創世記27:1-10 『祝福のゆくえ』 2006/09/10 松田健太郎牧師
創世記 27:1~10
27:1 イサクは年をとり、視力が衰えてよく見えなくなったとき、長男のエサウを呼び寄せて彼に「息子よ。」と言った。すると彼は、「はい。ここにいます。」と答えた。
27:2 イサクは言った。「見なさい。私は年老いて、いつ死ぬかわからない。
27:3 だから今、おまえの道具の矢筒と弓を取って、野に出て行き、私のために獲物をしとめて来てくれないか。
27:4 そして私の好きなおいしい料理を作り、ここに持って来て私に食べさせておくれ。私が死ぬ前に、私自身が、おまえを祝福できるために。」
27:5 リベカは、イサクがその子エサウに話しているのを聞いていた。それでエサウが獲物をしとめて来るために、野に出かけたとき、
27:6 リベカはその子ヤコブにこう言った。「いま私は、父上が、あなたの兄エサウにこう言っておられるのを聞きました。
27:7 『獲物をとって来て、私においしい料理を作り、私に食べさせてくれ。私が死ぬ前に、主の前でおまえを祝福したいのだ。』
27:8 それで今、わが子よ。私があなたに命じることを、よく聞きなさい。
27:9 さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎ二頭を私のところに取っておいで。私はそれで父上のお好きなおいしい料理を作りましょう。
27:10 あなたが父上のところに持って行けば、召し上がって、死なれる前にあなたを祝福してくださるでしょう。」
先週のメッセージで、聖書の価値観は比較の価値観ではないですよというお話をしました。
比較の価値観に関して、ハーベスト・タイムの中川健一先生がお話してくださったひとつの寓話を皆さんに紹介しましょう。
昔あるところに動物王国があり、学校を作ることになりました。
カリキュラムが検討されて、“走る”、“泳ぐ”、“登る”、“飛ぶ”の4つが必修科目となりました。
まずアヒルがやってきました。
泳ぎは抜群にうまいので泳ぎの授業は免除になりました。飛ぶのはやっとなのでぎりぎり及第点、走るのはヨタヨタと遅いので、補習授業を設けてもう訓練させました。その結果水かきのある足を痛めて泳ぐ事までダメになりました。
次に来たのがリス。
走るのも登るのも一番ですが、飛ぶのは全くダメです。地上から飛ぶ練習をさせ過ぎてノイローゼになり、自信を失って走る事も登る事もできなくなりました。
次にうさぎがきて走りました。
走る事に関しては一発で合格。でも泳げないので特訓した所、足の筋肉が炎症を起こしました。
最後に来たのがワシ。
飛ぶ事は一番ですが、登れというと勝手な方法で登り、泳げといっても泳ごうとしません。特訓させようとすると逃げるので、処置なしの問題児となりました。
念のために言っておきますが、これは学校批判のお話ではありませんよ。
国語が得意な子供には算数はやらせないで国語だけやらせなさいということではありません。
競争はさせてはならないとか、成績表をなくすべきだとか、そういう類のお話ではないので、早とちりしないようにして下さいね。
比較によって価値を見出そうとすると、本来持っている価値も見失ってしまいますよというのが、このお話のポイントです。
この寓話を念頭に置いた上で、エサウとヤコブの物語に目を向けていきましょう。
① 祝福のゆくえ
時間の関係もあって全部は読みませんでしたが、今日は27章全体からお話をしていきたいと思います。
1ヶ月ほど前に子供のお話の中で取り上げられた所だったので覚えていらっしゃる方も多いと思いますが、27章のあらすじを説明しながら今日のお話を進めていきましょう。
お父さんのイサクは双子の兄、エサウを愛していたんですね。
それはエサウが獲って来る肉がおいしかったからでした。
一方でお母さんのリベカは、弟のヤコブを愛していましたね。
この様に家族の中で起こっていた分裂は、いよいよ大きな問題を引き起こしていきます。
それはイサクがエサウに、内緒で祝福を与えようとする所から始まるんですね。
イサクはエサウに言う訳です。
「ワシはもう歳で、いつ死んでしまうか判らない。私が死んでしまう前に、長子としての祝福を誰が受けるのかをはっきりさせておいたほうが良いだろう。
お前は今から獲物を取ってきて、ワシの大好物の煮物を作りなさい。そうしたらワシはお前に祝福を与えてやろう。」
まずイサクは、家族に何の相談もなくエサウを長子としての祝福を与えようとしました。
妻のリベカと相談してこの事を決めていたら、それ程大きな問題にはならなかっただろうと思うんですね。
しかし、リベカに相談したらエサウに祝福を与える事を反対されることが判っていたのでしょう。イサクは内緒で事を始めてしまいます。
でもイサクの問題はそれだけのことではありませんでした。
先週お話したように、祝福はエサウではなく、ヤコブに与えられるということが、二人が生まれる前から決められていた神様のご計画でした。
イサクはエサウを偏愛するあまり、その神様の御心に逆らったんですね。
内緒で祝福を与えてしまおうとしたのです。
みなさん、私達が天国に行くことができるのは、洗礼を受けたからでしょうか?
私たちの罪が赦されているのは、聖餐式でパンとぶどう酒を食べるからでしょうか?
そうではありませんね?
私達クリスチャンは信仰によって罪の赦しを受け、天の御国にいく事ができるのです。
洗礼や聖餐式は、新しい命が与えられた事や、私たちのために死なれたイエス様を思い出すための形です。
信仰の伴わない聖餐が、ただのパン切れとぶどうジュースでしかないように、信仰によるのではない祝福はただのお題目であり、おまじないでしかありません。
この時のイサクは信仰をまったく失ってしまい、自分の権威によって祝福を与えようとする罪を犯してしまっていたのです。
② 罪を刈り取る
さて、イサクが勝手に祝福をエサウに与えようとしている事を知ったリベカは焦るんですね。
「このままでは、祝福がエサウのものになってしまう。」
「祝福は私の可愛いヤコブのものでなければならないのに。」
そこでリベカはヤコブに命じます。
「いいかい、よくお聞き。あなたのお父さんは、これからエサウに祝福を与えようとしています。あなたはこれから群れの中から最上のやぎを2頭私のところにつれておいで。私がそれでお父さんの大好物の料理を作ってあげるから。そうしたら、あなたはエサウのふりをしてその料理をお父さんの所に持っていきなさい。お父さんはエサウだと思ってあなたに祝福を与えるでしょう。」
ここでイサクを騙すため、ふたりは色々な方法を考えるわけです。
エサウの晴れ着を着てエサウの匂いを体につけたり、ヤコブはエサウのように毛深くないので、やぎの毛皮をまとってみたり。
嘘がばれてしまったら祝福どころかお父さんに呪いをうけるのではないかと恐れるヤコブをリベカは説得します。
「その時には私がその呪いを受けるから、良いから言う通りにしなさい。」と言うんですね。
母の愛と言うよりは、もう女の執念になってしまっています。
「祝福は絶対に私のかわいいヤコブちゃんのものよ!」みたいな。
どうですか?
これは、信仰でしょうか?
いいえ、これも信仰と呼べるようなものではありません。
先週お話したように、アブラハムに約束されて引き継がれてきた祝福は、兄ではなく、弟のヤコブに与えられるというのが神様の計画であり、リベカはそれを聞いていたんです。
しかしイサクがエサウに祝福を与えたら、その祝福はエサウのものになってしまうとでも思ったのでしょうか?
それとも、どんなものであれ全ての祝福はヤコブのものであるべきだとでもリベカは思ったのでしょうか?
これもすべて比較の価値観に他なりませんね。
神様は祝福をヤコブに与えると言ったのです。
ならばイサクがどうしようと、エサウがどう思おうと神様の言葉を信じていればそれでよかったのです。
イサクがどんな方法でどんな祝福を与えようと、神様がヤコブに与える祝福を妨げる事はできません。
そして、それ以上の祝福はヤコブには必要の無いものなのです。
家族の間に起こった亀裂と、彼らの不信仰は、エサウとヤコブというふたりの双子の上に深刻な影を落としました。
アブラハム契約からくる祝福は最初からエサウに与えられていませんでしたし、最初から価値も見出していませんでしたが、エサウは祝福と長子の権利がヤコブに騙し取られたと感じたとき、その怒りは憎しみとなり、ヤコブへの殺意へと変わっていきます。
リベカは大切なヤコブをエサウから守るために、ほとぼりが冷めるまでの少しの間、リベカの兄ラバンの元にヤコブを送りますが、結局それが最後の別れとなり、生きている間にはヤコブの顔を二度と見ることはありませんでした。
この経験を通して、イサクは神様の選びが決して変えられない事を学び、最後には心からヤコブを祝福しますが、自分の欲望から勝手に選んだエサウはずっと彼らの元に留まり、エサウの身勝手に悩まされる生涯を送ることになります。
そしてヤコブは、自分の策略によって手にしたと思ったはずの長子の権利とはすっかり引き離された20年間をこれから送っていくことになるのです。
パウロの言葉を思い出しましょう。
ガラテヤ 6:7 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。
6:8 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。
この様にして、それぞれの方法で、彼らは自分のまいた罪の種を刈り取っていく事になるのです。
③ 私たちに与えられている祝福
さて、このお話から私達が得ることができる教訓は何でしょうか?
ヤコブは確かに嘘をついたという結果、その罪を刈り取る20年間を過ごす事になりますが、それで祝福が失われたわけではなく、やがてヤコブはイスラエルと呼ばれるようになり、まさに神様の約束の通り、選びの民が彼から生まれていくことになります。
ここで皆さんに考えていただきたいのです。
ヤコブはこの祝福を、どうやって手にしたのでしょうか?
エサウから奪い取ったからですか?
ヤコブがエサウより良い人間だったからですか?
そうではありません。
何度も言うように、神様の祝福は最初からヤコブに与えられていたのです。
ヤコブがその祝福を得るためにできたことはひとつだけ。
神様から与えられる祝福を求め、それを受け取ったということです。
アブラハム契約からくる祝福を与えられていたのは最初からヤコブだったとは言え、本来ならばエサウはエサウとして、別の祝福が与えられていたでしょう。
しかし、聖書にはエサウが祝福を得たとは書いてありません。
それはなぜでしょうか?
それは、エサウは最初から最後まで、神様から与えられた祝福を求めようとしなかったからです。
イエス様はこの様に言いました。
「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)
私達は罪人です。
本来ならば、神様が与えられる祝福など受けるに値しない存在です。
しかしそれでも神様は与えて下さっている。与えようとして下さっている。
私達が求めさえするなら、私達はそれを手にすることができるのです。
しかし、それは逆に言えば、求めない限り与えられない、捜さない限り見つからないたたかない限り開かれないということもできます。
イエス様のこのようにも言っているのです。
聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。(マタイ7:6)
豚に真珠という諺の語源ですね。
どんなに素晴らしいものでも、そこに価値を見出せないのなら受け取ろうとはしないでしょう。
皆さんは聖なるもの、あるいは真珠に価値を見出す事ができるでしょうか?
皆さんには、すでに与えられている祝福があります。
でも僕に与えられた祝福と、皆さんに与えられている祝福とは違うでしょう。
それは泳ぐ事かもしれない。
走る事かもしれない。
登る事かもしれない。
あるいは飛ぶ事かもしれない。
しかしその祝福を他人との比較の中で見出そうとするなら、与えられているものの価値を見出す事はなく、最終的には与えられているものを失う事にもなるかもしれません。
皆さんに与えられている祝福は何でしょうか?
それを考えてみる機会にしてみてはいかがでしょう。
④ 祝福を受け取る
最後にもうひとつ。
これが一番たいせつなポイントです。
それは、私たち全てに与えられている共通の祝福のことです。
私達に等しく与えられている神様からの最大の祝福、それはイエス様が十字架で流して下さった尊い血潮です。
私たちはそれを受け取る時、私たちの罪は赦され、神様の子となり、永遠のいのちを受けることができると約束されています。
求めれば、必ず与えられます。
しかし私達がそこに価値を見出すことなく、受け取ろうとしないなら、決して手に入れることはできないものです。
人から譲り受ける事も、奪い取る事はできません。
私たちの善行によって買い取る事もできないものです。
もし皆さんが、まだそれを手にしていないのであれば、今日がその時です。
神様に与えられた祝福を、皆さんが手にして、帰る事ができるように心からお祈りします。