創世記21:1-21 『イサクの誕生』 2008/08/10 松田健太郎牧師
創世記 21:1~21
21:1 主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。
21:2 サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。
21:3 アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。
21:4 そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。
21:5 アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。
21:6 サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」
21:7 また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる。』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」
21:8 その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。
21:9 そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。
21:10 それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」
21:11 このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ。
21:12 すると、神はアブラハムに仰せられた。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。
21:13 しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」
21:14 翌朝早く、アブラハムは、パンと水の皮袋を取ってハガルに与え、それを彼女の肩に載せ、その子とともに彼女を送り出した。それで彼女はベエル・シェバの荒野をさまよい歩いた。
21:15 皮袋の水が尽きたとき、彼女はその子を一本の潅木の下に投げ出し、
21:16 自分は、矢の届くほど離れた向こうに行ってすわった。それは彼女が「私は子どもの死ぬのを見たくない。」と思ったからである。それで、離れてすわったのである。そうして彼女は声をあげて泣いた。
21:17 神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで、言った。「ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。
21:18 行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。」
21:19 神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。
21:20 神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。
21:21 こうして彼はパランの荒野に住みついた。彼の母はエジプトの国から彼のために妻を迎えた。
みなさん、今日僕がよく日焼けしている事に気がつきましたでしょうか。
実は先日の水曜日、娘とディズニーランドに行って来たんです。
連れて行くという約束をしたばかりに「今日こそディズニーに行こう。」と本当にうるさいくらいだったというお話を以前しましたが、やっとその約束が果たせた事になります。
結局、数ヶ月待ってもらう事になりましたが、3歳の子供にしてはよく待てましたよね。
出かけるとき、実は目的地をはっきり伝えないままでかけたのですが、ディズニーランドに着いた途端、すごい笑顔で「やったぁ!」と喜んでいました。
こういう顔を見るのは、父親冥利に尽きるというものですよね。
さて、今日の聖書箇所は、アブラハムたちに念願の子供がついに与えられたという話ですが、その時のアブラハムの喜びも相当のものだったと思うのです。
何しろ最初に子供が与えられるという約束がされてから、25年間も待ち続けたのですから。
私たち人間の父親は、時として約束が果たせない事もありますが、天のお父さんはそうではありません。
例えアブラハムが99歳、妻のサラが89歳というとんでもない高齢であっても、彼らはちゃんと子供を授かり、アブラハムが100歳の時には無事に約束の子供が産まれました。
私達のもっている経験上の常識や、現実という壁など簡単に乗り越えて、神様はその約束を必ず果たしてくださる方なのです。
そうはいっても、これはまだ約束の第一歩でしかありません。
神様はアブラハムに、「子孫が星の数や砂の数ほどに増え広がり、世界は彼の子孫によって祝福される。」と約束したのです。
その約束が成就するまでには、まだ数千年の時を待たなければなりませんでした。
アブラハムはもちろん生きている間にそれを見る事がありませんでしたが、その約束はイエス様が十字架に掛けられた時に現実のものとなったのでした。
今日はその約束が果たされる大きな一歩である、約束の誕生に関して共に学んで行きたいと思います。
① 笑いの子
アブラハムは生まれた子供に、イサクという名前をつけました。
これは、彼らにイサクが授かるよりもずっと前に、神様から名づけるようにと命じられていた名前でした。
アブラハムはその事をしっかりと覚えていて、約束どおりその名前を名づけたのです。
イサクというのは「笑う」という意味です。
一年前、御使い達が彼らに子供が授かると伝えにきた時、ふたりはそれを信じることができませんでした。
そして「そんなバカな事などあるものか。」というように、思わず鼻で笑ってしまったのです。しかしイサクという名は、そんな皮肉な笑いという意味から来た名前ではありません。
サラはこの様に言っています。
21:6 サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」
こうして子供が与えられる事を何度も聞きながらも、神様に信頼しきる事ができずに何度も疑ってしまったサラとアブラハムに、主は「ほら、ちゃんと私が言った通りになっただろう?」と微笑むのを感じたのかもしれません。
また人々は彼らを、祝福の笑いをもって迎え入れるだろうと実感していました。
ふたりの笑いは今や、かつてそうだったように、信じられずに失笑するような皮肉な笑いではありません。
主が与えてくださった祝福に満たされ、心の底から笑う喜びの笑いです。
どんなに不可能に思えるような状況からも、主はその約束を必ず果たし、私たちにこの様な笑顔を与える事ができるお方なのです。
どうか、今自分達が置かれている状況と照らし合わせてみてください。
今、皆さんが置かれている問題は、どれくらい絶望的なのでしょうか。
その困難が改善する事は、90歳のお婆さんが妊娠して子供を産むよりも、もっと不可能な状況でしょうか。
たとえ現実的に改善不可能に思えるような状況であったとしても、主には私達のこの皮肉な笑いを、心からの喜びに変える事ができるお方なのです。
② 神様の約束
そんな祝福を受けるなんて、アブラハムという人はどれほど素晴らしい人物なったのだろうかと思われる方もいるかもしれません。
事実信仰の父とまで呼ばれ、神様に選ばれた民族の祖として選ばれたのですから、人格的にも霊的にも大変な人物だったに違いないと考えられる事も少なくはありません。
確かに人を思いやる優しさと、神様への確かな信仰をもった人ではありました。
しかし実際には、アブラハムは私たちと同じように、たくさんの失敗を重ねてきた人物でもあります。
美しい妻を略奪するために殺されるのを恐れて、妻に自分の妹であると嘘をつかせるという不信仰からくる失敗を、2回も犯した事がありました。
約束の子供が与えられるのを待つことができず、自分の奴隷を養子として後を継がせようと考えた事もありました。
また、神様の約束よりも妻の言葉を信じて、妻のしもべハガルとの間に子供をもうけてしまったりもしました。
生涯において、「あなたを大いなる国民とする。」という主の約束を、何度も聞いた人でしたが、逆に言えば、それはそれだけの保障をされないと信じることがおぼつかなかったと言う事でもあります。
でも、それ程同じ失敗を重ねたり、神様への信頼がぐらついていても、神様は「そんなに信じられないなら、その祝福は別の者に与えよう。」とは言いませんでした。
アブラハムが祝福を失う事はなかったのです。
私たちの中には、何か良い行いをすれば良い事があり、悪い事をしたら罰が当たるというような昔から伝えられてきた考え方が残っているのかもしれません。
しかしそれは、決して聖書的な考え方ではないのです。
“天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる” (マタイ 5:45)というのが聖書の述べ伝えている事です。
私たちの信仰が揺らいでも、神様の約束が揺らぐ事は決してありません。
私たちが失敗をしても、それによって神様が与えようとしていた祝福を取り上げてしまうという事はありません。
神様の約束は、私達の行いや、信仰の度合いによって左右されるような不安定なものではなく、永遠の神様の絶対的な確かさの上に据えられたものなのです。
みなさんは、与えられている救いが不確かになってはいませんか。
信じると言って洗礼を受けてはみたけれど、だからと言って何も変わらない自分を見つめて、自分は本当にクリスチャンになったのか、本当に救われているのかと不安になるような事はないでしょうか。
パウロはローマ人への手紙の中でこの様に書いています。
ローマ 3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
主イエス・キリストの十字架を信じる信仰が、私たちの救いとなるというのが、私たちに与えられている約束です。
それは神様の側から与えられた一方的な恵なのであって、行いを伴う条件付のものではありません。
だから私達がその信仰を告白した後で行いが伴わなかったとしても、信じる思いが揺らいだとしても、それによってその救いを失ってしまう事はありません。
一度つかんだ手を、私達の側が手放しても、私達がそれを全否定して振りほどくのでない限り、神様の方で私たちを手放す事はないのが主の約束の確かさであり、強さなのです。
皆さんがそのような揺らぐ事のない、安全な土台の上に立たれているのだという確信をもって、いつも平安でいる事ができますように心から祈ります。
③ 罪から離れること
さて、だからといって、私たちは救われた後は何をしても構わないと言う事ではもちろんありません。
サラが子供を授かると言う事に関して神様を信頼しきる事ができず、夫アブラハムが奴隷であるハガルとの間に子供を持つように取り計らった事は、彼女自身にとって決して良い結果をもたらしませんでした。
ハガルは子供ができないサラを侮り、自分こそが主人であるような態度をとり始めたことで、サラとハガルとの間には埋めることができない決定的な確執ができてしまいました。
神様を信頼するのではなく、妻であるサラの言葉の方を選んでしまったアブラハムもまた、そんな二人の間で生活しなければならないという苦渋を体験する事となりました。
そしてアブラハムは、やがて大きな決断を迫られる事となったのです。
創世記 21:9 そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。
21:10 それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」
21:11 このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ。
我が子とその母親を自分達の村から追い出さなければならないと言う事は、どれほど辛い決断だった事でしょうか。
サラにしてみても、自分から言い始めた事の結果で最後には追い出せというのも酷い話だとも思いますが、それも無理ないくらい辛い体験だったと思うのです。
実際、神様もアブラハムに対して、サラの言葉に従うように言ったのでした。
彼らが神様の御心に背いた結果、大変な苦難を経験する事になったのは、神様が彼らに与えたバチでしょうか?
そうではなく、その苦難は彼ら自身が犯した罪の結果なのです。
神様がそれを起こすというのではなく、罪の結果には痛みが伴うものであるという事なのです。
神様は罪から離れなさいと、私たちに言いますね。
それは何より、罪というものが痛みを生むものであり、それによって自分自身や他の人たちを傷つける事を神様が望まないからなのではないでしょうか。
神様は、私達が言う事を聞かないから腹を立てて私たちを滅ぼそうとするというようなお方ではありません。
神様は私たちのことを心から愛していますから、私達が痛み、傷つく事に心痛まれ、とても辛いと思われるのです。
だからこそ、主は怒りに任せて私たちをただ裁くというのではなく、私たちが裁きを受けなくて済むようにひとり子であるイエス様の命を犠牲にしてでも、私たちを救いたいと思っておられるのです。
だから皆さん、私達が罪から離れるという事は、私達が自分自身を傷つけない道を選択するという事なのです。
その選択が、天のお父様を喜ばせる事でもあるという事は、私たちにとって何と幸いな事なのでしょうか。
④ 主のあわれみ
さて、アブラハムとサラが自分達の決断によって苦しまなければならない事は自業自得だとして、その結果追い出されるハガルとその子供イシュマエルはただの犠牲者なのではないでしょうか。
神様はもちろん、それをただそのままで終わらせようとはなさいません。
彼らが荒野をさ迷い、ついに命が尽きるかと思ったその時に、神様は彼らのもとに現れて救いの手を差し伸べます。
21:17 神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで、言った。「ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。
21:18 行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。」
21:19 神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。
21:20 神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。
21:21 こうして彼はパランの荒野に住みついた。彼の母はエジプトの国から彼のために妻を迎えた。
すべての人が物語の主人公になるわけではありません。
ある物語の中では、私達は脇役であったり、取るにならない役目しかないように思うかもしれません。
聖書の主人公はイエス・キリストであり、そこに関わるアブラハムとイサクに焦点が定められていても、ここでイシュマエルは脇役でしかありませんでした。
しかし、神様の目に脇役はひとりもいません。
主は誰一人として忘れることなく省みてくださり、私たちひとりひとりの物語を完成させてくださるのです。
皆さんが生きる人生の物語を、主が豊かなものとして下さいますように。