創世記22:1-14 『主に捧げる』 2006/7/30 松田健太郎牧師

創世記 22:1~14
22:1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。
22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
22:3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。
22:4 三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。
22:5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。
22:6 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。
22:7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
22:8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
22:9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
22:10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
22:11 そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
22:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。
22:14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。

皆さんは、自分の人生のクライマックスはここにあったと言うことができる経験をもっていらっしゃるでしょうか?
アブラハムの人生のクライマックスがどこだったかと言えば、まさに今日の箇所と言うことができるでしょう。
彼も人生の中で本当にたくさんの経験をして、得がたい生涯を送ってきましたが、彼がその人生の中で頂点を極めたのは、100歳を越えてからだったのです。
皆さんも今までの経験の中で、この時こそが最頂点だったというような事があったかもしれませんが、多分ほとんどの皆さんにとってのクライマックスは、まだこれから待っているのではないでしょうか。

実はこの箇所は多くの牧師や教師たちに難解な箇所とされ、多くの人々が理解に苦しみ、またたくさんの誤解を生んできた箇所でもあります。

「キリスト教の神は妬む神だから、あなたが神以上に何かを愛するならそれを奪い去られるのだ。」とかですね・・・(苦)。
「あなたのイサクを捧げよ。」という呪いの声をいつか聞くのではないかと恐れて、結婚をためらったという牧師の恐い笑い話も聞いたことがあります。

難解とされ、多くの人々を悩ませたこの箇所に込められている大きな恵みと祝福を、今日はともに学んでいきましょう。

① アブラハムの信仰
アブラハムの人生には本当に色々なことがありました。
彼が75歳の時に神様の声を聞き、カナンの地に旅立ってから長い年月が経ちました。
エジプトでは妻のサラを自分の妹だと偽ったり、甥ロトとの別れがあり、ケドルラオメル王に占領されたソドムの町を開放したり、神様の約束を信じることができずに、サラの奴隷ハガルとの間に子供を授かったり、もう一度別の時に、サラを自分の妹だと偽った事もありました。
信仰深いときもありましたが、不信仰に陥ったり、失敗した事もたくさんありました。
それでも全てが神様によって解決され、祝福に変えられてきたのです。
「これらの(様々な)出来事の後、神様はアブラハムを試練に会わせられた」と聖書は言います。
晴天の霹靂というのでしょうか。
いくつもの試練をくぐり抜け、ついに約束の子が与えられ、やっとこれから平安な日々を送ることができると思っていた矢先に、神様から最後の試練の矢がアブラハムに向けて放たれたのです。

22:1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。
22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

子供が与えられるという神様の約束から、25年の月日をアブラハムは待ちました。
そしてやっと与えられた約束の子イサク。
その前に生まれたイシュマエルとは、もうとっくに別れてしまいました。
もうイサクしかいないのです。
そのイサクを、神様は焼き尽くす生贄として捧げなさいというのです。

こんな理不尽な事がありますか?!
待って、待って、待ちに待ってようやく与えられた約束の子を、結局神様が取り上げようと言うのです。
子孫が星の数ほどになるという約束はどこに行ったのですか?
イシュマエルではなくイサクが約束の子だったのではないのですか?
それにしても、子供をいけにえとして捧げろとはどういうことですか?
神様はそんなに残酷で、恐ろしい事を望まれる方なのですか?

ソドムとゴモラが滅ぼされる時、正しいものまでもが一緒に滅ぼされる理不尽を神様に訴えたように、神様に反論する事もできたはずです。
しかしアブラハムは、理不尽とも思えるこの主の命令に、黙って従いました。

神様が意味もなくこんな命令をするはずがない。
約束を破り、彼を苦しめるためだけにこのような事をするような神様ではないことを、アブラハムはこれまでの経験から知っていたからです。

② アブラハムの苦悩

22:3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。
22:4 三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。

この時のアブラハムの心境はどうだったでしょうか?
彼は確固とした信仰をもってこの事に挑み、心は揺るがなかったでしょうか?
そんなはずはないだろうと僕は思います。
「あなたの愛するひとり子をささげよ。」という命令に従うということを選択はしたものの、感情的に受け入れられないのは当然の事だからです。
いけにえを捧げる場所として示されたモリヤの山に至るまでの道のりを、アブラハムは苦悩と葛藤の中で過ごした事でしょう。

我が子を生贄として捧げる自分を想像すれば、恐ろしさ、悲しさに身がすくみます。
イサクを焼きつくす生贄としてささげるために、まずイサクののどを刃物でかき切らなければならない。
そして生贄が灰になるまで完全に燃えるために、頭や足や内臓を切り分けていかなければならないのです。
愛する我が子に対して、そんなことができるのだろうか?
生贄として捧げる真似をするだけで許してもらえないだろうか?
あるいは自分がイサクの身代わりとして死ぬことはできないのだろうか?

モリヤの地というのは、今で言うエルサレム郊外の高台です。
アブラハム達がいたベエル・シェバからエルサレムまでの距離は徒歩でおよそ1日半。
その距離を歩くのに、アブラハム達は倍の時間を費やしました。
進んでは休み、休んでは進み、途中で全焼のいけにえを捧げるために必要な薪を拾い、何よりもその道中に、神様が全く別の道を示して下さるのではないかと期待し、その声に耳を澄ませながら、重い足を一歩、一歩と進めていったのです。
しかし、主の命令が変えられることはありません。
神様はずっと沈黙を守ったままでした。

その重苦しい沈黙の中、アブラハムは意を決したようにしもべたちを後に残し、イサクと二人きりで歩き始めます。

22:5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。
22:6 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。
22:7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
22:8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。

全焼の生贄のための薪は集めたけれど、肝心の捧げものである羊はどこですかと問うイサクに対し、アブラハムは主が生贄を備えて下さるのだと応えます。
しかし、アブラハムは知っているはずでした。
主が備えたいけにえとは、愛するひとり子イサクだということを。
「お前が生贄なのだ。」とは、アブラハムには言えませんでした。
言えるはずがありませんでした。
しかし、アブラハムのそのただならぬ気配から、イサクには何が起ころうとしているか容易く理解できたのではないでしょうか。

22:9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
22:10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。

アブラハムが、最後のこの瞬間まで神様に口答えをしたり、逆らったりしなかったのはなぜでしょうか?
それは、神様の約束を信じたからです。

「あなたの子孫を、星の数ほどにする。」「砂の数ほどに増やす。」「約束の子はアブラハムとサラの間に生まれ、その子孫からは王も生まれる。」という神様の約束。
これまで何度も疑っては神様を裏切り、罪を繰り返し、しかしその度に主の御手が伸ばされ、全てが祝福に変えられ、約束が果たされてきた。
その約束が、今回に限って破られるということはありえない。
主の約束は絶対に果たされる。
世界の創造主である神様は、例えイサクを殺しても、イサクを死者の中から蘇らせる事だってできるはずだ!

高熱の中で鍛えに鍛え抜かれた純金が素晴らしい輝きを放つように、
地の下で恐ろしいほどの圧力をかけられた石炭がダイヤモンドになっていくように、
ぎりぎりの中での試練を通してアブラハムの信仰はこの時、ダイヤモンドの輝きを放ち始めるのです。

すべての迷いを振り切り、アブラハムがその信仰によってついに生贄を捧げるその手をイサクに伸ばした時、アブラハムを呼ぶ声が、彼の脳裏に響きました。

22:11 そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
22:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。
22:14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。

③ 神様の苦悩
皆さんの中に、この話を聞きながらがっかりしている方がいるかもしれません。
私にはこんな信仰はもてない。
私なんか、神様に喜ばれない。
私なんか、祝福を受けることなんてできない・・・。

僕だってそうです。
「あなたの愛する奈緒美を、全焼の生贄としてささげなさい。」と言われたとしたら、僕にはどう考えても、奈緒美ののどに手を伸ばす事ができないだろうと思います。

皆さんがアブラハムの真似をする必要はありません。
これは、アブラハムの人生であり、彼に与えられた運命、彼に与えられた賜物なのです。

私達には私達の人生の中で、神様に委ね、捧げなければならないものがあるでしょう。
それは自分の財産かもしれない。
プライドかもしれない。
健康かもしれない。
私たちが何を偶像とし、手を放さなければならないか、それは皆さんがご存知でしょう。
そしてそれは神様のお取り扱いの中で、私たちのそれぞれの人生の中で、試練として与えられるものなのです。

愛するひとり子であるイサクを自らの手で生贄として捧げるという試練は、アブラハムだけに与えられた特別な試練です。
それは当事者であるアブラハムには思いもよらなかったことでしょうが、後の時代から見て初めてわかる秘密が彼の人生には隠されています。
私たちの罪の赦しを完成させるために、ひとり子を十字架につけた神様の痛みを、私達はアブラハムの歴史を通して知る事が出来るのです。

アブラハムは、自らのひとり子イエス様を、私たちに捧げて下さった神様の雛型です。
私達は愛する子イサクを捧げるアブラハムの苦悩に共感し、その壮絶さに想いを馳せる時、神様が私たちのためになして下さった犠牲の大きさがどれほどのものだったかを少しだけ理解する事ができるのです。

ヨハネ 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

罪人となり、神様から離れてしまった私たちを、神様はご自身の身が引き裂かれるほどに愛して下さいました。
ひとり子を与えられたほど私たちを愛して下さったという神様の愛を、皆さんは考えた事があるでしょうか?

僕には、他人を助けるために自分の命を犠牲にする事なら、もしかしたらできるかもしれない。
でも、娘の命を犠牲にできるほどに人を愛する事は絶対にできません。
神様のその愛が、私たちの上にも注がれています。
皆さんはそれを信じることができるでしょうか?

まだ、語らなければならない事の半分しかお話しすることができていないので、来週もこの箇所からお話をすることになります。
ですから来週いらっしゃる事ができる方は、今日のメッセージを覚えておいて下さると今度のお話の深みが増すかもしれません。
来週いらっしゃる事ができない方もいらっしゃいますが、教会のホームページからメッセージを読むか、再来週以降にCDで聞いていただければ幸いです。

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