創世記16:1-12 『いつまでですか?』 2006/06/25 松田健太郎牧師

創世記 16:1~12
16:1 アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。
16:2 サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。
16:3 アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。
16:4 彼はハガルのところにはいった。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。
16:5 そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」
16:6 アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。
16:7 主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、 16:8 「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」
16:9 そこで、主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」
16:10 また、主の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」
16:11 さらに、主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。 16:12 彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」

今日はまず、先週のメッセージの補足から始めたいと思います。
牧師という役割の考え方として、牧師の語る説教は神の言葉であって、牧師は間違った事を絶対に語ってはならないという信念をもつ先生もいます。
しかし、僕にはとても無理な事で、時には神様からのメッセージに余計なものを付け足してしまったり、必要な事を語れなかったりすることもあります。
これは、僕自身の人間的な弱さの部分で、成長していくにつれてこれから少なくなっていけば良いなと思いますが、おそらく死ぬまで完全になるということはないでしょう。
僕はその弱点を、間違いは間違いとして認めるという正直さをもって補っていきたいと思います。
これからも度々メッセージの補足や訂正をすることもあると思いますのでご了承頂ければ嬉しいです。

さて、先週のメッセージの中で、どうも神様と喧嘩するという事がかなり強調されてしまったようで、そのことが気になっていました。
僕が言いたかったのは、決して神様と喧嘩することを奨励するつもりだったのではなくて、神様に対しては喧嘩を恐れぬくらい正直でいなければならないという話をしたかったのです。
本当に神様と喧嘩して口も効かないというような状態になってしまったら、あまりいいことはないと思いますので気をつけてください。

先週のえみまちゃんの「え~?」という反応がすごく気になっていたんですが、それはとても正しい反応だったと思うんですね。
ほとんどの方は、僕が言いたかった事をちゃんと汲み取って下さっていたと思うのですが、少しでも誤解が生まれないために、あえて今日は訂正する事から始めておこうと思いました。
みなさんも、気になった事があったらぜひ礼拝の後にでも声をかけて見てくださいね。
それでは、今日の本題に入っていきましょう。

礼拝のスタイルが新しくなって今日で1ヶ月になります。
皆さん新しい礼拝はいかがですか? そろそろ慣れてきたでしょうか?

僕にとって一番嬉しいのは、これだけの時間を、子供たちがちゃんとがまんして待っていてくれているということです。
待つというのは大変な忍耐力を要する事です。
誰にでも簡単にできることではありません。
メッセージが30分としても、他の時間で1時間以上あるのが現状ですが、1時間半じっとしているのは子供たちにとっては大変な忍耐ではないかと思います。
子供によってじっとしていられる時間というのはまちまちだと思いますが、1時間半もじっとしていられるためにはある程度の年齢が必要ですよね。
例えば、うちの娘の奈緒美には、5分もじっとしている事はできません。
これはもう、どう押さえつけようと不可能です。

じっとしていられる時間というのは、成長するに従って増えていくものなのでしょう。
ところが、実際には中学生になっても高校生になっても、クラスにひとりは落ち着かない奴がいて、授業中にコソコソ悪さばっかりしてなかなか授業にならない。
先生はいつも苦労されているのではないでしょうか?

ちなみに僕はいつも静かにしていましたよ。
自分の席にじっと腕を組んで座って、うつむいたまま一日中動かなかった。
礼拝中にも、同じような方が何人かいらっしゃいますが(笑)。

① 忍耐と信仰
そんな訳で、忍耐する事は大人でも難しい事です。
しかし神様がアブラムとサライに求められていたのは、忍耐するということでした。
パウロは忍耐についてこのように言っています。
ロマ 5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出(します。)

生まれつき忍耐強い人なんていません。
しかし忍耐が私達を人間として成長させ、信仰をもっと強くて折れにくいものに変えていきます。
そして、そこから生み出された希望は、決して絶望に終わる事がありません。
それは忍耐強い信仰は、私達をより強力に神様に結びつけるからです。

アブラムとサライは、子供が授けられるという神様の約束を忍耐して待つということによって、言ってみれば、彼らは信仰的な訓練を受けていたのです。
しかし、子供を持つための肉体的な限界が近づいてきた時、サライがとうとう我慢しきれなくなって行動を始めてしまいます。

6:1 アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。
16:2 サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。

これは現代を生きる私達にはとても奇妙な話ですが、当時のカナン地方で使われていた法律からすればまっとうな手段です。
その家の主人と妻の間に子供がいれば、問題なくその子供が後継ぎとなりますが、子供がいない場合、妻の代わりに奴隷に子供を生ませて、その子を引き取ることができました。
サライはどれだけ待っても子供を授からないので、神様の御心は自分が母親になることとは別の所にあるのではないかと考えてしまったのです。

神様が求めているのは忍耐であって、あきらめる事や我慢する事ではありません。
私達は忍耐を、あきらめや我慢と取り違えてはいないでしょうか?
約束を信じ、忍耐して待つべきときに、自分に子供が与えられる事をあきらめたり、他の子供でがまんする事は不信仰なのです。

皆さんが今、祈り求めている事は何でしょうか?
もしその祈りに“No”という答えが与えられないのであれば、少なくとも答えが与えられるまでは神様を信頼し、希望を持って待ち続けるべきです。
ヘブル人への手紙にはこの様に書かれています。

ヘブル 10:35 ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。10:36 あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

② 神の忍耐
サライの弱点が忍耐の弱さだった一方で、アブラムの弱点は、妻のサライそのものでした。
アブラムがサライを心から愛していた事に疑いはありません。
しかし愛するということと、その人の言いなりになる事はまったく別のことです。

せっかく信仰を確かにし、神様との深い交わりを築く事ができたアブラムでしたが、この時には彼自身の信仰もゆらいでいたのかもしれません。
妻をいさめ、説得して神様の道に戻すどころか、妻の言葉に従ってアブラムは神様から離れていってしまいます。
アブラムの無責任が、罪へと繋がっていったのです。

最初の人であったアダムは、神様の声ではなく、妻の声に従った結果、神様から離れ、罪の道に進んでしまいました。
アブラムも同じわだちを踏んで、神様から離れてしまったのです。

16:3 アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。
16:4 彼はハガルのところにはいった。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。
16:5 そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」
16:6 アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。

奴隷だったハガルは身ごもり、そうするとサライを見下し始めました。
これは、不信仰だったサライの罪の結果です。
自分の畑に蒔いたものを、後で自分が刈り取る事になるように、蒔かれた罪の種がもたらす苦しみの実は、必ず自分の手で刈り取る事になります。
罪というのは、ただ神様から離れるというだけのことではなく、必ず私達の心や霊を傷つけるものなのです。

その痛みから自分を守るために、サライはアブラムの無責任のせいにし、その無責任さを責め、ハガルをいじめることまでしました。
ひとつの罪はまた次の罪を生み出し、罪の連鎖反応が起こってくるのです。

人類の歴史は罪の歴史です。
人類が歴史上犯してきた罪の多さを数え上げるまでもなく、私達が一生の間に犯す罪を考えただけでも、私達がどれほど汚れた存在なのかを知る事ができるでしょう。
完全な存在である神様にとって、罪の汚れは私達にとっての汚物や蛆虫のように汚らわしいものでしょう。

そんな私達を、神様は赦して下さるのです。
私達がどれだけ同じ失敗を繰り返し、何度神様の期待を裏切っても、神様はそれでも私達を赦し、愛し続けています。
イエス様が私達のために十字架の上で耐えて下さった忍耐を考えるとき、私達はその愛に押しつぶされるような思いです。
神様は忍耐を私達に押し付けるだけではありません。
神様ご自身が、私達など比べ物にならない程、私達のために忍耐して下さっているのです。

③ 成長のための忍耐
さて、最後にハガルの場合をみてみましょう。
サライが神様から離れ、アブラムが無責任さを発揮した結果、ハガルはサライからいじめられ、結局群れから逃げ出すことになってしまいました。
しかし神様は、もともとの計画とは関係がなかったはずのハガルをも、決して見捨ててしまうことなくその愛の手を差し伸べたのです。

16:7 主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、 16:8 「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」
16:9 そこで、主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」
16:10 また、主の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」
16:11 さらに、主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。 16:12 彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」

神の御使いは、サライのもとから逃げ出してきたハガルの前に現れました。
しかし神様の御心は、しばしば私達の思惑とは違うものです。
やっとの思いで逃げてきたハガルに御使いが伝えたのは、身を低くして元の場所に戻り、そこに留まりなさいということでした。

そもそものきっかけとなったのは、確かにサライの不信仰であり、アブラムの無責任さでした。
しかし、ハガルが高ぶってサライを見下すような事をしなければ、いじめられて逃げ出すような事にはならなかったはずです。
彼女はまず、そのことを悔い改めなければなりませんでした。
罪を悔い改めるためには、苦しくても元のところに帰る必要があったのです。

神様はハガルの苦しみをご存知でした。
それでも、そこに正しい事がなされ、ハガル自身にとって益となる結果を残すためには、その苦しみを乗り越えなければなりません。
そうしなけば、本当の意味で問題は解決しないからです。

私達も、時には辛い状況から逃げ出したくなる事もあるでしょう。
その時神様は、私達に今の場所に踏みとどまるよう命じるかもしれません。
そんな時に私達は、忍耐をもって正しい道を進む事ができるでしょうか。

それでもハガルは、一生がまんして、いじめられながら生涯を送ったのではありません。
ハガルとその子イシュマエルは、神様に護られて過ごし、やがて時が満ちた時、彼らはアブラムやサライの群れから離れていきます。
それは追い出されるような形ではありましたが、その道程は神様の護りと共にありました。
そして彼らは神様の約束の通り、アラブというひとつの大きな民族へと発展していきます。
忍耐の先には、必ず神様の祝福があるのです。

最後に、ヘブル人への手紙に書かれていることを見てみましょう。

ヘブル 12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
12:3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。
12:4 あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。
12:5 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
12:6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」

12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

忍耐する事は決して楽な事ではありません。
しかし、忍耐の先に用意されているものを私達が知るなら、私達は喜んで待ち続けることができるでしょう。

忍耐の道は、私達がひとりで歩むのではありません。
イエス様がともに歩んで下さいます。
私達は、いつも私達の先を歩いてくださるイエス様に目を据えながら、忍耐の道を歩き続けようではありませんか。
その先には必ず、素晴らしい祝福が用意されているのですから。

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