。』と言って笑うのか。
18:14 主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」
18:15 サラは「私は笑いませんでした。」と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」
ディズニーランドの入場料は3歳まではただで入る事ができます。
4歳になると子供料金になりますから、4歳になる前にもう一度くらいはディズニーランドに連れて行くと、以前娘に話した事がありました。
それから、ディズニーの看板やミッキーマウスを見るたびに、あるいは休みになると「ディズニーランドに行こう!」と言い始めたんですね。
子供は待つ事ができません。
約束すると、すぐに結果を期待しますね。
子供の時間と大人の時間の感覚が違うように、私たちと神様の時間の感覚はまったく違うようです。
私たち人間の父親は、約束を破ってしまうこともありますが、神様は決して約束を破ることがありません。
今日は、そんな神様の約束について、一緒に考えていきたいと思います。
① 神様の約束
神様は以前、アブラムにどんな約束をしたか覚えているでしょうか?
神様はアブラムに、「あなたにカナンの地を与える。」「地上のすべての民族はあなたの子孫によって祝福される。」「あなたの子孫は地のチリの数ほどになる。」という約束をしました。
しかし、アブラムは確かにカナンの地に住むことになったけれど、彼はそのすべての土地を自分のものにしたわけではなく、そのほんの一部を自分の所有地としただけでした。
また、カナンの地に移り住んでから10年経っても、数え切れないほどの子孫どころか、ひとりの子供すら与えられていなかったのです。
アブラムもだんだん年をとってゆき、跡継ぎの事を真剣に考えなければならなくなっていました。
そんな中でずっと、約束を信じてやってはきたけれど、10年間放たらかしにされていたら、皆さんならどう思いますか。
「あの約束は何かの勘違いだったのかなぁ。」とか、「何か理由があって、あの約束は反故になってしまったのかなぁ。」なんて思ったりするのではないでしょうか。
もしかしたら、約束されていた事自体、忘れてしまっているかもしれませんね。
アブラムも10年間、約束に期待しながら待ち続けてきましたが、何の変化も起こらないと、さすがに不安になってきただろうと思います。
そんなアブラムの不安を察知したかのように、神様はある日、再びアブラムに語り掛けたのでした。
15:1 これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」
神様は、「大丈夫だよ。私はあなたとの約束を忘れていないし、あなたに与えられる祝福は本当に大きいものだ。それまで、あなたは私が守る。」と言ったのです。
しかし、その後何か変化があったわけではありません。
だから、アブラムの不安はそれによって拭い去られる事はありませんでした。
15:2 そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」
15:3 さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。
アブラムには、エリエゼルという信頼をおけるしもべがひとりいました。
当時の文化では、跡取りがいない場合に、信頼する人を養子として引き取って跡取りとすることも珍しくはありませんでした。
神様がどれだけ言葉を重ねても、このままではエリエゼルが、すべての財産を相続してしまいます。
「それでは約束と違うではないか。」アブラムはそう訴えているのです。
アブラムにはその時、そのような現実しか見えませんでした。
しかし、そのような不安に駆られてしまうアブラムに、神様はこのように答えたのです。
15:4 すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」
15:5 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」
15:6 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
私たちの目に見える現実は、時として神様がしてくださる約束から遠く離れています。
そんな時、私たちはどうすればいいのでしょうか?
「神様は私を高価で尊いと言うけれど、自分はとても高価で尊いとは思えない。 」
「神様は私を愛するというけれど、愛されているとはまったく思えない。」
その様に言うのをたくさん聞きます。
しかし私たちには、現実がどのように見えたとしても、信じなければならない時があります。
イエス様は信じることに関して、このように言っています。
ルカ 18:17 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」
ヨハネ 20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」
この時アブラムに与えられたのも、やはり約束の言葉が繰り返されただけです。
この後すぐに子供が与えられたわけでもないし、何か明確なしるしがあったわけでもありません。
それでもアブラムは、子供のような信仰をもって、見る事なしに、主の言葉を信じました。
そして信じるその信仰をもって、神様はアブラムを義と認められたのです。
私たちに必要なのは、神様の約束をもう一度見上げることです。
そして、神様が実際にしてくださったひとつひとつの約束を思い出し、この約束も必ず果たされるはずだと信じていけばよいのではないでしょうか。
② 私たちの勝手な解釈
そうは言っても、そんなアブラムの信仰も、完璧なものだったわけではありません。
約束だけがどれだけ繰り返されても、それがなかなか現実のものにならないと、アブラムの妻サライはひとつの提案をしました。
創世記 16:2 サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。
自分は子供を生めないから、奴隷のハガルに生ませてはどうかと言うのです。
それなら、アブラム自身から生まれる子供だし、当時の文化からすれば、特殊な事ではありませんでした。
しかし、神様はそんな事は一言も言いませんでしたよね。
エリエゼルを養子にしようかと考えたときもそうですが、彼らは神様の約束を見えている現実に見合うように、拡大解釈しようとしていたのです。
この様な勝手な解釈を、私たちはしてしまい勝ちなのではないでしょうか。
今回の場合、これはサライの不信仰と言う事もできるのですが、神様の約束を直接聞いて受けていたのはアブラムです。
だから、この失敗はサライの失敗である以上に、アブラムの失敗なのです。
アブラムは、神様の言葉に聞き従うよりも、奥さんの言葉を信用してそれに従ってしまったという事です。
これもまた、私たちが陥ってしまい勝ちな事ですね。
身近な人たちの言葉は、時として最大の誘惑になりえます。
その方々は、私たちを神様から引き離そうというつもりは毛頭ないのでしょうし、多くの場合私たちを思ってしてくれる忠告だからこそ、それを聞かないでいる事は難しいのです。
しかし、私たちはそれでも神様の言葉を優先して決断をしなければなりません。
イエス様はこのように言いました。
マタイ 10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
10:38 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
私たちは、何よりも主を優先にしていなければ、神様に従う事ができない事があるのです。
彼らの失敗の結果、世界にもたらした影響は大きいですね。
この時に生まれたイシュマエルが始まりとなるアラブ人と、約束の子として後に与えられたイサクを始まりとするイスラエル人との間には、今でも争いが絶えません。
私たちは、神の国と神の義を第一に求めるなら他のものもそれに添えて与えられるという御言葉を信じて、いつも主の言葉を第一優先として従っていきたいものです。
③ 現実と信仰
さてアブラムには、神様との契約のしるしに、アブラハムという新しい名前が与えられました。
妻のサライもまた、サラという名前になりました。
そんなアブラハムたちの元を、三人の御使いたちが訪れたのです。
はじめアブラハムはそれが誰だがわからないまま、三人をもてなしましたが、御使いたちは彼らに重大なことを告げたました。
創世記 18:10 するとひとりが言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていた。
それこそ、彼らが待ちに待った知らせでした。
最初の約束から25年のときを経て、その約束が今こそ果たされる時だという知らせを、この御使いたちは告げ知らせたのです。
しかし、それを聞いたアブラハムとサラは、跳び上がって喜んだと思いますか?
いいえ、彼らはそれを聞いたとき、笑ったのです。
それは「わっはっは」という喜びの笑いではありませんでした。
「そんなバカなことが・・・。」という、鼻から出る少しバカにした笑いです。
ずっと期待して待ってきた約束だったはずなのに、そして神様が何度も更新して、その約束の確かさを確認してきたはずだったのに、いざその時が来ても彼らはそれを信じることができませんでした。
何しろアブラハムはもう99歳になっていましたし、サラも年老いてすでに生理もなくなっていました。
常識的に考えても、科学的に考えても、子供なんてできるはずがない。
だから彼らは、御使いたちの言うことがおかしくて笑ったのです。
18:13 そこで、主がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに。』と言って笑うのか。
18:14 主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」
18:15 サラは「私は笑いませんでした。」と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」
神様は約束し、しかしアブラハムたちは現実を見てそれを信じることができず、何度も何度もその思いを正されました。
私たちの主は、この世界を創造した神様です。
神様に、不可能はありません。
私達にはどんなに不可能に思える事でも、主はそれを現実のものとする事ができるのです。
皆さんは、心からそれを信じるでしょうか。
今、私たちの教会は新しい会堂となる場所を探していますが、その事でOMFの主事であるランハンス先生に相談しに行ったときのことです。
その時ランハンス先生は、「自分たちの会堂を持とうという計画はありますか。」と聞かれました。
僕はその時、「将来的にはわかりませんが、少なくとも今はそんな事を考えられる経済的な余裕はないと思います。」と答えたんですね。
しかし、ランハンス先生にこのように諭されました。「今見えている状況だけで決め付けてはいけません。どのようにしてその場所が与えられるかはわからないのです。」
事実、今あるOMFのオフィスはかなり大きな土地に建てられていますが、ひとりの人によって捧げられた場所です。
まさに、神様には不可能はないのです。
しばらく前になりますが、何年か前にこの教会を訪れていたTくんと、3年ぶりくらいに電話で話事ができました。
電話口で彼は、唐突にこんな事を言ったのです。
「聖霊が人々の上に下ったとき、そこにいた3000人の人々が信徒となったと書かれています。西葛西国際キリスト教会も、いつか3000人の人たちが救われると僕は信じます。」
それを聞いたとき、正直に言うと僕は、「それは困る。」と思ったのでした。
今の人数でもいっぱいいっぱいなのに、3000人なんていう数になったら、とても僕の手には負えないと思ったのです。
しかし、神様がそれを起こすのなら、それは確かに起こるのです。
神様には不可能はない、今の日本に3000人規模の教会なんてひとつもなかったとしても、牧師が僕のような若輩者だったとしても、神様がそれを起こそうと思えばそれは起こるのだと僕は感じました。
別にこれが預言だとか、神様の約束の言葉だと言うつもりはありませんが、この言葉を通して、自分がいかに不信仰だったかを思わされたのです。
皆さんはどうでしょうか?
皆さんにも、神様が個人的に与えられた約束があるかもしれません。
そうでなかったとしても、神様が私たちすべての人に与えている約束があります。
皆さんは、今の現実がどんなであったとしても、信仰によって与えられている救いに確信を持つ事ができているでしょうか。
主が私たちの重荷を取り去ってくださると信じているでしょうか?
主が私たちを愛し、どんな状況からも立てあげて下さると信じているでしょうか?
私たちの目に映る現実ではなく、神様が示される真実を見つめる事ができるでしょうか。
信じる事には、力があります。
イエス様はこう言っています。
マタイ 17:20 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。
イエス様は誰も信じない時には奇跡を起こす事はありませんでしたが、逆に言えば信じることの強さを表してもいます。
時には、一年や二年でなく、何十年という月日を信じて待たなければならない事があるでしょう。
それは、私たちの準備が整うまでに時間がかかるからです。
しかし、私たちが整えられ、主のときが来れば、それは必ず起こります。
最後に、イザヤ書の一節を読んで、今日のメッセージを終わりたいと思います。
イザヤ 46:13 わたしは、わたしの勝利を近づける。それは遠くはない。わたしの救いは遅れることがない。わたしはシオンに救いを与え、イスラエルにわたしの光栄を与える。」
決して破られず、遅れる事のない主の約束を信じて、共に信仰と勝利の道を歩みましょう。